東北アジア研究

雨森芳洲『交隣提醒』試訳

2009年03月15日

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。

「東莱入」(日本側が、東莱府に行って交渉すること)と申すことを、まるで東莱府と果し合いをしに参るがごとく考えたり、または生きて帰らぬことのように考えて東莱府と合い構える風潮は、ぜったいに懸案に埒を開けなければならないかのように思い込んでいるからです。だがこれは、了見違いです。
たとえば、宴会の席で酒のついでに相手方に申したりして委細を語ることができなかったので、その後に訳官を通じて伝えたところ、相手が意味を受け取り難かった。そんな場合、とにかくも東莱府に参上して直談判で細かく相手側に申し伝えなければならないごときご用件は、必ずありうるものでございます。そんな場合が起ったならば、事前に約束を取っておいてから東莱府に参上することは、日本向きにたとえて申せば、田代(訳者注:肥前国にあった対馬藩領)の役人が、柳川藩(立花氏)あるいは久留米藩(有馬氏)に参上して、その地の役人と対談することと、同然のことでございます。
上のような場合、面談して埒が開くことも、ございます。また、埒が開かないことも、これまたあってしかるべきでございます。ゆえに、東莱にさえ参上すれば、何事にても相済むはずだと心得る理由など、ないのです。みだりに果たし合うべきことも、ございません。
(日本側は、原則として倭館から出てはならないと定められているので、)その境界を犯してかの方へ参上する場合、元来が容易に事が運ぶものではございません。ゆえに、東莱府に面談に及ぶほどのことでもないのに、東莱府に参上すれば訳官どもが難儀するだろうと考えて、訳官に苦労させて埒を開けさせるべしと計算して東莱府に送り付けようなどとすることは、思慮の浅いことでございます。

両国の板ばさみとなる日本の訳官たちは、辛い。上のような国家間の思い違いは、現代でも毎日のように起っていることであろう。事情をよく考えもせずして、訳官に相手国に行かせて、お前ら談判してこいと、上の連中がふんぞり返って命ずる。実は、外国との交渉とは、国内の組織どうしの交渉と、どれだけ違うというのか。芳洲の時代だから藩を引き合いに出しているが、現代ならば企業や役所を考えればよい。談判して、通ることもあれば通らないこともあるのは、国内でも同じなのだ。いやむしろ、外国だからこそ、通らないことの方が多い。もし通るとすれば、それはきっと自国の勢威を相手が恐れているためだ。だから、アメリカの要求は日本ですぽんすぽんと通る。日本の要求は、外国に通らない。
現場を知っている芳洲だからこその、後世への教訓である。

この東五郎(芳洲の通名)は二十二歳のときに、ご奉公に召し出されて、江戸に参りました。(対馬藩の)在勤の面々が語る話が言うには、「朝鮮人ほど、鈍なる者はこれなし!」というものでございました。「炭唐人」という名前の炭を運び込む者がいたのですが、もしも炭を持って来なかった場合、手に印判を押して「明日持ってこい」と言い付ける。そうすれば、翌日には必ず炭を持って来て、「この印判を消してください!」と申すというのです。(出入りの者は)大勢いるのだから、かの者を我らがいちいち覚えているわけもなし、それどころか印判などは洗って落としてしまえばそれでおしまいなのに、必ず戻ってくる。面白いものだ、との話でございました。
しかしこの東五郎が思いますに、鈍だったからでは、ありえません。きっと、当時は(文禄慶長の)乱の後の余威が強かったために、上のようなことが起ったのだと、私は思いました。
その後、三十六歳の時、朝鮮語の稽古のために、かの地へ渡海いたしました。ある日、町代官の一人で、以前の流儀を覚えていた者がいて、「炭唐人」を持って来なかった者を叱り、上着の袖を縄でくくり上げるべしと申し渡したところ、この朝鮮人はことのほか立腹して、その横に全(チョン)別将と申す訓導(フンド。訳者注:地方の教育を担当する、地方官)の書手がいたのですが、この者がまた目を怒らせて、「我が国の人を辱めるとは、どういうことだ!」と散々に申したので、上の代官は恐縮してしまい、命を実行しませんでした。
この例を挙げて見ましても、わずか十四ないし五年の間に、風向きが変わってしまったのです。だいたい壬辰の乱(すなわち、文禄の役)以降、万勝院さま(第十九代藩主、宗義智)ご一代より、光雲院さま(第二十代藩主、宗義成)のご初年までは、恐れられていました。光雲院さまの中ごろから、天龍院さま(第二十一代、宗義真)のご初年までは、避けられていました。天龍院さまの中ごろから以降は、慣れられています。恐れられ、避けられていた時分は、かの方は下手に出ていました。慣れられている時分には、強い方が上手に立ち、弱い方が下手に立つはずでございます。天龍院さまのご時代の中ほどまでは、まだ慣れることも浅うございました。しかし今日に至るや、慣れること深くなっております。ゆえに今後は、「これに乗じて、これを陵(しの)ぐ」との言葉どおり、威力権柄は向こう側に移り、こちら側はかえって卑屈になるであろうことは、時勢の勢いでございます。ゆえに、「正大をもって心を為し、理義をもって務めと為し」、前後を図り処置すべきかと、存じます。「強禦(きょうぎょ)を畏れず、鰥寡(かんか)を侮らず、剛(こわ)きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くらわ)ず」と申す言葉は、世に処する道を申す言葉でございますが、朝鮮とご隣交する際にもまた、この言葉をお心得になること、切要でございます。

芳洲は、鋭い観察者である。そして、凛とした儒者である。このくだりは、彼の資質が見事に現れている。
昔は侵略の記憶が生々しかったので、朝鮮人は日本人を恐れ避けていた。しかし、芳洲が二十二歳のときに江戸で対馬藩士から聞いた話と、三十六歳になって自ら朝鮮に渡海して見た実情は、まるで違っていた。芳洲はまず木下順庵の門を叩いて儒学を修め、師の推薦により二十二歳で対馬藩に真文役として、召抱えられた。彼はそれからずっと朝鮮との関わりの中で仕事を続けたのであるが、彼が勤務した年月のうちに、かの国の日本に対する印象は、変わってしまった。芳洲は、今や朝鮮人は日本に慣れてしまっていて、今後この勢いはますます高まるだろう、と懸念しているのである。
そこで、芳洲は今の藩主に向けて、教訓を述べる。
-正大をもって心を為し、理義をもって務めと為せ。
正しい心を、持ちたまえ。そして、道理をわきまえることに、務めたまえ。芳洲の言っていることは、仁義の道を進みたまえ、ということである。朝鮮もまた、儒教国である。仁義の道を進めば、相手は分かるはずだ。もし分からなければ、それは相手の落ち度である。卑屈にならず、正義正道を述べよ。芳洲は、日本固有の考えに留まらず、世界思想である儒学を学んでいた。だから、彼は国家間にでも通じる普遍的な道があることを、知っていた。現代でも、そうである。儒教のシステムは地球レベルで全面的に通じるわけではないが、正義の道だけは、万国不変のはずだ。それが通らないならば、何かがおかしい。我が方が悪いのではないと確信を持ちたければ、普遍的な正義を求めて、それに依拠したまえ。
-強禦を畏れず、鰥寡を侮らず、剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄うなかれ。
力強いだけの者を、恐れてはならない。不義の強者は、人間の敵である。
鰥寡(やもめ)を、侮ってはならない。「鰥寡孤独」という言葉がある。男女のやもめと、身寄りのない老人と、孤児のことを指して言う。儒教では、こういった社会の弱者たちを真っ先に救うのが、仁政であると教えている。それは、人間に対する、温かい思いやりである。人間を愛する者は、人間の味方である。
剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くら)わず。難しいことでも、正道を通りたいならば、避けてはならない。安易なことでも、邪道であるならば、取ってはならない。
人の品格も、国家の品格も、畢竟は一緒である。暴圧を退け、卑屈を取り除く。そのためには、普遍の道を、通るにしくはなし。芳洲の、現代人に向けた遺言とも、取ってよい。

Korea!2009/03/16

2009年03月16日

衆議院議員、山田正彦氏(民主党、長崎県三区選出)に私が送った書簡を、以下に公開します。
(09.03.16、永田町の衆議院議員会館宛てに送る)


前略。
対馬島が属する衆議院長崎県三区を代表されている国会議員である、山田先生のホームページを拝見いたしまして、一筆申し上げたくワープロの前に座りました。
ホームページには投稿フォームもございましたが、長文であることと、できれば昔からの伝統である、紙の上にしたためた手紙をお渡しした方が誠実なのではないかと思い立ちました。しかしなにぶん極度の悪筆ゆえに、手書きは避けました。ご容赦のほどを。

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Korea!2009/03/16

阪急電鉄に続いて、JR西日本からも回答があった。
以下に、その全文を掲示する。

鈴元 仁様
いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。
また、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
関係部署からの報告に基づき、頂戴いたしましたご意見についてご回答させていただきます。
ご指摘の英字でのご案内についてですが、路線図式の運賃標への表記については、英字だけでなく、漢字やひらがな等を含めた全体の見やすさと分かりやすさを確保するため、情報の内容、表現方式(表示方法、デザイン、色彩等)、掲出位置(高さや配置間隔など)を考慮して体系的に配置しており、英字については主要駅の表示としております。
関西空港駅を含め、海外のお客様も多数ご利用になる主な駅については、路線図式の運賃標とは別に表形式の英字運賃標を設置しておりますので、きっぷをお買い求め頂く際に、併せてご利用頂いております。
みどりの券売機につきましては、一部業務以外は「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
また、一部の近距離券売機でも同じく「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
なお、券売機の老朽取替に伴い、英語対応可能な券売機を増やしているところです。
中国語と韓国語については、現在のところ表示する予定はございませんが、今後の参考とさせて頂きます。ご理解の程よろしくお願いいたします。
今後ともJR西日本をご利用いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

阪急の前例に引き続き、私からのJR西日本への回答のメールを、ここに公開する。

私の意見へのご回答、誠にありがとうございました。
しかし、ご回答の内容でございますが、残念ながら私にとって満足のいくものでは、ございませんでした。
主要駅には表形式の英字運賃標が置かれていると、おっしゃる。
どうして、全駅に設置しないのでしょうか。
貴社の現在の対応では、外国人がマイナーな駅から乗り、マイナーな駅で降りることは、できません。
日本語は、トルコ語のようなローマ字表記では、ないのです。私が韓国に行ったとき感じたように、外国人にとって日本語の漢字とかなは、ミミズがはいずり回っているような呪文にしか、見えません。ガイドと引き比べて参照を試みるだけでも、うんざりしてくる代物なのです。その事情が、いま一つお分かりになっておられないように、見受けられます。貴社の皆様は、アラブ文字を読む気力がありますか?カルナータカ州で公用されるカンナダ文字を、旅先で解読してやろうという、殊勝さがありますか?日本の漢字とかなは、これらの文字よりも、ずっとずっと数が多くて、外国人が覚えることが事実上不可能なほどに難しいのですよ。
もしや、外国人にはそのような用事などあるはずなく、あるいは外国人は隠れた名所を観光しようという興味がない鈍物揃いであるとでも、思われているのでしょうか。
もしそうであるならば、貴社は外国人を侮っているのであり、そして日本のことを積極的に見せようとしない、日本の観光立国化を妨げる鉄道会社だということになってしまいます。
いま一度、申し上げます。
果たして、主要駅からバス・タクシーを使って、外国人が目的地に行くことが、果たして今の日本で容易でしょうか。
かつての国鉄から鉄道路線を受け継ぎ、西日本の各地に網の目のように鉄道を保有しておられる貴社は、異国の人を日本国内の好きな所に送り届けてあげる社会的責任があると、私は思います。
どうせ貴社の社員・駅員の皆様方といえども、日本人です。現在の日本人が、英語を習得できるわけが、ありません。よって、社員・駅員の方々に、口頭によるサービスを外国人に用意することは、おそらく非能率かつ効果薄です。
これは、阪急電鉄にも申し上げたことです。
どうして、日本の企業であるならば、券売機や掲示板にテクノロジーを用いて、各国語で読めるように、工夫をこらさないのでしょうか。
社員や駅員は外国語が話せなくても、機械は話すことができます。
英語、韓国語、漢語(中国語)といわず、全世界の言語をもって乗り降り・運賃をガイドできるような券売機を、今後よろしく開発したまえ。
デザイン上、路線図の全ての駅に英語標記ができないとおっしゃるのならば、路線図に光学的工夫を行なって、ある地点から見れば路線図が英語標記に映って見えるような仕組みを、よろしく企画したまえ。日本のテクノロジーならば、おそらくどこかの企業が、すでに開発しているはずです。
異国の民に日本の隅々までを知らしめ、加えて日本のテクノロジーの優秀さを示して、日本の誇りとなりたまえ。
もとより、私の申しているのは、全てホラ話です。
しかし、イノベーションはホラ話から始まることを、できれば理解してください。
貴社の今後のご発展を、心よりお祈り申し上げます。

おそらく、私の意見は、通らないだろう。
それが、大企業だ。官僚組織だ。
JR西日本一社の、罪ではない。
今の日本企業は、おしなべてこうなのだ。狭い池の中の、錦鯉。見てくれは綺麗であるが、何一つ自由に動くことができない。そして、自分たちが狭い池の中に住んでいることですら、もう忘れてしまっているのだ。そのうち、病気になって鱗がはがれて行きますよ。そうなったらもう、鯉の味噌汁にも値しなくなるであろう。

姜在彦『朝鮮の開化思想』

2009年03月17日

ところが八五年四月に日清間の天津条約が成立して日清両軍は完全に朝鮮から撤退したが、守旧派政権が復活して開化アレルギーが政府内部に蔓延し、日清戦争に至るまでの一〇年間は、開化運動のきびしい雌伏期となった。ところが朝鮮をめぐる日清間の対立のほかに、一八八五年四月イギリス極東艦隊が巨文島を不法占領したため(八七年三月に撤退)、朝鮮をめぐる英露の対立が露呈した。この一八八五年にアメリカから帰国して軟禁状態にあった兪吉濬および、ドイツ総領事代理バッドラー(H.Budler)によって中立化論が提起されたことは注目に値する。両者間には「バッドラーは朝鮮中立化のモデルをスイス(蕊斯国)に求めているのにたいし、兪吉濬はそれをベルギー(比利時)とブルガリア(発佳利亜)に求めている」差はあるが、この中立化論はいずれも世論を形成するまでには至らなかった。
(姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.229)

兪吉濬(ユ・キリョ)およびバッドラーが提案した半島中立化案は、姜尚中東大教授が現在提唱している半島永世中立化案と、平仄を合わせている。
スイス同様周囲を列強に取り囲まれている中堅国であるコリア半島の地政学的位置付けから、中立化論は論じられている。すなわち非同盟の道であり、どの国とも偏することを行なわないことによって、国家と周辺地域に平和をもたらそうという、アイデアである。
まことに、説得力がある。
コリア半島は、かつての二千年の歴史において、三度日中の軍事衝突の場となった。
七世紀、新羅(シルラ)を巡った、唐と日本の争い。
十六世紀、李氏朝鮮を巡った、豊臣秀吉の侵略軍と明との争い。
十九世紀、再び李氏朝鮮を巡った、明治政府と清との争い。
その上に、二十世紀初頭の日露戦争と、二十世紀中葉のKorean Warがある。半島は、日本、ロシア、中国の三大列強に取り囲まれている、東北アジアの火薬庫なのだ。
これを繰り返してはならないゆえの、永世中立化案である。
この意見は、重く受け止めなければならない。
ただ、永世中立化案は、スタティック static なモデルである。現状は維持されるが、動的な経済と社会の発展は、回避される。
全て、半島の民しだいであろう。
永世中立化して周辺諸国から距離を置き、東方の隠者に戻るか。
それとも、ダイナミック dynamic な東北アジアの同盟を目指して、民族の歴史を揺さぶり動かすか-
ただ、永世中立化案では、日本との和解は残念ながら無理である。日本は国益を賭けてまで、中立国に肩入れすることは、できない。

Korea!2009/03/17

朝鮮日報(チョソンイルボ、조선일보)への投書を、以下に公開する。
朝鮮日報は、東亜日報、中央日報と並ぶ、韓国三大紙の一である。
各紙を比較検討しながら同時に投書を送りつけるのは、先方への侮辱となる。ゆえに、今は一社だけに絞って、投書した。
どうして朝鮮日報を選んだのかの理由は、ただ一つ。
三紙ともに、オンラインの日本語版がある。
朝鮮日報の訳が、最も本当の日本語を用いている。他二紙は、残念ながらわずかに日本語がおかしい。他二紙とも記事の意味は読み取れるのであるが、文脈にふさわしい語彙の用い方や、ひらがなで表記するべき用語か漢字で表記するべき用語かの「呼吸」とも言えるニュアンスが、日本語から多少離れている。
日本人の書いたものの趣意を、誤解することなく完全に読解している新聞社は、よって朝鮮日報であろうと、判断した。
日本語版Wikipediaなどには各紙の主張・傾向などが印象批評されているが、はっきり言って聞く耳持たない。
先進国の大新聞ならば、一方的に偏った記事が、書けるわけがない。右か左か保守か革新かなどの傾向は、程度の差にすぎない。朝鮮日報は聞くところによると保守系らしいが、保守主義者だから他人の意見を聞かないなどと決め付けるのは、どこかの左翼小児病者だけである。
よって、私や、他の日本人が書いた日本語をもっとも正しく解読できるであろうという印象を受けた、朝鮮日報に今回投書することとした。
日本語は、極めて難しい言葉なのである。まず日本語の文書や書物は、海外で誤解されていると、思ったほうがよい。
P.S.
残念ながら下のメールは、受信されなかった。
日本語版でだめ、英語版を経由しても、だめであった。
スパムメール対策でも、しているのであろうか。だったら、サイトに明記するべきである。
残念ながら、当社は日本人の意見を(そして、外国人の意見を)積極的に聞こうとしていない姿勢であると、見受けられる。よって、他二紙に投稿する。


前略。
私は、一介の日本人です。
貴社におかれましては、充実したオンライン日本語版を置かれ、その日本語もこなれて表現が適正であると判断いたしますので、日本語で投書をさせていただきます。もしこの投書の日本語で不明な箇所がございましたら、私にお問い合わせいただければ、日本語ないし英語にて、ご返答申し上げます。ただし、私は韓国語がほとんどできませんので、韓国語でのお問い合わせにお答えすることは、残念ながらできかねます。ご了承のほどを。

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姜在彦『朝鮮の開化思想』

2009年03月18日

「三、東西の長所を打って一丸とした日本の文化を、そのまま何の労苦もなく、韓国に取り入れるのは極めて有利であるが、それには、日本の言葉を知るのが捷径で、教科書の如きも、日本仮名の所を諺文に改めると、直ぐにそのまま韓国のものとなる。」

一九〇四年、韓国政府の学部参与官として学制改正に着手した幣原坦の「五つの方針」の一、「漸次日本語を普及せしめる」である。姜在彦『朝鮮の開化思想』から引用した(pp.354)。
韓国語を少し学習すれば理解できるように、日本語と韓国語は語彙と文法が、酷似している。
この事実を発見した日本人が、小躍りして幣原のように結論付けることは、最もありえることである。
一九〇四年八月の日韓協約以降の日本人は、幣原のごとき錯覚に反省を加えることなく、日本人≧半島人の図式を頭から信じきった。世界五列強の一に成り上がった日本の勢威が、その錯覚を通らせてしまった。
もとより、日本語と韓国語は、別の言語である。
スペイン語とイタリア語のような、真の兄弟言語ではない。外部からの文化的影響によって結果的に酷似することなった、同窓生といってよい言語である。日本語の母音の響き、花の色を愛でる感性、情に流される情緒性。韓国語の子音の響き、石と水の簡素を愛する感性、主張を凛として保つ固執性。何もかも、違う。
一九〇四年以降四〇年余続けた日本の勝手な思い込みによる暴挙的併合政策は、一〇〇年後の現在においても、日本人の心中で反省されることもなく、保たれている。何という、怠惰な精神であろうか?

姜在彦『朝鮮の開化思想』

内田はつぎのように書いている。「著者が斯くの如く日韓併合を急いだ所以は、支那革命の機運既に熟し、数年を待たずして勃発すべき形勢にあるを以って、支那革命に先立ち合邦せざるに於いては、韓国の人心支那革命の影響を被り、如何なる変化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならず、満蒙独立の経綸も行ふ可からざることとなるべき憂ひがあった。」
(姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.382)

又引きが続くが、読書ノートなので原典を探らず引用する。
上は、国粋主義団体黒竜会の創設者、内田良平(1874-1937)が、1932年に出した『日本之亜細亜』からの引用である。内田は、韓国の合併促進団体一進会と提携し、日韓併合に奔走した策士であった。
なぜ日露戦争後に日本が日韓「併合」を – 日本が「併合」の言葉を用いた理由は、「韓国ガ全然廃滅ニ帰シテ帝国ノ領土ノ一部」とする本意であるにも関わらず、過激な表現を避けただけであった(上書pp.421) – 急いだのかの理由は、内田の回想の言葉が、最もよくそれを表している。日本は韓国を帝国主義戦争の果実として断固確保するスケベ心を丸出しにしたのみならず、すでに「併合」時点で後の時代の満蒙侵略が、国家のビジョンとして見えていたのである。そのための足がかりとしての、コリア半島領有であった。
司馬遼太郎は昭和戦前の日本を「鬼胎」として日本史からの逸脱であったと見たが、あれが「鬼胎」であったのならば、内田のビジョンを実行に移した伊藤博文や山県有朋といった、明治国家の元勲たちがすでに日本史の「鬼胎」であったということになる。残念ながら、司馬遼氏の明治・昭和史観は、重大な修正を必要とすると、私は評価せざるをえない。日韓併合以降の日本は、まず半島を策源地として工業化し、進んで中華民国を分割占領する国策に、ほぼ一貫していた。満州事変以降の日本は、それまでの日本史からの逸脱でも何でもない。伊藤が、山県が、敷いた路線の上であった。戦前に学生であり一庶民であった司馬遼氏は大日本帝国によって散々な目に合わされたが、彼にのしかかった大日本帝国という存在自体が、明治からの着実な積み上げの結果であった。東北アジアの文明から生まれ出て、にわかに十九世紀の西洋帝国主義の礼儀作法を学んで東洋の猿真似国家となった大日本帝国じたいが、「鬼胎」であった。そう評価しては、いけないのであろうか?

鮮人が最近数年間、所謂国家の岌業(きゅうぎょう。大きな事業)に際会するや、其開化の迅速なること、恐くは明治二十年間に吸収したる文明を、鮮人は僅々数年間に会得せるもの如く、現今の鮮人を六、七年前の鮮人と比するに全然形貌を一変し、京城市街の面目が毫も旧慣を止めざるに至りたる変化よりも、遙かに速かなるものあることは之を公言するに躊躇せず、、、
輓近鮮人思想の急変を見ては、真に寒心に堪えざるものありと存す。蓋し鮮人を統ぶるの方策は、秋霜烈日一毫も仮借する処なく、先ず其初めは討伐にあり、討伐して而して後に威圧あり、威圧して而して後に綏撫あり、綏撫して而して後に鮮土初めて平安なるべし。

朝鮮総督府警視国友尚謙の『不逞事件ニ依ッテ観タル朝鮮人』からの引用である。なお、読みやすいようにカタカナをひらがなに直した。
国友が「寒心に堪えず」と言っているように、半島人は日本人が侮っていたほど、魯鈍な民ではなかった。単に、李朝五百年の積弊が、民衆の力を抑圧していただけであった。焦った国友は、そして日本当局は、ただ討伐、威圧を持って望んだ。日本の半島支配は、その当初から失敗していた。
日本は、十五年前に棚ぼたで台湾を領有して、ここを土匪の住まう土地のように討伐と威圧をもって制圧し、かなりの成功を収めた。日本の韓国支配は、明らかに台湾での経験を半島に当てはめたものであったに、違いない。しかし、半島は台湾とは、全く違った世界であった。台湾の住民に蔓延していた阿片中毒の弊も、アナーキーな村同士の私闘(械闘という)も、韓国には存在しなかった。韓国は、出遅れはしたが日本と潜在的に同水準の文明を、持っていたのであった。

大勢より察するに、今日は既に暴徒蜂起(義兵運動)の時期を経過せり。勿論再び蜂起することなきを保し難しと雖も、予の察する所に於て将来の危険は、人民の文明に進むに随って起るべき無政府主義、社会主義等に類する危険なりとす・・・

一九一〇年七月に警務総長を兼任した韓国駐箚憲兵隊司令官明石元次郎(1864-1919)の、就任早々の訓示であるという。
明石は、いっぱんに日本では、日露戦争時にストックホルムにあって第五列を利用し、ロシア帝国内に騒擾をもたらしてロシアの挫折に手を貸した英雄として、描かれる。
しかし、戦争の後に彼がその辣腕を買われて、韓国併合時点の警務総長として半島人への弾圧を指揮した事実は、日本人のとんと知るところではない。
明石は、安重根(アン・チュンクン)の従弟で独立運動を画策していたという(事実は不明)安明根(アン・ミョンクン)を、カトリック教会の密告をネタにして逮捕・拷問し、それを皮切りとして半島において愛国啓蒙運動の活動家一六〇人余を一網打尽にして、拷問・起訴・徒刑に処した。
この一九一〇年十二月の「安岳事件」は、一年後の一九一一年に、民族振興を目的に結成された秘密結社「新民会」を対象に一大弾圧を加えた、「百五人事件」のさきがけとなる日本武断当局の行動であった。すなわち、一九一〇年末に企画されていたという(事実は不明)寺内朝鮮総督暗殺未遂の嫌疑をもとにして、一九一一年九月の平安北道在住の李範允なる青年を逮捕・拷問した後、翌年三月にかけて六〇〇余名の逮捕が断行された。拷問による死亡者四名、発狂者三名を出した後、一二八名が起訴、うち一〇五名が有罪判決を受けて刑に処された。ゆえに、百五人事件という。明石や、国友は、日本の機能的な警察力を活用して、半島人の地下独立運動に鉄槌を加えたのである。
「新民会」は秘密結社であったが、その活動は(もとより秘密結社だから不明であろうが、)テロリズムというよりは愛国教育事業の振興や、民族産業の育成にあったと想われる。そういった半島人の自律的活動力までを、日本当局は敵視して、窒息させようとした。日本は、併合当初から、半島人の活動力を恐れていたのである。これでも、「半島の植民地化には恩恵があった」などと、日本人は胸を張って言う勇気があるか。
こんな野蛮を隣国にしなければならなかった「明治という国家」は、司馬遼が追慕するようなよいとこずくめの結果を、後世のわが日本民族に残したのであろうか。
日露戦争の英雄、明石元次郎は、戦争後も生きて、仕事に精を出していたのである。そして、彼が忠勤した大日本帝国は、「坂の上の雲」を通り過ぎた後、打ち負かしたロシアに成り変わって、凶暴な民族の牢獄と化していったのであった。

Korea!2009/03/20

2009年03月20日

朝鮮日報へのメール送信が拒否されたので、別紙に送ることにする。先方から拒否された以上、別紙に鞍替えしたところで、礼を失することにはなるまい。
中央日報(チュンアニルボ、중안일보)は韓国三大紙の一。日本語サイトもある。日本語サイトの特徴は、日本語での投稿が公開されていること。産経新聞のiza!に通じるものがある。
それにしても。
投稿された内容が、判で押したように、嫌韓である。
これに投稿している阿呆どもは、気づかないのか。
この新聞がこうして諸君らの投稿を公開しているのは、日本人が野蛮人であることを宣伝するための、素材にしているのだ。
これに嫌韓の投稿をしている者は、新聞の策略に踊らされている低能か、あるいはわざと投稿して日本を貶めようとしている、売国奴である。きっと、投稿のうち何割かは、売国奴が投稿している。中央日報のウェブマスターは、嫌韓の投稿を削除しなければならない。
とにかく、中央日報にメールを送付した。内容は、以下のとおり。前回の朝鮮日報宛ての内容を、中央日報に送るために添削しただけで、主文は変わらない。


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Korea!2009/03/20

本日、夕映舎氏と祇園のコーヒー屋で、談怒。
談笑と書くよりも、韓国を語るときには、こう書きたい。
私が、「秀吉については、これを悪人として歴史を再定義しなければならない」と言った言葉を、夕映舎氏は斥けた。
「一方的な謝罪なんざ、やってたまるか。秀吉は、日本史の誇りの一つや。それをまるまる否定するなど、日本を否定することや。伊藤博文も、吉田松陰も同じ。日本史にとっては、大事な英雄や。フランスがナポレオンを否定したり、中国がフビライを否定するか?もっと、客観的な歴史的評価を双方で持てるところに導いていくのが、互いが誇りを持って認め合うことやないのか?」
私は、これまでそれができなかったから、まずこちらから頭を下げて、動き出させる必要があるのではないか、と反論した。
「たとえば、ドイツのビリー・ブラントが謝罪したように、、、ドイツでナチスを肯定する言葉を、自ら封殺したように。」
夕映舎氏は、言い返す。
「ドイツは、ナチスだけに罪をなすりつけることができる、歴史やった。日本史は、そうやない。誰にでも罪があるように、なってしまう。どこまでも遡って、収拾がつかない。」
この部分は、微妙である。ありていに言えば、ナチスだけに罪が本当にあったのかどうかは、歴史が評価するべき問題である。切り返して言えば、ドイツ史より責任の所在があいまいな日本史であっても、あえて誰かを最終的な責任者として断罪し、象徴的に過去を反省させる歴史評価の道を取ることも、できるはずなのだ。
しかし、夕映舎氏は、言った。
「そうなったら、天皇になる。」
これは、急所である。私たちの論議は、それ以上先に進めなかった。
この急所を回避せざるをえないために、これまでの政治は日韓を、さらに日本が侵略した諸国とを和解させることに、失敗したと言えるのであるか。
だが、このままでは、将来もまた日本は周辺諸国から、孤立したままだ。そしてそれは、日本の没落への道を、きっと開いていく。
夕映舎氏は、私に言った。
「政治と同じ言葉を、使ってはいかん。同じ言い合いの、繰り返しや。だが民の意見は、もっと別のところにあるはずや。そこから、搦め手で盛り上げて行く。それが、お前のするべきことではないか?」
彼は、秀吉を祀った神社なども、必ず韓国人に見てもらうべきだと、主張した。
秀吉を英雄として祀るのが日本史である以上は、隠してはならない。見てもらわなければ、こちらの誇りを保つことができない。譲歩するのは、我らが日本海を東海(トンヘ)と言わされる道へと、繋がって行く。
確かに、そうなのだ。
釜山の龍頭山(ヨンドサン)は、かつて対馬藩倭館があった土地なのだが、徳川時代の友好外交の拠点であったにも関わらず、韓国の歴史から抹殺されている。現在龍頭山に行ったとしても、ここがかつての倭館であった説明を、見つけることができない。彼らは日韓史のポジティブな面を隠している点が、確かにある。
しかし、日本もまた、安土桃山時代の日本製の陶磁器が明朝や李朝の優品に比べ物にならない粗末品であり、それが徳川時代初期に突然質が上がったのは李朝から拉致して返さなかった陶工たちの技術のたまものであったという事実、日本は確かに鉄砲の採用では隣国に先んじていたが、大砲の製造技術では明朝や李朝に大きく見劣りしていたという事実、さらには李朝の亀甲船(コブッソン)と日本水軍の和船では、原子力空母と日露戦争の戦艦三笠の差にたとえてよいぐらいの、テクノロジーの質というべき戦力差があった事実などを、戦国ロマンを過大評価する癖によって見逃している。日本は北朝鮮の拉致問題を悪魔の所業のように糾弾し、確かに現代社会においては非難されてしかるべきであるが、日本もかつて半島から拉致して返さなかった人々がいた日韓史を拉致の糾弾者たちが知らないならば、それは一種の犯罪である。
双方ともに、歴史を正しく認識していない。
これを歩み寄らせることは、確かに相互が誇りを保ったままで、冷静に相手を評価できる道になるに、違いない ― 極めて、難しいが。
彼は、私に任意団体を設立し、国際関係のための非営利の事業の器を、作るべきことを薦めた。
その言葉、ありがたく受け取ることにしよう。
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WinXPは、コントロールパネルを操作することによって、韓国語入力機能を追加することができる。
これで、ハングルをワープロ打ちができるようになった。八千万人の使う言葉だ。覚えて、損はあるまい。

Korea!2009/03/21

2009年03月21日

桜の季節用にトップページを編集していたら、過去に撮った洛東の桜たちが、思い出されてならない。
-そうだ、竹中稲荷には、ぜひとも行かなければならない。
知られていないが、神楽岡竹中稲荷は、京都の桜で個人的に最も美しい地点の一つであると、私は人に薦めたく思っている。薦めたいが、名所なんぞになってほしくない。もどかしい、ところである。
-日本は、こんなにも美しい。外国人には、日本のよいところを、賞賛してもらいたいものだ。
ここ最近の私は、政治に悩むあまり、日本のネガティブな面を抉り出して断罪しなければならないという思いに、駆られていた。
その思いは、今でも忘れたわけではない。日本の過去の悪事は悪事として、目を背けてはならない。
しかし、それよりもさらに、日本の良い面は、確かにある。ありすぎるほどにあることを、自分が撮った写真を見て、思い出した。
二月に、私が韓国の思いもよらなかった美徳なる面を旅行して見たことが、以降の私を走らせているのではないか。
じつに悲しきは、両国の国民が、隣国の美徳なる面を、ちっとも知っていないことである。
私は、韓国人に、日本の良い面が余りあることを、伝えなければならない。
そして同時に、日本人に、韓国の良い面が余りあることを、伝えなければならない。
憎むべきは、己を誉めて相手を貶める精神であり、己を卑下して相手に媚びる、精神ではなかったのか。その両者を、斬らなければならない。
-ソウルに、行かなければならないな。
私が二月に行った慶尚道は、韓国の歴史で言えば、両班(ヤンバン)の牙城。
最も、保守的な地域であった。
北部の平安道、黄海道が日韓併合前後にキリスト教によってラディカルな抵抗運動を繰り広げたのとは対照的に、慶尚道は「本学」つまり朱子学から来る攘夷思想によって、ラディカル化した。
今回の旅行ではどの辺が両班の伝統と言うお国柄であったのか、それともそんな伝統はなくなってしまったのか、私にはよく分からなかった。
しかしソウルは、慶尚道とはまた違う世界のはずに、違いない。

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