韓国文学・歴史

崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』(2)

2009年04月17日

日本人が風水を積極的に利用したという見方には、日本政府が朝鮮人に、偉い人物が出ないように風水上の龍脈を切ったのであるという言説が常に存在する。(pp146)

本書第4章は、金泳三政権が1995年に行った、旧朝鮮総督府破壊政策についての考究に割かれている。
風水(プンス)は、韓国人からなかなか消えない、しぶとい迷信である。
中国から、輸入された。
韓国では、高麗(コリョ)時代に、大流行した。
李朝は儒教一尊の国是として、儒教とは何の関係もない風水に対して、警戒した。しかし、民間の習俗の間では、衰えもせずに隆盛を続けた。「風水は明堂という所に先祖の墓や住宅を建てるとその地気により幸福になるという信仰であり、、、たとえば甲が風水にある吉地を乙の墓地で探して乙に秘密でその墓地に闇葬したのが乙に発覚し闘争が起こる。これを『山訴』という。」(pp142)
迷信といえども民族文化であるから、外国人が韓国人の風水信仰に対して、とやかく口を出すいわれはない。
しかし、本章で問題とされているのは、金泳三政権下で反日世論を煽るために登場した言説の中に、日本が風水を悪用してわざと龍脈を断つ意図で総督府を建てた、というものがあった点である。
これは、著者も疑問を持っているように、明らかにおかしい。
日本人には、風水思想はない。
この騒動の中で浮かび上がった韓国人の意識を見ると、どうやら彼らは日本という外国のことを、外国として突き放して理解しきれていない、という事情があぶり出されてくる。
彼らは、「韓国人の常識、外国では非常識」の点を、十分に理解できていないようだ。だから、日本人が風水を知って利用したという、見当違いの主張が堂々と現れる。彼らは日本人と同様の、病気にかかっている。
私個人の意見としては、旧総督府破壊などの日帝時代残渣の破壊行為については、賢明な政策であるとは言いたくないが、それで鬱憤が晴れるならば、人が傷つかない限りご随意にどうぞ、と言いたい。戦争よりは、はるかにましではないか。(ただし、今も行われている「親日派」狩りは、関係者を傷つけるものである。私は、これに関しては旧総督府と同じスタンスを取ることができない。)

麗水会は植民地時代に韓国全羅南道麗水市地域に住んでいて引き揚げた人びとの組織団体である。、、、会員は千七百人である。(pp248)

日本には、麗水会のような、旧植民地から引き揚げてきた人々の親睦団体が、いくつか存在している。敗戦から、すでに六十五年。当時尋常小学校卒業時点の年齢ですら、皆さんは今や八十前である。間もなく、戦前の引揚者たちの記憶は、地上から消滅する運命にある。
本書終章の末尾に、「橋渡し役の引揚者たち」という項目で、例として戦前に麗水(ヨス)で暮らしていた人々の集まりが、言及されている。「彼らは朝鮮半島や韓国とは直接的な関係はなくてもよい。懐かしさと自己アイデンティティのために集まるのだといえる」(pp252)と評しながらも、「しかし国際化時代になり、彼らも韓国との関係をより近く感じるようになった、、、引揚者は日韓関係の橋渡し役、日韓関係のよきアドバイザーとして存在しているのではないかと考えられる」(pp252-253)と、しめくくっている。
戦後長らく冷え込んでいた日韓関係の前には、植民地時代があった。
本書にも言及されているように、巨文島への日本人の最初の殖民活動は、日露戦争時に行われた日韓協約に基づいて、連合艦隊の戦艦の後に着いて行ったところから始まった。当初は、現地人の襲撃を恐れて、家が完成するまでは穴ぐらで隠れて寝泊りしていたという。
これからちょうど十年前に、植民地となった台湾に乗り込んでいった日本人教育者たちが、士林(シーリン)の現地村民たちの襲撃を受けて皆殺しに会った状況と、そっくり同じである。これら「六氏先生」は、後に神として祀られ、台湾住民の子弟に参拝が義務付けられた。
韓国でも台湾でも、大状況は日本の植民地化であった。たとえ日本人と現地人との関係が、後世の神話によって宣伝されたものとは裏腹に、それほど対立的ではなかったとしても、日本人が勝者として植民活動を行った点には、変わりがない。その総仕上げが、韓国人や台湾人を日本人に解消してしまおうとした、皇民化政策であった。
皇民化政策は結局敗れ、大日本帝国は清算された。
覆水、盆に返らず。
済んでしまった現在では、いくら皇民化政策が植民地の民を同胞に格上げするための善意から出た政策であったとわが側が強弁しても、始まらない。韓国も台湾も、今は外国である。外国でなかった時代の記憶は、間もなく消えてしまう。今目の前にあるのは、植民地政策に対する後進の者たちが抱く憤りと、戦後に積み上げられた神話が作り上げた、対立のわだかまりだ。
我々の世代は、ノスタルジーから始められない。
結局、引揚者たちはかつて持っていた韓国人とのつながりを、時の流れとともに完全に失ってしまった。
内向き指向の、両国民だ。
こうなるのが、民族性であった。
しかし、これから先の時代は、両国民の「内向き症候群」に立ち向かって、パイプを広げていかなければならない。
それが、後進の者たちの、義務ではないか?

韓洪九『韓国現代史』

2009年04月18日

私が読んでいるのは平凡社から発行された訳書であるが、原著の『大韓民国史-壇君から金斗漢まで』は、2003年2月7日にハンギョレ新聞社から出版されて、ベストセラーとなったということだ。ただし、3万5000部でベストセラーと、監訳者は言っている。日本の常識から言えば、ずいぶんに少ない。この著作が、大衆的にどれだけ評判を獲得したのかは、よくわからない。本書は、韓国で猛威を揮っているネチズンの言動にまで、影響を及ぼしえたのか?そもそも、韓国のネチズンたちは、本書のようなしっかりした歴史書を、どれだけ読んでいるのだろうか?

韓国に来て、あるいは韓国に来る前に移住労働者らが最初に覚える韓国語は、「テリジマセヨ・ヨッカジマセヨ・ウリドサラミエヨ(ぶたないでください。怒鳴らないでください。私たちだって人間なんです)」だといいます。さらに「ウォルグブン・ウェー・アンチュウォヨ(給料は、どうしてもらえないのですか)」のような会話を、実際に彼らの使う韓国語教材に載せざるを得ないことが、単一民族国家韓国の現状なのです。(pp.74)

檀君神話を批判的に書いた一章の中から、引用した。
檀君祖父様(タングンハラボジ)は、紀元前2333年に即位したとされる、韓民族の始祖である。彼らが全て壇君祖父様を始祖としているという神話が、彼らの中に日常レベルで存在している。
その、単一民族であるという自己イメージが強い彼らは、余所者に対してどれだけ寛容であるか?
上の引用が、どれだけ真実を写しているのかは、知らない。
しかし、「때리지마세요、욕하지마세요、우리도 사람이에요」「월급은 왜 안줘요?」という言葉は、ただごとではない。もしこれが実態ならば、彼らは国際社会に生きる資格は、いまだない。韓国人が、ロシアや中東で活躍し、アメリカで大きなコロニーを作っているにも関わらず、国内でこんなありさまでよいのか。
同じである。日本と、全く同じ病気が、かの国をむしばんでいるに、違いない。

解放直後には、日帝残滓の清算が必ずなされるべきだという民族的合意が確かに存在しました。朝鮮民族の歴史が、日帝残滓の清算ができなかったからねじれてしまったのか、それとも民族史の展開過程がねじれてしまったために日帝残滓が生き残って再生産されたのかについては、見方によって意見が分かれるかもしれません。しかし、韓国社会に親日派が生き残ったことは明らかなことです。しかも、単に生き残っただけでなく、自分たちの恥ずべき過去を徹底的に隠蔽できる権力を握って、たくさんの民間人虐殺の墓の上に生き残っています。(pp.104)

韓洪九氏は、現代韓国における、「日帝残滓」「親日残滓」の清算について、「韓国社会で生じたすべての問題を親日派のせいにするのは行きすぎだと言わざるをえません」(pp108)と評しているものの、かといって親日残滓の清算が韓国に不必要であるなどというスタンスでは、全くない。「親日病はしかるべきときに完全な治療ができなかったために重くなり続けました、、、親日派は権力を握り、親日という恥ずべき過去への反省が行われないままに徹底的に隠蔽されました。」(pp107)
韓国では、建国時点で親日残滓が完全清算されず、権力の中枢に居残り、独裁政権を打ち立てて民衆を虐殺した。あまつさえ、李承晩を追放した後に独裁者のイスに座った朴正煕は、かつての通名が高木正雄であり、陸軍士官学校を卒業して陸軍少尉に昇った過去があった。彼は李承晩政権の反日政策を180度転換させ、日本と国交を回復し、日本資本の導入による経済成長時代をスタートさせた。彼の国内政策のモデルは、「池田内閣の所得倍増政策であったともいわれる」(崔吉城『親日と反日の文化人類学』pp68)。
崔吉城氏の指摘と、韓洪九氏のスタンスが、平仄を合わせている。
日帝問題、親日派問題とは、じつは国内問題なのだ。
自らの国の過去と、現在の権力の正当性を問い直すとき、「清算」がなされなかったし、今もなされずに大手を振ってまかり通っている、という筋道の論理が取られる。
だから、韓国では、良心をもって体制を批判しようと試みると、「日帝残滓」「親日残滓」を叩きのめす、というスタンスとなってしまう。
ヨーロッパで、ナチスの亡霊を叩く風潮が、いまだにある。
現ローマ法王がかつてヒトラーユーゲントに加入していた事実が報道されて、いっとき大騒ぎとなったことがあった。結局のところドイツ人の子供であるかぎり、当時を生きていれば強制加入なのであったから、冷静に議論されて落ち着いたのであるが。
そのナチスの亡霊叩きと、親日残滓叩きは、どこに相違点があるか。
違いは、ヨーロッパにおいてはナチス・ドイツと現在のドイツ連邦共和国とは別の存在であるということが共通認識として確立されているのに対して、韓国では過去の日本と現在の日本が、ややもすればはっきりと区別されていない点にある。
彼らは、現在の日本に対してもまた、警戒する。
靖国問題や、在日韓国・朝鮮人に対する迫害など、警戒されてしかるべき点もまた存在することを、私は否定しない。
しかし、現在の日本の文化にまで不信の目を向ける姿勢は、どうしたことであろうか。
韓国マクドナルドのパッケージには、世界各国の言葉で”I’m lovin’ it”のキャッチフレーズが書かれているにも関わらず、いちばん重要な隣国であるはずの日本語が、ない。
国内問題として「親日残滓」を糾弾することは、姿勢としては分かる。(具体的にそれがレッテルを貼られた人々への集団的リンチとなっていないかどうかが、心配である。)
しかし、現在の日本国に目を向けようとしない彼らは、大きな損失をこうむっているのではないか?
日本人にとって韓国・台湾・中国の文化ほど、わかりやすい文化はない。
同じように、韓国人にとって、日本文化ほど、わかりやすい文化はないはずなのだ。
もっと互いの国が、隣国をよく見てほしいものだ。私は、それを願う。

韓洪九『韓国現代史』(2)

2009年04月19日

民間人虐殺の事実と同じくらい酷いのは、全国津々浦々で一〇〇万人余りの犠牲者が発生したにもかかわらず、われわれがこの虐殺に対して知らないふりをするか、本当に知らないまま半世紀をすごしてきた点です。同じ空のもと、このような酷い出来事が埋もれたままになっている事実に背を向け、あるいはまったく知らずに、われわれは食べて飲んで寝るという日常生活をしてきました。数十万人の死に五〇年間も背を向けてきた韓国社会の構成員全員が、虐殺それ自体ではなくとも虐殺隠蔽の協力者になったことで、人間としての道理をはたすことはできなかったのです。虐殺の嵐が広く全土を覆ったこの地で、被害者も加害者も、遺族はもちろんのこと、韓国社会のすべての構成員は皆まともな人間ではあり得なかったのです。虐殺とはまさにこのような問題であり、われわれが再びこの地で虐殺が起きないように努力しなければならない理由もそこにあるのです。(pp129)

済州島(チェジュド)の四・三事件、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件、保導連盟員や獄中左翼の当局による虐殺、KoreanWar勃発直後に起こった米軍による老斤里(ノグンリ)虐殺事件、、、
戦後の韓国史を、著者は「熱いフライパンから出たら、火のなかだった」(pp140)という言葉で表す。熱いフライパンとは、日本による支配。火の中とは、その後に起こった虐殺、戦争、独裁の連続の歴史である。
「義を見てせざるは、勇なきなり」(論語・為政篇)という、言葉がある。
これまでの歴史で隠蔽という悲惨を受けて来た残虐な過去を、あえて明るみに出して戦後史を問い直す。
それは、人間の権利を愛し、多くの遺族に同情の意を持つ者ならば、当然湧き上がる正義感であろう。著者もまた、そうである。だから、韓国人と韓国政府に対して、過去を隠蔽するな、問い直せと、本書は呼びかけているのである。
日本では、戦前からうやむやのままに引き継がれた戦後体制への問い直しの運動は、六十年安保の敗北とともに、国民レベルでは消滅した。その後の学生による反体制運動もまた、七十年代にはほとんど鎮火してしまった。忘却によって日本人が得られたものは、高度成長の結果としての日本史上未曾有の物質的繁栄であった。
韓国もまた、高度成長を経験した。今や、先進国レベルの生活水準に、近づいている。
それとともに、80年代まではいまだ盛んであった市民・学生の異議申し立ての運動もまた、沈静化しているのであろうか。現在の韓国では自分の口に入る牛肉輸入問題については狂熱的となるものの、韓国史の問い直しについて燃え上がるような気運があるようには、どうも見えない。
韓国人も、日本人同様に、過去を忘れ去る時代が来るのだろうか。
それとも、身を切るような作業となるに違いない自国の恥ずべき歴史への斬り込みに躊躇した結果、批判しやすい対象として親日派や日本社会への批判の動きを、ますます強めていくのであろうか。
後者よりは、前者の方が日本人にとってまだしも憂鬱でないことは、明らかだ。
本書の著者の訴えはまことにもっともであるが、現実の韓国社会に呼びかけが通じるかどうかは、私にはわからない。
ところで、ささいなこと。
本書の中で、「弱者や少数者の人権を尊重しなければならないというのは、孔子の言葉でもあります」(pp145)と書かれてある。
いったい、これは孔子の何の言葉について、言及しているのであろうか。
確かに孔子や、それを受け継いだ孟子の思想には、社会的弱者を為政者はまっさきに保護しなければならない、という仁政思想がある。「鰥寡孤独」、すなわち男女のやもめと身よりなき老人と親なき孤児は、仁政者がまず政治により保護する対象なのである(『孟子』梁恵王章句下)。
しかし、「少数者の人権を尊重する」と著者が言及するとき、いったい孔子・孟子のどこの思想のことを、言っているのであろうか?
孔子は、「異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ」(『論語』為政篇)と言っている。また、「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(同、泰伯篇)と言っている。
孔子の後継者である孟子は、絶対自由至上主義というべき思想家である楊朱、四民平等主義である農家、兼愛思想による社会改造を標榜する墨家などの論客を、儒教のドグマに対立する異端として、片っ端から叩きのめした。そこには、異なった思想であっても尊重するなどといった姿勢は、ほんのかけらすらも見られない。
もし、著者が「少数者の人権を尊重する」と言うときに、近代社会的な各人の自由を尊重すべしという人権思想のことを想定しているのであれば、孔子や孟子の思想が、自由主義的な要素があるはずがない。儒教とは、決まったドグマが存在していて、それからの逸脱を厳しく排斥する思想なのだ。たとえそのドグマが、主観的には善意に満ち溢れた仁政思想であっても。
孔子や孟子を自由主義的人権思想家などと、考えることは私にはできない。筆者は歴史学者であるのに、少し疑問に思う、本書における孔子評価である。

韓洪九『韓国現代史』(3)

2009年04月20日

姜教授は、韓国の数少ない北朝鮮研究者の一人であり、私も金日成の抗日武装闘争の研究で博士号を取り、大学で「北韓[北朝鮮]社会の理解」という科目を教えています。(pp162)

作家の井沢元彦は、「日本は国際平和の実現が国是であるというのならば、どうして日本の大学には戦争研究の学部がないのか?」と言った。言霊のごとく平和がいいねと唱えるばかりで、ではどうやれば国際平和が実現できるのかという真摯な分析と提案を何もしようとしない空想的平和主義者たちへの、揶揄的批評である。平和を実現するために戦争の原因とその防止策を研究せよ、という主張は、残念ながら今の日本ですら主流となっているとは言い難い。
著者や姜禎求(カン・ジョング)東国大教授が、韓国で数少ない北朝鮮研究者であると、著者は書く。
異様な、ことでなかろうか。
今後統一までもプログラムとして書かなければならないことは、韓国として分かりきったことだ。
なのに、韓国では北朝鮮を研究する学者が、数少ないという。
将来の自国に対して、それでは目隠しをして走っていくようなものではないか。韓国は、統一が国是となっている北の片割れに対して、冷静に分析する視点を、現在においてすら何も持っていないのではないか。
これでは、空想的平和主義ならぬ、空想的統一主義ではないか。

連邦制とは、南北相互がすでに確立された体制をそのまま認めながら統一を模索しようという案です。事実、武力によって一方が他方を征伐する戦争による方式を除けば、そして東欧で見たように体制が自滅の道を選ばなければ、われわれに残された選択肢は永久分断の道か、それとも相互の体制を認めた基盤の上で統一を追及する道しかありません。(pp167)

北朝鮮をよく研究している著者ゆえに、上のように主張するより他はない。
吸収併合の道は、北の体制がすなわち消滅するということである。著者は、それが非現実的であると考える。ゆえに、連邦制の将来となる。それは、北朝鮮がすでに提案しているプランである。韓国政府もまた、受け入れるべきであると、著者は言うのだ。現在韓国政府は、いまだに連邦制の選択を取るにまで至っていない。韓洪九氏の将来案は、姜尚中(カン・サンジュン)東大教授の案と、だいたい同じである。姜教授はさらに国際関係も視野に入れて、半島の永世中立化のプランを、併せて提案しているところである。
私は、韓洪九氏の考えは、少々甘いのではなかろうかと、考えている。
南北の人たちは、別民族でも何でもない。
北の平安道や咸鏡道が先祖の故地である韓国人は、いっぱいいる。KoreanWarで南に逃れた、人たちだ。親子や親戚が北と南で別れて暮らしている家族も、無数にいる。両国は血でつながっていて、政治だけが人の流れを押し止めている。
もし、将来に向けて南北が統一されるという展望が、具体的に見えた日が、来たならば。
私は、その次の日に、ハンガリー・オーストリア国境が開かれた89年の事件が繰り返され、ベルリンの壁崩壊に相当するであろう板門店消滅が続いてすぐに起こるのではないか、と危惧する。
それが、人民という正直な生き物の、自然な動きではなかろうか。
それが準備なしに起こったら、どうなるか。
恐ろしい混乱が、半島で始まるのは、目に見えている。
一時の興奮が収まったとき、韓国は二千万人の極貧でビジネスを全く知らない民を、背負い込むという悪夢が現実となったことを、知るだろう。
それに、半島は耐えられるのか?
耐えられなかったら、どうするのか。
そのとき、日本が鎖国して、知らんぷりしていたら、どうするのか。その可能性は、今のままでは高いのでありますぞ。
私は、連邦制には反対である。
結局絵に描いた餅となるに違いない、と予測する。速やかな吸収合併に追い込まれるしか、道はない。
それに、東北アジアは備えていない。
私の憂慮が杞憂であるということを、南北半島問題を扱う研究者の皆様は、どうか示してほしい。
あまりにも、今の韓国は将来に対して、観念的な統一幻想ばかりに終始して、具体的に頭と心を鍛える努力を怠っているように、見えてならないのだが。

韓洪九『韓国現代史』(4)

2009年04月23日

しかし、過去数年間、安保、安保と叫んで国家予算を湯水のように使っておいて、また、経済力において北朝鮮の二五倍の規模になった今日でも、駐韓米軍がいないとすぐ戦争になるかのように大げさに言うことはとうてい理解できません。(pp281)

本日、いちおう読了。
私は、まだ現代韓国人の対外国観について、十分に理解できたとはいえない。
著者が「反米感情くらい持ってはどうですか」と題した一章を割いて、軍を駐留させ続ける米国に対する学生たちの時に死をもった抗議行動を称揚して書き付ける筆致には、わが沖縄における反米闘争と同じ、基地の現場から来る熱さがある。韓国における米国は、日本の自民党に対する生暖かい援助とは違い、韓国では露骨な独裁政権の権力の後ろ盾として結果的に結託していたという、歴史がある。
ゆえに、筆者は「反米感情ぐらい持ってはどうですか」と示唆し、反米デモを行う若い世代たちを頼もしげに評価するのであるが-
上の引用に見られるような筆者の国際政治に対するセンスは、残念ながら私をうなずかせるものではない。
韓国は、周囲を取り巻く四大列強-米国、日本、中国、ロシア-と、どのように付き合うべきだと、言うのであろうか。
米国が退けば、その後に中国が押し出してくるまでだ。それは、力の原理というべきものだ。いくら韓国が軍事的に増強したといっても、軍事の相手とすべきはもう、北朝鮮ごときではない。米国と綱引きを望んでいる、中国なのだ。ロシアなのだ。これら列強に、韓国が単独で立ち向かえるとでも、いうのであろうか。
本当に半島を中立化したいのならば、上の四大列強の間を取り持って、時には手玉に取るほどの辣腕をもった外交家が、韓国に現れなければならない。
著者は、歴史家として檀君から高麗、李朝を経て日帝強占期まで韓国の歴史を縦横に引き合いに出すのに、不思議なことに本書では新羅(シルラ)の歴史について、言及されてない。
韓国が自国の歴史に学ぶべきは、烈士たちではなくて、むしろ新羅の太宗、金春秋(キム・チュンチュ)なのではないか。
太宗は、百済・高句麗に圧迫されていた自国の運命を、即位すると当時おそろしい勢いで超大国化していた大唐帝国の臣下となることによって、逆転させようとした。そのためには独自の国制を捨てて唐を模倣するなど、なりふりかまわなかった。
太宗の目論見は見事に当たり、百済は手もなく唐によって滅ぼされた。百済の同盟国であった日本も、唐と新羅の連合軍によって白村江の戦で惨敗し、以降日本は半島政治から手を引くことになった。
高句麗までも滅ぼした後、新羅は一転して半島から唐軍を叩き出すための戦に、打って出た。すでに太宗は死に、後継者の時代となっていたが、彼らは対唐戦争を戦い抜いて、半島の独立をついに勝ち取ったのであった。
韓国は、太宗と新羅の統一史からこそ、学ぶべきなのではないか。
少なくとも彼らは、自国がまだ弱いことを知っていた。そして、外国の力を使うためには、面子すら一時的に捨てることも、やってのけた。現実の力関係を見抜いて、それを自国にプラスに持っていくための、冷静かつ大胆な外交戦略であった。
ハートが熱いのはよいが、ヘッドは冷たくなければならないと、私は隣国に思うのであるが-

酒井敏雄『日本統治下の朝鮮 北鎮の歴史』

2009年05月02日

著者は一九二〇年北鎮で生まれ、この土地の日本人小学校を卒業し、平壌の商業学校に学んだ。ここの生徒は半数が朝鮮人で、著者はいまも彼らと親交を結んでいる。北鎮の歴史を書くことができる残り少ない一人である。(表ブックカバー折込みより)

本書は、草思社から2003年に発行。
本書の大半は、かって植民地時代に平安北道雲山郡北鎮面と呼ばれた金鉱都市の、歴史である。
叙述は詳細で、これもそれなりに面白い。
だが、山間の一都市だけの記録であって、戦前の朝鮮半島の全体像がここから理解できるかと言えば、私はそれには無理があるだろう、と思った。
むしろ、本書の冒頭に当たる、第一部「数字が語る日本の朝鮮統治」が、意見として重大である、と感じ取った。
この第一部は、『朝鮮総督府統計年報 明治四十三~昭和四十七年度』を一次資料として、植民地時代朝鮮の経済動向を、分析しようとする試みである。
その、結論。

、、、朝鮮の近代化計画は約二〇年余りで達成されたのである(昭和五年頃)。
近代化のために日本は、朝鮮の人々を誘導するため、時には軍事力を行使したこともあり、後にはこれが朝鮮における日本の失政といわれる大きな原因となった。
しかし世界の植民地で、このような短期間に繁栄をもたらした国が果たしてあったであろうか。これには日本の決断と実行がなくては進まなかったであろう。
当然のことながら、これは多くの朝鮮人の絶大な協調と理解があってはじめて達成されたことである。
このような輝かしい成果が、どのようにして醸成されたかは多くの日本および韓国の学者や研究者たちが『朝鮮総督府統計年報』の解析に携わり、その結果を次々と公表することになれば、やがて日朝の近現代史が新たに解明され、これにより日韓両国とその国民には必ずや明るい二十一世紀が開かれてゆくものと確信される。(pp20-21)

朝鮮の近代化が達成され、経済水準が李朝時代より向上した傍証として、著者は人口と歳入の増加を挙げる。
朝鮮民族の人口は、
1910 13,128,780人
1941 23,913,063人(+182%)
朝鮮総督府特別会計の歳入は、
1911  52,284,464円
1930 218,210,352円(+417%)
であった。著者は1942年と比較しているが、戦時中では税収体系に大幅な変更が起こっていただろうし、満州事変以降の円ブロックの経済は、インフレーションがあったはずだ。だから、満州事変直前の大恐慌時代、1930年と比較してみた。
人口と財政収入が期間を通じて激増していることが、このデータから読み取ることができる。
これが著者の言うように、単純に朝鮮民族の生活向上を意味していたのかどうかは、私には即断できかねる。
たとえば著者は、「従来畑作が主で穀類はムギ・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシなどで、栄養に乏しかった朝鮮人は、米の飛躍的な増産で彼らの食生活は栄養的に改善され、、、これは人口が急激に増加したことで明らかとなった」(pp39)と、書いている。
しかし、この説明は、どうも李朝時代に農村を旅行したイザベラ・バードの観察と、食い違っているように思われる。バードが見た農村は確かにとびきり裕福とは言えなかったが、食事は現在の韓国人のパンチャンと同じく、米のごはんといくつもの小皿が供される食事で、味もよく栄養にも富んでいた。ひょっとしたら、著者は自らが生活していた北部地方の事情について、一般化して述べているのかもしれない。戦前に日本に渡って来た人々は、困窮した小作人が多かった。平均値はどうであれ、困窮した階層が植民地時代に発生していたことは、私にとっては確からしいと思われる。それは、現在の在日の方々がアボジやオモニの労苦を思い出して語る言葉に、よく表れている。
しかし、他方で、植民地時代の朝鮮が日本の経済的収奪によって、全般的に困窮化したと主張するならば、たぶんそれも誤っているのでは、なかろうか。
私は、経済史の研究家ではない。
ゆえに、これまで半島について書かれた著作を私が読んだ限りで、自分としてイメージで語るより他はない。
戦前の巨文島(コムンド)は、漁業で繁栄していた。
本書にも書かれているように、北鎮は日本資本によって活況を呈していた。
以前読んだ朴景利の小説『金薬局の娘たち』は、統営が物語の舞台であったが、日本による併合は人々にとって痛恨事であったと、書かれていた。しかし、二十年の歳月が過ぎた後の統営の街は、日本式の漁業が導入されて、繁栄を加えていたと叙述されていた。
もちろん、経済的繁栄と、人の心の憤りは、別次元のものだ。
『金薬局の娘たち』でも、併合から20年後の若者たちの中には、独立運動に向けて突き進もうとする群像が、現れて来る。
かつての日本史でも、貧農史観が猛威を振るっていた。今でも、有力なのかもしれない。
植民地時代の朝鮮史も、経済的収奪史観だけでは、歴史の実像に迫ることはできないのではないだろうか。
両国のわだかまりは、もはや経済ではない。
プライドを傷つけられた、人の心の憤りに関する、点なのだ。

李榮薫『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』

2009年06月16日

本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。(末尾に英語の題だけが、書かれている。)
著者の李榮薫(イ・ヨンフン)氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』(1988)、『朝鮮土地調査事業の研究』(共著、1997)、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』(2005)など。
著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。
「이 영훈」で検索する。
ない。
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。
教授の写真付きで、出てきた。
教授について書かれたカフェ文(카페글)の表題を、見る。
「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究!」
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ!」
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」
えげつない言葉が、並んでいる。
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号(?)を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。
本書は、三部に分かれている。
第一部 歴史への視線
第二部 文明史の大転換
第三部 くに作り
第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』(ハンギル社、1979-1989)という書物である。
第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。
第三部は、李承晩(イ・スンマン)政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。
本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。
とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。
あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」(本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉)に近づいている。
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。
李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。

文京沫『済州島四・三事件』

2009年06月17日

2008年4月、平凡社より発行。

四・三は、(光州事件などの)韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政(単独選挙・単独政府)反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。(pp.213)

2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇~三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。
本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局(大統領・李承晩)による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年(1923)、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」(pp36)。
本書内に引用されている1934年(昭和九年)の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4%で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」(「おわりに」より)
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地(済州島人にとって、半島)から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」(実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが)に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。
「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。
いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。
・1948~49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。
・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた(1946年秋の「10月人民抗争」)。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順(ヨスン)事件」が起こった。全羅南道の麗水(ヨス)で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」(pp121)、順天(スンチョン)を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。
・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。
四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。
しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア(=難問)」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。
四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。

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