<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>韓国・中国・台湾・日本を調べ、旅行し、味わうサイト。それが、アジアのとうふです。 &#187; 東北アジア研究</title>
	<atom:link href="http://asian-curd.asia/category/whatisasia/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://asian-curd.asia</link>
	<description></description>
	<lastBuildDate>Wed, 30 Sep 2009 08:50:41 +0000</lastBuildDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.8</generator>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
			<item>
		<title>間島は、韓国領であるのだろうか？</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/post0/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/post0/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 16 Jul 2009 04:46:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>
		<category><![CDATA[万宝山事件]]></category>
		<category><![CDATA[李氏朝鮮]]></category>
		<category><![CDATA[清朝]]></category>
		<category><![CDATA[渤海]]></category>
		<category><![CDATA[満州]]></category>
		<category><![CDATA[間島]]></category>
		<category><![CDATA[間島協約]]></category>
		<category><![CDATA[高句麗]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/?p=910</guid>
		<description><![CDATA[あまり論評は、したくないのですが。
日本の領土問題とは、関係がありません。
しかし、全国第二位のポータルサイトである「Daum」の議論コーナーである「アゴラ」に、堂々と間島（カンド）の領有権を主張する有志の、募金の告示が張られていた。（告示の内容は、本記事の続きの部分に日本語訳とともにあります。）
これは、どうしたことであろうか。
間島とは、韓国側の呼称であって、現在朝鮮族が多く住む満州（中国東北部）東部の地区のことである。
間島が、歴史上韓国とその起源である諸王朝の版図であった歴史があった、という事実を、私は残念ながら絶えて知らない。
現在の韓国（および北朝鮮）は、新羅→高麗→李氏朝鮮の各王朝の王統の後継国家であることは、政治的、地理的、および文化的連続性から、明らかである。
確かに、歴史上「高句麗」「渤海」という国家は、存在した。そして、「高句麗」は、現在のピョンヤンを首都として、半島北部からひろく遼東半島、満州、沿海州近辺にまで版図を広げていた。「渤海」は、その高句麗が滅亡した後に、政権によって遼西地方に追放されていた部族が新たに建国した。渤海は高句麗の後継国家であると自称し、その版図は沿海州と満州に及んでいた。
これは、確かなことだ。
しかし、「高句麗」「渤海」は、現在の韓国とは、残念ながら直接には何の関係もない。
これらの国を運営した集団は、結局契丹（キタイ）や女真（ジュルチン）といった諸部族の国家に吸収されて、あるいは正しく半島を支配していた王朝のもとに脱出して、すでに現在に痕跡をとどめていない。
間島に、李朝末期移民が入り込んで、清朝との間に領土紛争が起こった。これもまた、事実である。この移民たちは、半島で深刻化していた飢饉と暴政を逃れて、越境していった農民たちであった。
後に、彼らは耳を塞ぎたい心持であろうが、日帝占領時代に日本が南満州に事実上の支配権を打ち立てた条件下、朝鮮族が豆満江を越えて陸続と開拓移民として、移住していった。これらが、現在の中国領内にいる朝鮮族の、大多数の起源である。近代になってからの移民であって、古代の朝鮮史とは何の関係もない。清朝と李氏朝鮮の境界は現在の北朝鮮と中国との国境線で早くから明確に確定していて、そこからの越境民は全て不法移民として、李朝もまた処理していたのであった。
移住していった朝鮮族と漢族・満洲族との緊張が、1931年7月の万宝山事件で爆発することとなった。日本当局は、結局この事件に象徴される民族紛争を、満州を自らの直接管理下に置くことによって解決することを企み、同年9月の満州事変につながっていった。
日本の帝国主義は、批判されるべきことである。
しかし、朝鮮族は、彼らに罪があったわけではないとはいえども、無主の土地に移民していったわけではなかった点だけは、認識するべきではないだろうか。（私が罪がないと言っているのは、人の流れに関してのことである。万宝山事件の後に朝鮮域内で起こった朝鮮人の中国人への一方的な集団虐殺事件は、罪がないと笑って済ませるわけにはいかない。この事件については、まず日本語版Wikipediaを参照して、中国語版と朝鮮語版との記述の違いを比較するのがよいであろう。それから後、虐殺事件が果たして日本の意図的謀略であったのか、それとも偶発的事件であったのかの評価を、行うべきであろう。だが、この評価については、いまだに意見が一致しているようには見えない。）
ましてや、現在朝鮮族が居住しているから、間島にKoreanは領有権を持つ、と本当に言えるのであろうか。その理由としてはるか古代の歴史を持ち出すのは、外国人の私にとっては、民族ロマンティシズムの神話を弄んでいるようにしか、見えない。聖書に書いてあるからユーフラテス川はイスラエル領だと主張する一部の聖書ファンダメンタリストや（誤解ないように言っておくが、イスラエルでは、たとえ右派であってもこのような主張はしていない）、彼らの経典に書いてあるから南北アメリカはもともと白人の領土であったと主張する一部の非主流派モルモン教徒と、どのぐらい違うのであろうか。
救われるべきは、この間島への関心が、募金の本文に書かれているように、国民の関心としては、リアンクール･ロックス（日本名竹島、韓国名独島）ほどには、大して高そうにないということである。できるならば、ロマンティシズムをまぜこんだ政治的主張は、一部学生の観念の遊戯であってほしい。
間島が韓国領であると主張している諸兄は、いったい韓国という国家が多様な民族を包含することに寛容な国づくりを現在行っているのか、自問自答なさることを、薦めたい。間島に住んでいるのは、韓民族だけではないです。もし間島を領有なさったら、漢族や満族、蒙古族、その他少数民族を、どのように扱われるつもりであるか？

上は、アゴラに掲げられていた地図。左は、間島が韓国領であるという主張の一根拠となっている、外国人宣教師が作成した地図。右の地図の出典はよく分からないが、あるいは二十世紀初頭にカトリック教会が作成した教区分割図から、作成したのかもしれない。ところが、李氏朝鮮時代にかんじんの朝鮮人側が作成した地図は、間島を領域とみなしていなかったのである。それぞれの地図の説明は、英語版Wikipediaを参照。

【募金文の、日本語訳】
私たちの五千年の歴史（注1）とともにあった、間島!
私たちの先祖らの息遣いが生きていた、間島!
間島は、大韓帝国時期、間島管理社まで派遣管理された、私たち大韓民国の誇らしい領土でした。
しかしそういう間島の運命は、日帝が不法に清国に譲渡した間島協約（注2）により、領土の主人が変わりました。 我が国は「間島協約」以後36年間の日帝強占期と、分断と、戦争と、そして南北対峙の民族的不幸を体験し、かれこれ100年に至るまで、間島協約が無効であることをまともに主張できませんでした。
その間中国は、いわゆる東北工程（注3）と白頭山（ペットゥサン）工程を大々的に実行し、私たちの古代史をわい曲して横取りすることによって、最終的に私たちの土地である間島を永久的に占拠する下心を表わしています。
もう私たちは、民族的自覚をするべきです。 私たちが私たちの土地である間島を取り戻すことができなくて、私たちの土地である独島（注4）を守ることができますか?
今から4ヶ月しか残っていませんが。来る2009年9月4日は、間島を奪われてちょうど100年になります。 私たちの世代で「取り戻さなければならない私たちの土地」である間島を取り戻さなければ、永遠に忘れられることになるかも知れません。そうなれば、私たちは2009年9月4日を国恥日として残すことになります。
皆さんの関心が、日本が奪おうとしている独島を守ることだけでなく、日本が勝手に売り払った私たちの土地間島を取り戻すのことにも、大きな力になります。 すぐに成功するのではないが、今私たちが最大の関心を発信するならば、10年、100年後には、必ず私たちの土地となることでしょう。
また「間島取り戻し運動本部」に所属している大学生5人で成り立った「間島ピープル」は、私たちの土地である間島をよく分からない私たちの国民に、間島を知らせて間島協約の不当さを知らせようと、「自転車全国一周」を準備して、7月13日に出発する予定です。
皆さんの、ささやかな関心と応援、お願いします。
（注１）野史（ヤサ、非公式の歴史書）である『三国遺事』で言及されている、紀元前2333年に壇君（タングン）が即位したことを、朝鮮建国の始まりであるとする主張を指す。ちなみにこの年代では、中国やインドですら王朝が成立していた証拠を、見出すことができていない。
（注２）1909年に日本と崩壊寸前の清朝との間で合意された協約。日本は満州域内の鉄道権益を得る代わりに、間島が清朝領であることを保障した。この時期「大韓帝国」の外交権は完全に日本に奪われていたので、協約は「大韓帝国」が当事者ではなかった。[英語Wikipedia記事]
（注３）1997年から中国社会科学院が開始した、満州（東北部）の歴史に対する見直し工程。このプロジェクトの結果高句麗・渤海が中国の地方政権であると位置づけられたために、韓国側が猛抗議を中国に行った。[日本語Wikipedia記事]
（注４）言うまでもなく、日本名は「竹島」。
【韓国語の、募金原文】
우리의 반만년 역사와 함께 한 간도!
우리 조상들의 숨결이 살아 숨쉬던 간도!
간도는 대한제국 시절 간도관리사까지 파견하여 관리되었던 우리 대한민국의 자랑스런 영토였습니다.
그러나 그러한 간도의 운명은 일제가 불법으로 청나라에 넘긴 간도협약으로 인해 영토의 주인이 바뀌었습니다. 우리나라는 &#8216;간도협약&#8217; 이후 36년간의 일제 강점기와 분단과 전쟁 그리고 남북 대치의 민족적 불행을 겪으면서 100년이 다 되도록 간도협약이 무효임을 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>あまり論評は、したくないのですが。</p>
<p>日本の領土問題とは、関係がありません。</p>
<p>しかし、全国第二位のポータルサイトである「Daum」の議論コーナーである「アゴラ」に、堂々と間島（カンド）の領有権を主張する有志の、<a href="http://agora.media.daum.net/petition/donation/view?id=75451">募金の告示</a>が張られていた。（告示の内容は、本記事の続きの部分に日本語訳とともにあります。）</p>
<p>これは、どうしたことであろうか。</p>
<p>間島とは、韓国側の呼称であって、現在朝鮮族が多く住む満州（中国東北部）東部の地区のことである。</p>
<p>間島が、歴史上韓国とその起源である諸王朝の版図であった歴史があった、という事実を、私は残念ながら絶えて知らない。<br />
現在の韓国（および北朝鮮）は、新羅→高麗→李氏朝鮮の各王朝の王統の後継国家であることは、政治的、地理的、および文化的連続性から、明らかである。</p>
<p>確かに、歴史上「高句麗」「渤海」という国家は、存在した。そして、「高句麗」は、現在のピョンヤンを首都として、半島北部からひろく遼東半島、満州、沿海州近辺にまで版図を広げていた。「渤海」は、その高句麗が滅亡した後に、政権によって遼西地方に追放されていた部族が新たに建国した。渤海は高句麗の後継国家であると自称し、その版図は沿海州と満州に及んでいた。<br />
これは、確かなことだ。</p>
<p>しかし、「高句麗」「渤海」は、現在の韓国とは、残念ながら直接には何の関係もない。<br />
これらの国を運営した集団は、結局契丹（キタイ）や女真（ジュルチン）といった諸部族の国家に吸収されて、あるいは正しく半島を支配していた王朝のもとに脱出して、すでに現在に痕跡をとどめていない。</p>
<p>間島に、李朝末期移民が入り込んで、清朝との間に領土紛争が起こった。これもまた、事実である。この移民たちは、半島で深刻化していた飢饉と暴政を逃れて、越境していった農民たちであった。</p>
<p>後に、彼らは耳を塞ぎたい心持であろうが、日帝占領時代に日本が南満州に事実上の支配権を打ち立てた条件下、朝鮮族が豆満江を越えて陸続と開拓移民として、移住していった。これらが、現在の中国領内にいる朝鮮族の、大多数の起源である。近代になってからの移民であって、古代の朝鮮史とは何の関係もない。清朝と李氏朝鮮の境界は現在の北朝鮮と中国との国境線で早くから明確に確定していて、そこからの越境民は全て不法移民として、李朝もまた処理していたのであった。<br />
移住していった朝鮮族と漢族・満洲族との緊張が、1931年7月の万宝山事件で爆発することとなった。日本当局は、結局この事件に象徴される民族紛争を、満州を自らの直接管理下に置くことによって解決することを企み、同年9月の満州事変につながっていった。</p>
<p>日本の帝国主義は、批判されるべきことである。<br />
しかし、朝鮮族は、彼らに罪があったわけではないとはいえども、無主の土地に移民していったわけではなかった点だけは、認識するべきではないだろうか。（私が罪がないと言っているのは、人の流れに関してのことである。万宝山事件の後に朝鮮域内で起こった朝鮮人の中国人への一方的な集団虐殺事件は、罪がないと笑って済ませるわけにはいかない。この事件については、まず<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6">日本語版Wikipedia</a>を参照して、中国語版と朝鮮語版との記述の違いを比較するのがよいであろう。それから後、虐殺事件が果たして日本の意図的謀略であったのか、それとも偶発的事件であったのかの評価を、行うべきであろう。だが、この評価については、いまだに意見が一致しているようには見えない。）</p>
<p>ましてや、現在朝鮮族が居住しているから、間島にKoreanは領有権を持つ、と本当に言えるのであろうか。その理由としてはるか古代の歴史を持ち出すのは、外国人の私にとっては、民族ロマンティシズムの神話を弄んでいるようにしか、見えない。聖書に書いてあるからユーフラテス川はイスラエル領だと主張する一部の聖書ファンダメンタリストや（誤解ないように言っておくが、イスラエルでは、たとえ右派であってもこのような主張はしていない）、彼らの経典に書いてあるから南北アメリカはもともと白人の領土であったと主張する一部の非主流派モルモン教徒と、どのぐらい違うのであろうか。</p>
<p>救われるべきは、この間島への関心が、募金の本文に書かれているように、国民の関心としては、リアンクール･ロックス（日本名竹島、韓国名独島）ほどには、大して高そうにないということである。できるならば、ロマンティシズムをまぜこんだ政治的主張は、一部学生の観念の遊戯であってほしい。<br />
間島が韓国領であると主張している諸兄は、いったい韓国という国家が多様な民族を包含することに寛容な国づくりを現在行っているのか、自問自答なさることを、薦めたい。間島に住んでいるのは、韓民族だけではないです。もし間島を領有なさったら、漢族や満族、蒙古族、その他少数民族を、どのように扱われるつもりであるか？</p>
<p><img src="http://asian-curd.asia/wp-content/uploads/2009/07/z21-300x186.jpg" alt="アゴラに掲載されていた地図。" title="z2[1]" width="300" height="186" class="size-medium wp-image-935" /></p>
<p>上は、アゴラに掲げられていた地図。左は、間島が韓国領であるという主張の一根拠となっている、外国人宣教師が作成した地図。右の地図の出典はよく分からないが、あるいは二十世紀初頭にカトリック教会が作成した教区分割図から、作成したのかもしれない。ところが、李氏朝鮮時代にかんじんの朝鮮人側が作成した地図は、間島を領域とみなしていなかったのである。それぞれの地図の説明は、<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Jiandao#Images">英語版Wikipedia</a>を参照。</p>
<p><span id="more-910"></span><br />
【募金文の、日本語訳】</p>
<p>私たちの五千年の歴史（注1）とともにあった、間島!<br />
私たちの先祖らの息遣いが生きていた、間島!<br />
間島は、大韓帝国時期、間島管理社まで派遣管理された、私たち大韓民国の誇らしい領土でした。</p>
<p>しかしそういう間島の運命は、日帝が不法に清国に譲渡した間島協約（注2）により、領土の主人が変わりました。 我が国は「間島協約」以後36年間の日帝強占期と、分断と、戦争と、そして南北対峙の民族的不幸を体験し、かれこれ100年に至るまで、間島協約が無効であることをまともに主張できませんでした。</p>
<p>その間中国は、いわゆる東北工程（注3）と白頭山（ペットゥサン）工程を大々的に実行し、私たちの古代史をわい曲して横取りすることによって、最終的に私たちの土地である間島を永久的に占拠する下心を表わしています。<br />
もう私たちは、民族的自覚をするべきです。 私たちが私たちの土地である間島を取り戻すことができなくて、私たちの土地である独島（注4）を守ることができますか?</p>
<p>今から4ヶ月しか残っていませんが。来る2009年9月4日は、間島を奪われてちょうど100年になります。 私たちの世代で「取り戻さなければならない私たちの土地」である間島を取り戻さなければ、永遠に忘れられることになるかも知れません。そうなれば、私たちは2009年9月4日を国恥日として残すことになります。</p>
<p>皆さんの関心が、日本が奪おうとしている独島を守ることだけでなく、日本が勝手に売り払った私たちの土地間島を取り戻すのことにも、大きな力になります。 すぐに成功するのではないが、今私たちが最大の関心を発信するならば、10年、100年後には、必ず私たちの土地となることでしょう。</p>
<p>また「間島取り戻し運動本部」に所属している大学生5人で成り立った「間島ピープル」は、私たちの土地である間島をよく分からない私たちの国民に、間島を知らせて間島協約の不当さを知らせようと、「自転車全国一周」を準備して、7月13日に出発する予定です。<br />
皆さんの、ささやかな関心と応援、お願いします。</p>
<p>（注１）野史（ヤサ、非公式の歴史書）である『三国遺事』で言及されている、紀元前2333年に壇君（タングン）が即位したことを、朝鮮建国の始まりであるとする主張を指す。ちなみにこの年代では、中国やインドですら王朝が成立していた証拠を、見出すことができていない。<br />
（注２）1909年に日本と崩壊寸前の清朝との間で合意された協約。日本は満州域内の鉄道権益を得る代わりに、間島が清朝領であることを保障した。この時期「大韓帝国」の外交権は完全に日本に奪われていたので、協約は「大韓帝国」が当事者ではなかった。[<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Gando_Convention">英語Wikipedia記事</a>]<br />
（注３）1997年から中国社会科学院が開始した、満州（東北部）の歴史に対する見直し工程。このプロジェクトの結果高句麗・渤海が中国の地方政権であると位置づけられたために、韓国側が猛抗議を中国に行った。[<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B">日本語Wikipedia記事</a>]<br />
（注４）言うまでもなく、日本名は「竹島」。</p>
<p>【韓国語の、募金原文】</p>
<p>우리의 반만년 역사와 함께 한 간도!<br />
우리 조상들의 숨결이 살아 숨쉬던 간도!<br />
간도는 대한제국 시절 간도관리사까지 파견하여 관리되었던 우리 대한민국의 자랑스런 영토였습니다.</p>
<p>그러나 그러한 간도의 운명은 일제가 불법으로 청나라에 넘긴 간도협약으로 인해 영토의 주인이 바뀌었습니다. 우리나라는 &#8216;간도협약&#8217; 이후 36년간의 일제 강점기와 분단과 전쟁 그리고 남북 대치의 민족적 불행을 겪으면서 100년이 다 되도록 간도협약이 무효임을 제대로 주장하지 못하여 왔습니다.</p>
<p>그러한 사이 중국은 이른바 동북공정과 백두산공정을 대대적으로 실행하여 우리 고대사를 왜곡하고 가로챔으로써 궁극적으로 우리 땅 간도를 영구적으로 차지하려는 속셈을 드러내고 있습니다.<br />
이제 우리는 민족적 자각을 해야합니다. 우리가 우리 땅 간도를 되찾지 못하고, 우리땅 독도를 지켜내지 못해서야 되겠습니까?</p>
<p>앞으로 4개월 밖에 남지 않았습니다. 돌아오는 2009년 9월4일은 간도를 빼앗긴 지 꼭 100년이 됩니다. 우리 세대에서 ‘되찾아야 할 우리의 땅’ 간도(間島)를 찾지 못하면 영원히 잊혀지게 될 지도 모릅니다. 그렇게 된다면 우리에게 2009년 9월4일은 국치일로 남게 될 것입니다.</p>
<p>여러분의 관심이 일본이 빼앗으려는 독도를 지키는것 뿐만아니라 일본이 마음대로 팔아넘긴 우리땅 간도를 되찾는데에도 큰힘이 됩니다. 꼭 당장 이루어지는것은 아니지만 지금 우리가 무한한 관심을 보낸다면 10년,100년뒤에는 반드시 우리의 땅이 되어 있을것입니다.</p>
<p>또한 &#8216;간도되찾기운동본부&#8217;에 소속되어 있는 대학생 5명으로 이루어진 &#8216;간도피플&#8217;은 우리땅 간도를 잘모르는 우리국민들에게 간도를 알리고 간도협약의 부당함을 알리고자 &#8216;자전거 전국일주&#8217;를 준비하여 7월 13일에 출발 예정에 있습니다.<br />
여러분의 작은 관심과 응원 부탁드립니다.</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/post0/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>1</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>多文化交流会　at Tsuruhashi</title>
		<link>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%9a%e6%96%87%e5%8c%96%e4%ba%a4%e6%b5%81%e4%bc%9a%e3%80%80at-tsuruhashi/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%9a%e6%96%87%e5%8c%96%e4%ba%a4%e6%b5%81%e4%bc%9a%e3%80%80at-tsuruhashi/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 10:32:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア旅行記]]></category>
		<category><![CDATA[日本の中のアジア]]></category>
		<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e5%a4%9a%e6%96%87%e5%8c%96%e4%ba%a4%e6%b5%81%e4%bc%9a%e3%80%80at-tsuruhashi/</guid>
		<description><![CDATA[6月20日、鶴橋本通にある韓国伝統茶店「ハナ」で、多文化交流会がありました。
「ハナ」とは、韓国語で「ひとつ」という意味です。
私は、先週あった「ワンコリアフェスティヴァル」の集会の席でもらったチラシをつてに、JR鶴橋駅から歩いていきました。

この日は、夏至の前日。
厨房以外の明かりを消し、冷房も消して、再利用の廃キャンドルを点しての交流会。
かつての時代の夜を再現した、エコナイトでした。
主催した手塚さんと山中さんの、アイディアです。






「ハナ」は、普段は韓国伝統茶のお店です。
壁には、著名なイラストレーター、黒田征太郎氏の絵が、いっぱいに描かれています。

キャンドルライトの下、集まった皆さんと、楽しく会話しました。
喫茶店ですが、今夜はマッコリをメニューに出していただきました。これがなくっちゃ。
アンジュ（つまみ）として、駅前でチヂミとチョッパル（豚足）を買ってきました。
持ち込みOKのパーティーでしたので。
マッコリといえばチヂミかな～と、思ったので。
聞けば、チヂミの焼ける音は、雨の音だとか。
その音を聞きながら、雨の日にチヂミをアンジュに、マッコリを楽しむ。それが、韓国の風流というものなのかな？
－この日は梅雨の最中で蒸し暑かったものの、雨は降りませんでしたけれど。






手塚さんは、韓国語の講師もやっています。
韓国に留学までして、韓国語をマスターした、すごい人です。
山中さんは、オーストラリア留学中に韓国人と知り合ったことを通じて、隣国に興味を持たれたと聞きました。
今夜集まった人々は、いろいろなきっかけで、多文化交流の集いに集まったみなさんでした。
私が隣国に興味を持ったきっかけは、今年2月に行った、韓国旅行からでした。
私は、自分が感動した三つの点を、皆さんに説明しようとしました。

하나 &#8211; 한국의 길이 아주 아름다웠어요.
ひとつ－韓国の道は、きれいだったです。
둘 &#8211; 음식이 다 싸고, 그리고 맛있었어요.
ふたつ－料理がみな安くて、そして美味かったです。
셋 &#8211; 사람의 인정에 감동했어요.
みっつ－ひとびとの人情に、感動しました。
実際には、こんなにすらすら言っていません。
私の韓国語は、まだまだです。
私は、「道がゴミもなくてきれいだった」と言おうとして、
아름다웠어요. アルムダウォッソヨ。
の言葉を使ったら、手塚さんから、「その場合はむしろ、『ケックタダ』（清い、清潔だ）のほうがいいですね。」と教えられた。
私が「ケックタダ」のハングルを書けないでいると、彼女はすらすらと「깨끗하다」とカードに書いてくれた。
「『アルムダプタ』は、『わあ、素敵できれい！』といった感じの、言葉です。」
「あと、『コップタ（곱다）』っていう言葉もありますよね。その違いは？」
「たとえば、年配の方が綺麗なチマチョゴリを着ていたりしたとき、『コップタ』ですね。」
日本語ならば「清楚だ」って、感じだろうか。
さすが、上手に指摘なさる。
韓国語で「趣（おもむき）」は、モッ（멋）といいます。
멋이 있어요.　モシ　イッソヨ。
と言えば、「趣があります」＝「すばらしい」と言う意味になります。
今晩は、まことに、モシ　イッソッソヨ。（すばらしかったです）








]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>6月20日、鶴橋本通にある韓国伝統茶店「ハナ」で、多文化交流会がありました。<br />
「ハナ」とは、韓国語で「ひとつ」という意味です。<br />
私は、先週あった「ワンコリアフェスティヴァル」の集会の席でもらったチラシをつてに、JR鶴橋駅から歩いていきました。<br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200016.JPG"><img alt="P6200016.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200016-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a><br />
この日は、夏至の前日。<br />
厨房以外の明かりを消し、冷房も消して、再利用の廃キャンドルを点しての交流会。<br />
かつての時代の夜を再現した、エコナイトでした。<br />
主催した手塚さんと山中さんの、アイディアです。</p>
<table>
<tr>
<td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200004.JPG"><img alt="P6200004.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200004-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200009.JPG"><img alt="P6200009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200009-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
</tr>
</table>
<p>「ハナ」は、普段は韓国伝統茶のお店です。<br />
壁には、著名なイラストレーター、黒田征太郎氏の絵が、いっぱいに描かれています。<br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200020.JPG"><img alt="P6200020.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200020-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a><br />
キャンドルライトの下、集まった皆さんと、楽しく会話しました。<br />
喫茶店ですが、今夜はマッコリをメニューに出していただきました。これがなくっちゃ。<br />
アンジュ（つまみ）として、駅前でチヂミとチョッパル（豚足）を買ってきました。<br />
持ち込みOKのパーティーでしたので。<br />
マッコリといえばチヂミかな～と、思ったので。<br />
聞けば、チヂミの焼ける音は、雨の音だとか。<br />
その音を聞きながら、雨の日にチヂミをアンジュに、マッコリを楽しむ。それが、韓国の風流というものなのかな？<br />
－この日は梅雨の最中で蒸し暑かったものの、雨は降りませんでしたけれど。</p>
<table>
<tr>
<td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200008.JPG"><img alt="P6200008.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200008-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200001.JPG"><img alt="P6200001.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200001-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
</tr>
</table>
<p>手塚さんは、韓国語の講師もやっています。<br />
韓国に留学までして、韓国語をマスターした、すごい人です。<br />
山中さんは、オーストラリア留学中に韓国人と知り合ったことを通じて、隣国に興味を持たれたと聞きました。<br />
今夜集まった人々は、いろいろなきっかけで、多文化交流の集いに集まったみなさんでした。<br />
私が隣国に興味を持ったきっかけは、今年2月に行った、韓国旅行からでした。<br />
私は、自分が感動した三つの点を、皆さんに説明しようとしました。</p>
<blockquote><p>
하나 &#8211; 한국의 길이 아주 아름다웠어요.<br />
ひとつ－韓国の道は、きれいだったです。<br />
둘 &#8211; 음식이 다 싸고, 그리고 맛있었어요.<br />
ふたつ－料理がみな安くて、そして美味かったです。<br />
셋 &#8211; 사람의 인정에 감동했어요.<br />
みっつ－ひとびとの人情に、感動しました。</p></blockquote>
<p>実際には、こんなにすらすら言っていません。<br />
私の韓国語は、まだまだです。<br />
私は、「道がゴミもなくてきれいだった」と言おうとして、<br />
아름다웠어요. アルムダウォッソヨ。<br />
の言葉を使ったら、手塚さんから、「その場合はむしろ、『ケックタダ』（清い、清潔だ）のほうがいいですね。」と教えられた。<br />
私が「ケックタダ」のハングルを書けないでいると、彼女はすらすらと「깨끗하다」とカードに書いてくれた。<br />
「『アルムダプタ』は、『わあ、素敵できれい！』といった感じの、言葉です。」<br />
「あと、『コップタ（곱다）』っていう言葉もありますよね。その違いは？」<br />
「たとえば、年配の方が綺麗なチマチョゴリを着ていたりしたとき、『コップタ』ですね。」<br />
日本語ならば「清楚だ」って、感じだろうか。<br />
さすが、上手に指摘なさる。<br />
韓国語で「趣（おもむき）」は、モッ（멋）といいます。<br />
멋이 있어요.　モシ　イッソヨ。<br />
と言えば、「趣があります」＝「すばらしい」と言う意味になります。<br />
今晩は、まことに、モシ　イッソッソヨ。（すばらしかったです）</p>
<table>
<tr>
<td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200026.JPG"><img alt="P6200026.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200026-thumb.JPG" width="150" height="112" /></a>
</td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200025.JPG"><img alt="P6200026.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200025-thumb.JPG" width="150" height="112" /></a><br />
</a></td>
</tr>
</table>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%9a%e6%96%87%e5%8c%96%e4%ba%a4%e6%b5%81%e4%bc%9a%e3%80%80at-tsuruhashi/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>文京沫『済州島四・三事件』</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%96%87%e4%ba%ac%e6%b2%ab%e3%80%8e%e6%b8%88%e5%b7%9e%e5%b3%b6%e5%9b%9b%e3%83%bb%e4%b8%89%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%96%87%e4%ba%ac%e6%b2%ab%e3%80%8e%e6%b8%88%e5%b7%9e%e5%b3%b6%e5%9b%9b%e3%83%bb%e4%b8%89%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 08:56:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>
		<category><![CDATA[韓国文学・歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e6%96%87%e4%ba%ac%e6%b2%ab%e3%80%8e%e6%b8%88%e5%b7%9e%e5%b3%b6%e5%9b%9b%e3%83%bb%e4%b8%89%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/</guid>
		<description><![CDATA[2008年4月、平凡社より発行。
四・三は、（光州事件などの）韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政（単独選挙・単独政府）反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。（pp.213）
2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇～三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。
本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局（大統領・李承晩）による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年（1923）、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」（pp36）。
本書内に引用されている1934年（昭和九年）の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4％で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」（「おわりに」より）
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地（済州島人にとって、半島）から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」（実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが）に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。
「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。
いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。
・1948～49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。
・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた（1946年秋の「１０月人民抗争」）。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順（ヨスン）事件」が起こった。全羅南道の麗水（ヨス）で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」（pp121）、順天（スンチョン）を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。
・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。
四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。
しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア（=難問）」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。
四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2008年4月、平凡社より発行。</p>
<blockquote><p>四・三は、（光州事件などの）韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政（単独選挙・単独政府）反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。（pp.213）</p></blockquote>
<p>2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇～三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。<br />
本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局（大統領・李承晩）による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。<br />
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。<br />
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。<br />
大正十二年（1923）、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」（pp36）。<br />
本書内に引用されている1934年（昭和九年）の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。<br />
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4％で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。<br />
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」（「おわりに」より）<br />
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地（済州島人にとって、半島）から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」（実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが）に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。<br />
「四・三」という名称は、誤解を招く。<br />
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。<br />
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。<br />
いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。<br />
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。<br />
・1948～49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。<br />
・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた（1946年秋の「１０月人民抗争」）。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順（ヨスン）事件」が起こった。全羅南道の麗水（ヨス）で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」（pp121）、順天（スンチョン）を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。<br />
・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。<br />
四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。<br />
しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア（=難問）」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。<br />
四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%96%87%e4%ba%ac%e6%b2%ab%e3%80%8e%e6%b8%88%e5%b7%9e%e5%b3%b6%e5%9b%9b%e3%83%bb%e4%b8%89%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8f/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>2</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>李榮薫『大韓民国の物語　韓国の「国史」教科書を書き換えよ』</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9d%8e%e6%a6%ae%e8%96%ab%e3%80%8e%e5%a4%a7%e9%9f%93%e6%b0%91%e5%9b%bd%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e3%80%8d%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9d%8e%e6%a6%ae%e8%96%ab%e3%80%8e%e5%a4%a7%e9%9f%93%e6%b0%91%e5%9b%bd%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e3%80%8d%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 15 Jun 2009 23:48:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>
		<category><![CDATA[韓国文学・歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e6%9d%8e%e6%a6%ae%e8%96%ab%e3%80%8e%e5%a4%a7%e9%9f%93%e6%b0%91%e5%9b%bd%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e3%80%8d%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8/</guid>
		<description><![CDATA[本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。（末尾に英語の題だけが、書かれている。）
著者の李榮薫（イ・ヨンフン）氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』（1988）、『朝鮮土地調査事業の研究』（共著、1997）、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』（2005）など。
著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。
「이 영훈」で検索する。
ない。
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。
教授の写真付きで、出てきた。
教授について書かれたカフェ文（카페글）の表題を、見る。
「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究！」
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ！」
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」
えげつない言葉が、並んでいる。
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号（？）を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。
本書は、三部に分かれている。
第一部　歴史への視線
第二部　文明史の大転換
第三部　くに作り
第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』（ハンギル社、1979-1989）という書物である。
第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。
第三部は、李承晩（イ・スンマン）政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。
本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。
とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。
あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」（本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉）に近づいている。
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。
李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。<br />
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。（末尾に英語の題だけが、書かれている。）<br />
著者の李榮薫（イ・ヨンフン）氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』（1988）、『朝鮮土地調査事業の研究』（共著、1997）、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』（2005）など。<br />
著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。<br />
「이 영훈」で検索する。<br />
ない。<br />
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。<br />
教授の写真付きで、出てきた。<br />
教授について書かれたカフェ文（카페글）の表題を、見る。<br />
「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究！」<br />
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ！」<br />
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」<br />
えげつない言葉が、並んでいる。<br />
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号（？）を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。<br />
本書は、三部に分かれている。<br />
第一部　歴史への視線<br />
第二部　文明史の大転換<br />
第三部　くに作り<br />
第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』（ハンギル社、1979-1989）という書物である。<br />
第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。<br />
第三部は、李承晩（イ・スンマン）政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。<br />
本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。<br />
とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。<br />
あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」（本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉）に近づいている。<br />
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。<br />
李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9d%8e%e6%a6%ae%e8%96%ab%e3%80%8e%e5%a4%a7%e9%9f%93%e6%b0%91%e5%9b%bd%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e3%80%8d%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>大阪・生野・コリアンタウン</title>
		<link>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%a7%e9%98%aa%e3%83%bb%e7%94%9f%e9%87%8e%e3%83%bb%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%82%a6%e3%83%b3/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%a7%e9%98%aa%e3%83%bb%e7%94%9f%e9%87%8e%e3%83%bb%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%82%a6%e3%83%b3/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 11:50:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アジア旅行記]]></category>
		<category><![CDATA[日本の中のアジア]]></category>
		<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e5%a4%a7%e9%98%aa%e3%83%bb%e7%94%9f%e9%87%8e%e3%83%bb%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%82%a6%e3%83%b3/</guid>
		<description><![CDATA[
大阪環状線から３００メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。


この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。
その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。

大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。











店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。

チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。
この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。
６月１４日、ワンコリアフェスティヴァルの催しを、当初からかれこれ２５年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。

コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫（しゅんせつ）工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」
背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。
「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。
「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」

もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4％で、神戸や横浜よりも高い比率であった（文京沫『済州島四・三事件』所収の資料より）。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であったのだ。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね？」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。
会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」
戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であった。
このニ道には、最も重要な日本への定期航路が、開かれていた。
一つは、釜山から下関への、関釜連絡線。
金達寿（キム・タルス）の小説『玄界灘』で、「釜山港！関釜連絡線！そこは朝鮮人にとってどんなところであり、どんなものであっただろうか」と書かれた、連絡航路であった。ここを通って、数多くの半島人が、日本に渡ってきた。
そしてもう一つが、済島道から大阪への連絡線、「君が代丸」であった。
大正十二年（1923）、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」（文京沫『済州島四・三事件』pp36より）。
こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。
とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来た。
御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、店の看板として飾られているのを、見かけた。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来も分からない頃から島にあった、遺跡であった。
石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑（チェジュウプ）の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
（下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。）

この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。
「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。

東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」


このパネルは、（年度は失念したが）ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」

御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。
現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」
私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉（まがたま）がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品（あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品）と、同時代性を感じる。
チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました－」
彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。
「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」
ただの余談だが、私は、個人的にはチョン会長の意見とは違った意見を持っている。
日本語と韓国・朝鮮語は、その基礎語彙が全く一致しておらず、古い起源を遡れば、おそらく何の関係もない言語だったであろう。
それなのに互いに意思疎通ができたのは、東アジアを巻き込んだ、交流の結果だったのではないか、と私は思う。
隣に文化大国の中国を控えて、周辺諸国である日本と朝鮮半島諸国は、くに作りのために文化を積極的に吸収していった。文字を学び、言葉を輸入し、そしてくにが組織されれば、隣国との外交もまた活発になっていった。
こうして、人の交流がさかんとなった結果、言語と文化が似通ったものとなった。
日本語と韓国・朝鮮語は、大量の中国語由来の言葉を輸入した結果、語彙に非常に重なりが生じて、文法までそっくり似たものとなった。そのため、まるで兄弟言語であるかのように、現代の両国語は似ている。これはもともとが生まれの兄弟だからだったのではなくて、かつて親しかったから似通った姿となった、名残りなのではないだろうか？（さらに余談だが、似たような現象は、英語とフランス語にも起きている。英語の真の兄弟言語はドイツ語だが、英語はフランス語からの圧倒的な影響を歴史上受けたために、現代は語彙・文法が最もフランス語に近く、ドイツ語からは遠ざかっている。）
1500年ほど昔の日本、朝鮮半島、中国の東アジアは、後の時代よりもずっと盛んに、互いが行き来していた時代があったに違いない。


（クリックすると、拡大します。）
今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津（なにわつ）。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇（5世紀）と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。
古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江（なにわのほりえ、運河）、茨田堤（まんだのつつみ、堤防）、猪甘津の小橋（いかいつのおばし、橋）といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった（日本書紀に、「難波高津宮（なにわたかつのみや）」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない）。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。
かつて、百済郡（くだらぐん）と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅（くだらえき）という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済（ペッチェ）人のコロニーと、関わりがあった。
「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」
半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏（はたうじ）は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか？
新羅の都である慶州（キョンジュ）は、盆地の中央を兄山江（ヒョンサンガン）が、南北に流れている。
百済の都であった扶余（プヨ）もまた、同様であった。白馬江（ペンマガン）が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇（8世紀）。
この天皇の母親である高野新笠（たかののにいがさ）は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか？
会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」
わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。








Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。










彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか？

、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか？
それとも、川面の水の、色なのだろうか。
そんなことを、思ったりする。
&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;
ワンコリアフェスティバル　http://hana.wwonekorea.com/
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140025.JPG"><img alt="P6140025.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140025-thumb.JPG" width="187" height="250" /></a></br></br><br />
大阪環状線から３００メートルほど東側に沿って、バス通りがある。<br />
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。<br />
</br><br />
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=34.66046356271682,135.53475737571716&amp;ie=UTF8&amp;ll=34.66046356271682,135.53475737571716&amp;t=h&amp;z=17&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="34.660464,135.534757"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=34.66046356271682,135.53475737571716,red&amp;zoom=17&amp;size=500x350&amp;key=ABQIAAAAmX_VoidkT4QogTaM-a42xxRcOCAyTUHnSpxlmrhEPf8ZiZ62QRTGZRXdvSwj0UyAGUzMZ_mxagbr4g&amp;hl=ja" alt="34.660464,135.534757" title="34.660464,135.534757" /></a><br />
</br><br />
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。<br />
当時、この近辺は工場の密集地であった。<br />
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。<br />
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。<br />
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。<br />
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。<br />
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。<br />
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。<br />
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。<br />
「疎開道路」の、始まりである。<br />
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。<br />
その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140002.JPG"><img alt="P6140002.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140002-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></br></br><br />
大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。<br />
正式名称、御幸通商店街。<br />
これが通称、コリアンタウン。</br></br></p>
<table>
<tr>
<td width="220" height="180"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140010.JPG"><img alt="P6140010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140010-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140011.JPG"><img alt="P6140011.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140011-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>
</td>
</tr>
<tr>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140022.JPG"><img alt="P6140022.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140022-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
</tr>
</table>
<p></br></br><br />
店先には、韓国語が並ぶ。<br />
韓国の食材が、売られている。<br />
おなじみのキムチ、チジミ。<br />
店頭売りの、ホルモン。<br />
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。<br />
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。<br />
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140012.JPG"><img alt="P6140012.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140012-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></br></br><br />
チマチョゴリを売る、服屋。<br />
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。<br />
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。<br />
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。<br />
この街には、漢字もひらがなも、混在している。<br />
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。<br />
この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。<br />
６月１４日、<a href="http://hana.wwonekorea.com/">ワンコリアフェスティヴァル</a>の催しを、当初からかれこれ２５年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140017.JPG"><img alt="P6140017.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140017-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></br></br><br />
コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。<br />
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫（しゅんせつ）工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」<br />
背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。<br />
「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」<br />
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。<br />
「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140018.JPG"><img alt="P6140018.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140018-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></br></br><br />
もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。<br />
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」<br />
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。<br />
かつての日本が、現在の中国の姿であった。<br />
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4％で、神戸や横浜よりも高い比率であった（文京沫『済州島四・三事件』所収の資料より）。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であったのだ。<br />
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。<br />
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」<br />
に聞いた。<br />
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。<br />
「鳥が、戻りますかね？」<br />
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。<br />
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」<br />
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。<br />
会長の話に、戻る。<br />
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」<br />
戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であった。<br />
このニ道には、最も重要な日本への定期航路が、開かれていた。<br />
一つは、釜山から下関への、関釜連絡線。<br />
金達寿（キム・タルス）の小説『玄界灘』で、「釜山港！関釜連絡線！そこは朝鮮人にとってどんなところであり、どんなものであっただろうか」と書かれた、連絡航路であった。ここを通って、数多くの半島人が、日本に渡ってきた。<br />
そしてもう一つが、済島道から大阪への連絡線、「君が代丸」であった。<br />
大正十二年（1923）、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」（文京沫『済州島四・三事件』pp36より）。</p>
<p>こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。<br />
とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来た。<br />
御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、店の看板として飾られているのを、見かけた。<br />
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。<br />
由来も分からない頃から島にあった、遺跡であった。<br />
石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑（チェジュウプ）の四隅に、配置されていた。<br />
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。<br />
（下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。）</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D.jpg"><img alt="000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D.jpg" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D-thumb.jpg" width="150" height="200" /></a></br></br><br />
この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。<br />
「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」<br />
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140020.JPG"><img alt="P6140020.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140020-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></br></br><br />
東大阪朝鮮第四初級学校。<br />
会長の、母校でもある。<br />
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。<br />
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」<br />
</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140021.JPG"><img alt="P6140021.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140021-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a></br></br></p>
<p>このパネルは、（年度は失念したが）ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。<br />
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140023.JPG"><img alt="P6140023.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140023-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a></br></br><br />
御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。<br />
現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。<br />
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」<br />
私は、今年慶州の国立博物館に行った。<br />
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。<br />
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。<br />
新羅でもまた、勾玉（まがたま）がアクセサリーとして流行していた。<br />
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。<br />
日本の正倉院からペルシャの製品（あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品）と、同時代性を感じる。<br />
チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。<br />
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました－」<br />
彼らのことを、帰化人と言う。<br />
近年、渡来人と呼ばれるようになった。<br />
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。<br />
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。<br />
「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」<br />
ただの余談だが、私は、個人的にはチョン会長の意見とは違った意見を持っている。<br />
日本語と韓国・朝鮮語は、その基礎語彙が全く一致しておらず、古い起源を遡れば、おそらく何の関係もない言語だったであろう。<br />
それなのに互いに意思疎通ができたのは、東アジアを巻き込んだ、交流の結果だったのではないか、と私は思う。<br />
隣に文化大国の中国を控えて、周辺諸国である日本と朝鮮半島諸国は、くに作りのために文化を積極的に吸収していった。文字を学び、言葉を輸入し、そしてくにが組織されれば、隣国との外交もまた活発になっていった。<br />
こうして、人の交流がさかんとなった結果、言語と文化が似通ったものとなった。<br />
日本語と韓国・朝鮮語は、大量の中国語由来の言葉を輸入した結果、語彙に非常に重なりが生じて、文法までそっくり似たものとなった。そのため、まるで兄弟言語であるかのように、現代の両国語は似ている。これはもともとが生まれの兄弟だからだったのではなくて、かつて親しかったから似通った姿となった、名残りなのではないだろうか？（さらに余談だが、似たような現象は、英語とフランス語にも起きている。英語の真の兄弟言語はドイツ語だが、英語はフランス語からの圧倒的な影響を歴史上受けたために、現代は語彙・文法が最もフランス語に近く、ドイツ語からは遠ざかっている。）<br />
1500年ほど昔の日本、朝鮮半島、中国の東アジアは、後の時代よりもずっと盛んに、互いが行き来していた時代があったに違いない。<br />
</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/Ancientosaka.JPG"><img alt="Ancientosaka.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/Ancientosaka-thumb.JPG" width="300" height="208" /></a><br />
<font size="0.8em">（クリックすると、拡大します。）</font></br></br><br />
今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津（なにわつ）。<br />
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇（5世紀）と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。<br />
古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。<br />
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。<br />
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。<br />
難波の堀江（なにわのほりえ、運河）、茨田堤（まんだのつつみ、堤防）、猪甘津の小橋（いかいつのおばし、橋）といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった（日本書紀に、「難波高津宮（なにわたかつのみや）」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない）。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。<br />
かつて、百済郡（くだらぐん）と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。<br />
現在では、百済駅（くだらえき）という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。<br />
これらの地名は全て、かつて百済（ペッチェ）人のコロニーと、関わりがあった。<br />
「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」<br />
半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。<br />
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏（はたうじ）は、半島からやって来た集団であった。<br />
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。<br />
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。<br />
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか？<br />
新羅の都である慶州（キョンジュ）は、盆地の中央を兄山江（ヒョンサンガン）が、南北に流れている。<br />
百済の都であった扶余（プヨ）もまた、同様であった。白馬江（ペンマガン）が、内陸盆地の都を、貫いている。<br />
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。<br />
平安京に都を移したのは、桓武天皇（8世紀）。<br />
この天皇の母親である高野新笠（たかののにいがさ）は、百済移民の子孫であった。<br />
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。<br />
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか？<br />
会長は、最後に言った。<br />
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」</br></br><br />
わずか1時間足らずの、ツアーであった。<br />
夏の日差しが、暑い。<br />
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。<br />
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。</br></br></p>
<table>
<tr>
<td width="220"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140016.JPG"><img alt="P6140016.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140016-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a></td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140014.JPG"><img alt="P6140014.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140014-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>
</td>
</tr>
</table>
<p></br></br><br />
Koreanの色は、緑。<br />
私が、旅行で感じた、とおりだ。</br></br></p>
<table>
<tr>
<td height="150"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005.JPG"><img alt="12870005.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
</td>
</tr>
<tr>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P5020003.JPG"><img alt="P5020003.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P5020003-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td>
</tr>
</table>
<p></br></br><br />
彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。<br />
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。<br />
この緑への好みは、どこから来たんだろうか？</br></br><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140015.JPG"><img alt="P6140015.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140015-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a></br></br><br />
、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか？<br />
それとも、川面の水の、色なのだろうか。<br />
そんなことを、思ったりする。<br />
&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;<br />
ワンコリアフェスティバル　<a href="http://hana.wwonekorea.com/">http://hana.wwonekorea.com/</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/tabi/%e5%a4%a7%e9%98%aa%e3%83%bb%e7%94%9f%e9%87%8e%e3%83%bb%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%82%a6%e3%83%b3/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>美しい韓国の川だけは、守ってほしい</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e5%b7%9d%e3%81%a0%e3%81%91%e3%81%af%e3%80%81%e5%ae%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%bb%e3%81%97%e3%81%84/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e5%b7%9d%e3%81%a0%e3%81%91%e3%81%af%e3%80%81%e5%ae%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%bb%e3%81%97%e3%81%84/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 11 Jun 2009 02:26:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e5%b7%9d%e3%81%a0%e3%81%91%e3%81%af%e3%80%81%e5%ae%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%bb%e3%81%97%e3%81%84/</guid>
		<description><![CDATA[
私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。
世界遺産の、仏国寺では、ありません。
海印寺でも、釜山タワーでも、ありません。
洛東江（ナットンガン）の、まるで水墨画をこの世に再現したかのような、美しい流れであった。
いま、韓国理財部は、低迷する国家経済に刺激を与えるために、数十兆の資金を投入して四大河川改造事業を行う計画であるという。
河川の間に運河を掘り進めるという現大統領の抱負を聞き知ったときには仰天したが、現在の計画では、今のところ運河事業は盛り込まれていないようで、私は一安心した。
Daumの討論コーナーであるアゴラでは、「四大河事業」に対する賛否の意見が、激しく戦わされている。
ある論客は、韓国が日本の土建国家への道を進もうとしている、と反対している。
その懸念は、当然であろう。
韓国でも、日本の壊れた海や川を再現してほしくはない。
金と仕事を回す経済は、人間の生活のためである。
しかし、美しい水と景観を後世の国民に残すことも、また人間の生活のためである。
日本の無残な姿を反面教師として、よく学んでほしい。
そしてできれば、日本の（システムとしては腐っているかもしれないが、技術としては優秀な）力を、役に立ててほしい。
「理財部の四大河河川保護事業は、結局国土を壊す売国政策であることを知るとき、これをのうのうと見逃している者は、売国奴李完用とその末裔である親日派縁戚以外には、ないであろう」（アゴラの一投稿者の言葉）というような言葉が、韓国の川の美しさを知る日本人の私として、痛い。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/korea/0221/012.jpg"><img alt="012.jpg" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/korea/0221/012-thumb.jpg" width="250" height="187" /></a><br />
私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。<br />
世界遺産の、仏国寺では、ありません。<br />
海印寺でも、釜山タワーでも、ありません。<br />
洛東江（ナットンガン）の、まるで水墨画をこの世に再現したかのような、美しい流れであった。<br />
いま、韓国理財部は、低迷する国家経済に刺激を与えるために、数十兆の資金を投入して四大河川改造事業を行う計画であるという。<br />
河川の間に運河を掘り進めるという現大統領の抱負を聞き知ったときには仰天したが、現在の計画では、今のところ運河事業は盛り込まれていないようで、私は一安心した。<br />
Daumの討論コーナーであるアゴラでは、「四大河事業」に対する賛否の意見が、激しく戦わされている。<br />
ある論客は、韓国が日本の土建国家への道を進もうとしている、と反対している。<br />
その懸念は、当然であろう。<br />
韓国でも、日本の壊れた海や川を再現してほしくはない。<br />
金と仕事を回す経済は、人間の生活のためである。<br />
しかし、美しい水と景観を後世の国民に残すことも、また人間の生活のためである。<br />
日本の無残な姿を反面教師として、よく学んでほしい。<br />
そしてできれば、日本の（システムとしては腐っているかもしれないが、技術としては優秀な）力を、役に立ててほしい。<br />
「理財部の四大河河川保護事業は、結局国土を壊す売国政策であることを知るとき、これをのうのうと見逃している者は、売国奴李完用とその末裔である親日派縁戚以外には、ないであろう」（アゴラの一投稿者の言葉）というような言葉が、韓国の川の美しさを知る日本人の私として、痛い。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%81%ae%e5%b7%9d%e3%81%a0%e3%81%91%e3%81%af%e3%80%81%e5%ae%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%bb%e3%81%97%e3%81%84/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>2</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>「386世代」の原点</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c386%e4%b8%96%e4%bb%a3%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%82%b9/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c386%e4%b8%96%e4%bb%a3%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%82%b9/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 09 Jun 2009 00:41:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e3%80%8c386%e4%b8%96%e4%bb%a3%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%82%b9/</guid>
		<description><![CDATA[1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。
日本ではバブル景気がとめどもなく拡大していた時代で、当時東京の大学に入りたての私は、週末になればコンパだ飲み会だとのスケジュールが入って、新宿のライブハウスでバカ騒ぎしていた群衆を見ていた。
ひねくれ者の私は、若い集団のパワーに圧倒されたというよりは、こいつら何が楽しくてこんなに浮かれているのか？と、わざとのように理性を捨てようとしていた姿に、底意地の悪い冷ややかな視線を送っていたものだ。日本では、もう学生運動は一部の好き者が続けている、悪趣味の一つに堕落していた。いっぱんの学生は、飲んで騒いでサークル巡りするばかりであった。校則が厳しい高校を卒業して上京した私は、都立高校出身の同級たちから、彼らがすでに高校時代から合コンとか飲み会とかやりまくっていたという話を聞かされて、驚いた。酒飲んでいいのか？というレベルの驚きではなくて、そんなに早くから浮かれていていいのか？という、私のくそ真面目な性分から出た、驚きだった。
この時期、韓国はソウルオリンピックを翌年に控えていた。
そして、学生運動が爆発していた。
日本では1960年の安保闘争以来見られなくなった、民主化を目指して政府と衝突する熱い大衆運動が、ここではまだ現在進行中であった。当局による大衆への大殺傷事件である光州事件は、じつに80年代初頭に起こった。韓国は、まだ民主化を勝ち取る過程の真っ最中であった。
Daumの議論コーナー「アゴラ」に、今日投稿された記事があった。
Exciteを使えば、大略は分かる。
訳してみたいが、まだそれだけの韓国語の力量が、まだ私にはない。
22年経って、そろそろ民主化運動の記憶も、風化する寸前と見たほうが、よいのであろうか。日本では、60年安保から22年後には、もう労働運動も学生運動も、どこかに消え去っていた。今年5月のノ・ムヒョン前大統領の急死では、「386世代」たちの声がにわかに高まって、韓国中を覆った。「6.10」の頃に学生だった人々が今や韓国社会の中堅となっているから、彼らの声が現在の韓国でいちばん大きく聞こえるのは、当然というべきであろう。しかし、今の下の世代は、「386世代」とはまた別の現実に直面しているように見える。現在の現実を、どのように解決していくべきかを提案するのは、誰なのであろうか。
&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;

내일이면 6.10 민주항쟁이 일어난지 꼭 22주년이 되는 날이군요.
작년 이맘때쯤 온 나라를 뜨겁게 달구었던 촛불문화제와 맞물려 더 나은 대한민국과 더 나은 민주주의를 위
하여 살신성인 했던 수 많은 분들을 떠올리며 다시 한번 그 분들께 감사 드리는 한편 현 시점에서 우리에게
민주주의란 무엇인지 우리는 어떻게 더 나은 민주주의를 위하여 노력해야 할 것인지 생각해 봐야 할 것 같습
니다.
당시 독재타도를 외치던 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。<br />
日本ではバブル景気がとめどもなく拡大していた時代で、当時東京の大学に入りたての私は、週末になればコンパだ飲み会だとのスケジュールが入って、新宿のライブハウスでバカ騒ぎしていた群衆を見ていた。<br />
ひねくれ者の私は、若い集団のパワーに圧倒されたというよりは、こいつら何が楽しくてこんなに浮かれているのか？と、わざとのように理性を捨てようとしていた姿に、底意地の悪い冷ややかな視線を送っていたものだ。日本では、もう学生運動は一部の好き者が続けている、悪趣味の一つに堕落していた。いっぱんの学生は、飲んで騒いでサークル巡りするばかりであった。校則が厳しい高校を卒業して上京した私は、都立高校出身の同級たちから、彼らがすでに高校時代から合コンとか飲み会とかやりまくっていたという話を聞かされて、驚いた。酒飲んでいいのか？というレベルの驚きではなくて、そんなに早くから浮かれていていいのか？という、私のくそ真面目な性分から出た、驚きだった。<br />
この時期、韓国はソウルオリンピックを翌年に控えていた。<br />
そして、学生運動が爆発していた。<br />
日本では1960年の安保闘争以来見られなくなった、民主化を目指して政府と衝突する熱い大衆運動が、ここではまだ現在進行中であった。当局による大衆への大殺傷事件である光州事件は、じつに80年代初頭に起こった。韓国は、まだ民主化を勝ち取る過程の真っ最中であった。<br />
Daumの議論コーナー「アゴラ」に、今日投稿された記事があった。<br />
Exciteを使えば、大略は分かる。<br />
訳してみたいが、まだそれだけの韓国語の力量が、まだ私にはない。<br />
22年経って、そろそろ民主化運動の記憶も、風化する寸前と見たほうが、よいのであろうか。日本では、60年安保から22年後には、もう労働運動も学生運動も、どこかに消え去っていた。今年5月のノ・ムヒョン前大統領の急死では、「386世代」たちの声がにわかに高まって、韓国中を覆った。「6.10」の頃に学生だった人々が今や韓国社会の中堅となっているから、彼らの声が現在の韓国でいちばん大きく聞こえるのは、当然というべきであろう。しかし、今の下の世代は、「386世代」とはまた別の現実に直面しているように見える。現在の現実を、どのように解決していくべきかを提案するのは、誰なのであろうか。<br />
&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;</p>
<p><span id="more-721"></span><br />
내일이면 6.10 민주항쟁이 일어난지 꼭 22주년이 되는 날이군요.<br />
작년 이맘때쯤 온 나라를 뜨겁게 달구었던 촛불문화제와 맞물려 더 나은 대한민국과 더 나은 민주주의를 위<br />
하여 살신성인 했던 수 많은 분들을 떠올리며 다시 한번 그 분들께 감사 드리는 한편 현 시점에서 우리에게<br />
민주주의란 무엇인지 우리는 어떻게 더 나은 민주주의를 위하여 노력해야 할 것인지 생각해 봐야 할 것 같습<br />
니다.<br />
당시 독재타도를 외치던 국민들의 분노를 한층 더 끌어 올리게 된 고 이한열 열사의 최루탄 피격 사건은 결<br />
국 직선제라는 커다란 결실을 국민들에게 안겨 주었지만 그 과정에서 많은 분들의 희생이 있었음은 부인하<br />
기 어려운 사실일 것입니다.분명 22년전의 그 날은 대한민국의 민주주의를 한 단계 더 나아갈 수 있게한 너<br />
무도 소중한 날임이 분명할 것이지만 한편으로 제게는 너무도 아찔한 순간이었으며 지금도 그 때를 생각하<br />
면 온 몸에 전율이 올라오며 부르르 떨리는 마음을 주체할 수가 없는듯 합니다.<br />
그 당시 저는 군에 몸을 담고 있었으며 제가 속한 부대는 일명 &#8216; 충정부대 &#8216;로서 사회에서 각종 과격시위나 집<br />
회가 발생하면 제일 먼저 경찰력이 투입되고 진압을 하게 되지만 그 규모나 시위방식이 너무 격하여 도저히<br />
경찰력만으로 진압이 안 되는 극한 상황에서 바로 저희같은 부대가 출동하여 제압을 하고 질서유지를 도모<br />
하는 것이 저희 부대의 임무중 하나였었습니다.물론 그 충정훈련이라는 것은 차라리 100Km 행군을 하고 말<br />
지 하는 생각이 들 정도로 너무 고되고 힘든 훈련이었으며 무더운 날씨에도 방독면을 쓰고 숨조차 제대로 쉴<br />
수 없는 상황에서 진압봉을 들고 여러 자세를 취하거나 이리 저리 뛰어 다닐때는 정말 고통 그 자체였던것<br />
같습니다.<br />
1987년 6월&#8230;<br />
당시 바깥의 분위기는 &#8221; 호헌 철폐 독재 타도 &#8221; 등의 구호를 외치는 수 많은 시위대들의 모습과 일제히 문을<br />
닫고 영업을 하지 않는 상가앞 도로에서는 화염병과 돌이 날아 다니며 거기에 최루탄으로 맞서는 정말 전쟁<br />
터를 방불케 하는 상황이었으며 그 시위의 강도나 참여 인원수가 하루가 다르게 늘어 나면서 혹시 진짜로 시<br />
위현장에 출동하게 되지 않을까 초조한 마음으로 하루 하루를 보내야 했습니다.<br />
며칠후 시위의 확산이 걷잡을 수 없어지고 결국 저희 부대에는 출동대기 명령이 떨어졌으며 각종 외박 외출<br />
휴가가 금지되고 수송부에 가득찬 차량들은 방석망을 두르기 시작했으며 저희 소대도 흥분된(?) 마음으로<br />
분주히 완전군장을 꾸리고 출동 준비에 여념이 없었으며 취침시에도 군화를 벗지 않고 출동 명령만을 기다<br />
리는 극도의 긴장된 시간을 보내야 했습니다.<br />
여러분 혹시 그 당시 부대원들의 마음이 어떠했을지 상상이 가십니까? 화염병과 쇠파이프 각목 돌들이 난무<br />
하는 무시 무시한 현장으로 투입되어야 하고 또 같은 하늘 아래 살고 있는 국민들을 방어의 개념이 전혀 없<br />
는 오로지 공격만의 목적을 갖고 진압 해야만 하는 절박한 심정을&#8230;내가 살려면 정말 무지막지하게 진압을<br />
해야만 하는 그 심정을&#8230;<br />
고참 한 분이 저희에게 &#8216;네들이 살기 위해서는 오로지 가차없는 진압밖에 없으며 현장에서 단 한발짝이라도<br />
후퇴하는 놈이 있으면 절대 용서하지 않겠다&#8217;는 엄포에 저와 동기들은 너무 무섭기도 하고 혹시 현장에서 다<br />
치지는 않을지 또 어쩌면 죽을지도 모른다는 생각에 눈 앞이 캄캄해지고 숨은 가빠오기 시작했으며 그 말을<br />
내뱉고 되돌아 서는 고참의 뒷모습에서도 왠지 모를 두려움이 보이는듯 했습니다.<br />
그렇게 언제 출동 명령이 떨어질지 모르는 긴박한 시간이 흘렀으며 그 때는 한 시간이 마치 하루처럼 느껴지<br />
는 고통속의 시간이었던것 같고 식사시간에 밥을 먹는데 밥이 입으로 들어가는지 코로 들어가는지 모를 정<br />
도로 입맛도 뚝 떨어지고 머리속에는 오로지 시위의 현장 한 가운데에서 어떻게 해야 할 지에 관하여 정말<br />
많은 생각을 했던것 같습니다.물론 저희 소대 역시 기나 긴 침묵으로 가득 차 있었고 조금이라도 나약한 모<br />
습을 보이는 이들에게는 고참들의 가차없는 구타나 처절한 얼차려가 있었으며 그런 분위기에서 저 또한 한<br />
없이 입술을 깨물며 &#8216;정신 똑바로 차리자 정신 똑바로 차리자&#8217; 를 속으로 연발했습니다.<br />
그런 숨 막히는 나날을 보내던 어느날 소대장님께서 내무반에 다급하게 들어 와 노태우 후보가 직선제를 받<br />
아 들이겠다는 발표를 잠시전 했다고 큰 소리로 알려 주셨는데 그 말을 듣고 저희 소대원들은 서로를 얼싸<br />
안으며 환호성을 지르고 정말 기뻐했으며 그동안 긴장으로 딱딱했던 근육이 한 순간 풀려옴을 느낄 수 있었<br />
습니다.물론 그 발표에 시위는 급속히 수그러들기 시작했고 저희 부대에 내려졌던 출동대기 명령도 해제되<br />
었으며 부대원들의 긴장 어린 눈빛도 평상시로 돌아오게 되었습니다.<br />
분명 서울대생 고 박종철 고문 치사사건으로 촉발된 6.10 민주항쟁은 국민들의 엄청난 분노로 결국 김대중<br />
전 대통령님의 사면복권과 시국관련사범들의 석방 및 민주주의의 초석인 직선제라는 소중한 결실을 맺은 결<br />
코 잊을수 없는 소중하고도 아픈 경험이었지만 어쩌면 그 시기가 저에게는 너무도 아찔한 시간이 아니었나<br />
생각해 봅니다.<br />
저는 지금도 생생하게 기억합니다.<br />
사단장님 앞에서 충정훈련 시범을 보일때 온 천지를 진동케 한 수천명의 병사들이 발 맞추어 내는 무시무시<br />
한 군홧발 소리를&#8230;</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c386%e4%b8%96%e4%bb%a3%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%82%b9/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>2</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>四寸・八寸・十六寸</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e5%9b%9b%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%85%ab%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%af%b8/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e5%9b%9b%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%85%ab%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%af%b8/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 18 May 2009 01:08:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e5%9b%9b%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%85%ab%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%af%b8/</guid>
		<description><![CDATA[韓国語に、サチョン（사촌）という言葉がある。
「四寸」と漢字で書く。
これは、四等親という意味である。
自分から見て、一寸が両親。
二寸が、祖父母。
三寸が、おじおば。
その子が、四寸となる。つまり、いとこのこと。
イウッサチョン（이웃사촌）という言葉が、しばしば使われるという。
直訳すれば、「隣のいとこ」という意味。
これは、血のつながりはないが、いとこ同然に親しい間柄を指す言葉だ。
人の関係についても言うし、国の関係についても言う。
「ハングッハゴ　イルボヌン　イウッサチョニダゴ　センガカムニダ。」
－韓国と日本は隣のいとこだと、思います。
こんな言い方が、できる。
韓国語の親族を表す言葉は、日本語よりもはるかに多い。
日本語なら「おじ、おば、祖父、祖母」で終わってしまう言葉が、韓国語では複雑に分かれている。父方については、何番目の兄・姉であるか、あるいは子がいるかいないかで、言い方が変えられる。
言葉は、その文化が大事だと思っている対象について、豊富な表現方法を持つという。
アラブ語がラクダについて豊富な語彙を持っていたり、漢語が料理方法について細かい用語を誇っていたりするのは、それぞれの文化が大事に思ってきた対象をよく表しているといえよう。
日本でも、あったね。
　津軽には七つの雪があるとか
　粉雪、つぶ雪、綿雪、ざらめ雪、水雪、かた雪、春待つ氷雪
新沼健二の、『津軽恋女』。
雪の津軽だから、雪にいろいろ言う。
日本語全般では、雨の語彙がとても多い。雨の国なのだ、日本は。
さて韓国では、父方は十六寸、母方は八寸までが、親戚とされる。
ものすごい、広がりだ。
数えてみれば、自分の八代前の父方の祖先の子孫が、親戚となる。父方だから、必ず自分と同姓同本貫のはずだ。もし一世三十年と考えれば、二百四十年前の祖先から分かれた同姓の人が、ぜんぶ親戚となる。
親類というよりは、社会集団と言うべきであろう。
ここが、日本と全く違う。
韓国の歴史で、特定の一族がまたたく間に権勢を独占するケースが見られるが、これは韓国社会の親類の結束の強さが、背景となっているはずだ。日本では、一族による権勢の独占は平氏や北条氏の頃まで見られたが、室町時代以降は目立たなくなった。親類よりも組織集団の結束のほうが、日本人の集団意識として重視されるようになったからであろう。
韓国に旅行すれば、同姓同本貫の人たちの組合事務所が、都市にある。
金海金氏、密陽朴氏、全州李氏、晋州姜氏、、、
外国人の目にはよく見えないが、韓国社会にはこのネットワークがある。政治すら、このネットワークで動いている面がある、と洩れ伝わってくる。
韓国語では、母の姉妹、すなわち母方のおばを表す特定用語として、イモ（이모）がある。イモは、面白いことに他人の女性に対しても、使う。店などに行って、その店のママさんに対して親しく問いかける言葉が、「イモ！」である。
それと、韓国語では男性と女性で、親しい目上の人に問いかける言葉が違う。
男性は、親しい目上の男性に対して、「ヒョン」と呼びかける。目上の女性には、「ヌナ」を使う。
女性は、親しい目上の男性に対して、「オッパ」と呼びかける。目上の女性には、「オンニ」を使う。
ところが、ここからが面白くて、男性もまた、女性に対して「オンニ」を使うことがある。ちょっとふざけたニュアンスを持った、親しい彼女への呼びかけである。年上・年下は、関係ない。日本語にあえて訳せば、「オネーサマ！」といったところだろうか。
だから、男と女が、互いに「オンニ！」「オッパ！」と呼び合っていれば、二人がとても親しい間柄だということが、すぐに分かるのだ。そうして結婚した後も、「オッパ！」と呼び続ける。やがて子供が生まれると、「オッパ！」が「アッパ！」になる。「アッパ」は、お父ちゃんのこと。たぶん漢語からの、輸入語だろう。
ちなみに女性が男性に「ヒョン」と呼びかけることは、普通ない。あるとすれば、学生時代に女性が気合を付けて、先輩などを呼ぶ場合だけ。日本語にあえて訳せば、だから「センパイ！」あたりなのだろう。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>韓国語に、サチョン（사촌）という言葉がある。<br />
「四寸」と漢字で書く。<br />
これは、四等親という意味である。<br />
自分から見て、一寸が両親。<br />
二寸が、祖父母。<br />
三寸が、おじおば。<br />
その子が、四寸となる。つまり、いとこのこと。<br />
イウッサチョン（이웃사촌）という言葉が、しばしば使われるという。<br />
直訳すれば、「隣のいとこ」という意味。<br />
これは、血のつながりはないが、いとこ同然に親しい間柄を指す言葉だ。<br />
人の関係についても言うし、国の関係についても言う。<br />
「ハングッハゴ　イルボヌン　イウッサチョニダゴ　センガカムニダ。」<br />
－韓国と日本は隣のいとこだと、思います。<br />
こんな言い方が、できる。<br />
韓国語の親族を表す言葉は、日本語よりもはるかに多い。<br />
日本語なら「おじ、おば、祖父、祖母」で終わってしまう言葉が、韓国語では複雑に分かれている。父方については、何番目の兄・姉であるか、あるいは子がいるかいないかで、言い方が変えられる。<br />
言葉は、その文化が大事だと思っている対象について、豊富な表現方法を持つという。<br />
アラブ語がラクダについて豊富な語彙を持っていたり、漢語が料理方法について細かい用語を誇っていたりするのは、それぞれの文化が大事に思ってきた対象をよく表しているといえよう。<br />
日本でも、あったね。<br />
　津軽には七つの雪があるとか<br />
　粉雪、つぶ雪、綿雪、ざらめ雪、水雪、かた雪、春待つ氷雪<br />
新沼健二の、『津軽恋女』。<br />
雪の津軽だから、雪にいろいろ言う。<br />
日本語全般では、雨の語彙がとても多い。雨の国なのだ、日本は。<br />
さて韓国では、父方は十六寸、母方は八寸までが、親戚とされる。<br />
ものすごい、広がりだ。<br />
数えてみれば、自分の八代前の父方の祖先の子孫が、親戚となる。父方だから、必ず自分と同姓同本貫のはずだ。もし一世三十年と考えれば、二百四十年前の祖先から分かれた同姓の人が、ぜんぶ親戚となる。<br />
親類というよりは、社会集団と言うべきであろう。<br />
ここが、日本と全く違う。<br />
韓国の歴史で、特定の一族がまたたく間に権勢を独占するケースが見られるが、これは韓国社会の親類の結束の強さが、背景となっているはずだ。日本では、一族による権勢の独占は平氏や北条氏の頃まで見られたが、室町時代以降は目立たなくなった。親類よりも組織集団の結束のほうが、日本人の集団意識として重視されるようになったからであろう。<br />
韓国に旅行すれば、同姓同本貫の人たちの組合事務所が、都市にある。<br />
金海金氏、密陽朴氏、全州李氏、晋州姜氏、、、<br />
外国人の目にはよく見えないが、韓国社会にはこのネットワークがある。政治すら、このネットワークで動いている面がある、と洩れ伝わってくる。<br />
韓国語では、母の姉妹、すなわち母方のおばを表す特定用語として、イモ（이모）がある。イモは、面白いことに他人の女性に対しても、使う。店などに行って、その店のママさんに対して親しく問いかける言葉が、「イモ！」である。<br />
それと、韓国語では男性と女性で、親しい目上の人に問いかける言葉が違う。<br />
男性は、親しい目上の男性に対して、「ヒョン」と呼びかける。目上の女性には、「ヌナ」を使う。<br />
女性は、親しい目上の男性に対して、「オッパ」と呼びかける。目上の女性には、「オンニ」を使う。<br />
ところが、ここからが面白くて、男性もまた、女性に対して「オンニ」を使うことがある。ちょっとふざけたニュアンスを持った、親しい彼女への呼びかけである。年上・年下は、関係ない。日本語にあえて訳せば、「オネーサマ！」といったところだろうか。<br />
だから、男と女が、互いに「オンニ！」「オッパ！」と呼び合っていれば、二人がとても親しい間柄だということが、すぐに分かるのだ。そうして結婚した後も、「オッパ！」と呼び続ける。やがて子供が生まれると、「オッパ！」が「アッパ！」になる。「アッパ」は、お父ちゃんのこと。たぶん漢語からの、輸入語だろう。<br />
ちなみに女性が男性に「ヒョン」と呼びかけることは、普通ない。あるとすれば、学生時代に女性が気合を付けて、先輩などを呼ぶ場合だけ。日本語にあえて訳せば、だから「センパイ！」あたりなのだろう。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e5%9b%9b%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%85%ab%e5%af%b8%e3%83%bb%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%af%b8/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>2</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>「間」と「情」</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c%e9%96%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e6%83%85%e3%80%8d/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c%e9%96%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e6%83%85%e3%80%8d/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 16 May 2009 13:48:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e3%80%8c%e9%96%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e6%83%85%e3%80%8d/</guid>
		<description><![CDATA[今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。
忘れないうちに、メモしておく。
－関西在住、三羽烏。
これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。
『韓のくに紀行』。
『壱岐・対馬のみち』。
『耽羅紀行』。
金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな？
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史（ヤサ）の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。
この方が、ソウルに留学なされていたとき。
「よう！」
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。
ぐいと、取られて、
三本を、引っこ抜いて、
彼は、残りを返すのかと、思った。
ところが－
彼のポケットに返したのは、その三本だった！
大学試験に、受かった日。
下宿のオーナーに、なぐられた。
「よく受かったな！」と、祝福の、しるしとして。
下宿に、戻ったら。
冬。
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。
－日本人だったら？
通り過ぎる。
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。
背負って、警察に連れて行った。
警官は、彼をほめたという。
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか！」
相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。
そのお返しに、自分にもやってくれる。
トータルで、つりあっている。
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。
－日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。
これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。
このお方も、代表取締役。
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。
その方が言った。
－仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ－「間」の日本と、「情」の韓国さ。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。<br />
忘れないうちに、メモしておく。<br />
－関西在住、三羽烏。<br />
これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。<br />
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。<br />
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。<br />
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。<br />
『韓のくに紀行』。<br />
『壱岐・対馬のみち』。<br />
『耽羅紀行』。<br />
金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。<br />
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。<br />
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」<br />
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな？<br />
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史（ヤサ）の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。<br />
この方が、ソウルに留学なされていたとき。<br />
「よう！」<br />
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。<br />
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。<br />
ぐいと、取られて、<br />
三本を、引っこ抜いて、<br />
彼は、残りを返すのかと、思った。<br />
ところが－<br />
彼のポケットに返したのは、その三本だった！<br />
大学試験に、受かった日。<br />
下宿のオーナーに、なぐられた。<br />
「よく受かったな！」と、祝福の、しるしとして。<br />
下宿に、戻ったら。<br />
冬。<br />
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。<br />
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。<br />
－日本人だったら？<br />
通り過ぎる。<br />
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。<br />
背負って、警察に連れて行った。<br />
警官は、彼をほめたという。<br />
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか！」<br />
相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。<br />
そのお返しに、自分にもやってくれる。<br />
トータルで、つりあっている。<br />
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。<br />
－日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。<br />
これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。<br />
このお方も、代表取締役。<br />
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。<br />
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。<br />
その方が言った。<br />
－仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ－「間」の日本と、「情」の韓国さ。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e3%80%8c%e9%96%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e6%83%85%e3%80%8d/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>最も遠い国</title>
		<link>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9c%80%e3%82%82%e9%81%a0%e3%81%84%e5%9b%bd/</link>
		<comments>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9c%80%e3%82%82%e9%81%a0%e3%81%84%e5%9b%bd/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 10 May 2009 22:50:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[東北アジア研究]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://asian-curd.asia/wpress/%e6%9c%80%e3%82%82%e9%81%a0%e3%81%84%e5%9b%bd/</guid>
		<description><![CDATA[昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。
「北朝鮮は、韓国にとっていちばん遠い国ですよ。何考えてるか、まったく分からない。」
ソウルの人が、言った。
日本人がいっぱいいるソウルに生活していた彼女にとって、日本はよほどに近い。北朝鮮は、もうそうでない。若い世代は、正直そう思っているのだろう。統一という韓国の国是は、残念ながら若い世代から、崩れ始めていると予感した。ちなみに、いま韓国で「八道」といったら、韓国の行政区画である八道のことを言うようだ。現在は、済州道が新設されて、九道になっている。私は歴史的な八道（京畿・慶尚・全羅・忠清・江原・黄海・平安・咸鏡）を想定して話をしたら、彼女と言っている内容が、食い違ってしまった。
「『同志』（たしか、「同胞」の意の「トンポ」と言っておられたと思う）なんて言葉、知らないよ。北の人は、学校でこれを使うんだな。」
日本に住んでいる韓国籍の人が、言った。
聞いてみると、朝鮮籍の人は、やっぱり韓国に渡航できないという。
渡航したければ、韓国籍に変えるしかない。
しかし、韓国籍でも、北朝鮮に渡航は可能だという。
「金、出しゃあね。結局、金だよ。」
じっさい、渡航しているという。
現在、新潟の港は閉ざされているが、北朝鮮に渡ることができないかといえば、そうではない。
中国を経由すれば、行くことができる。
だから、日本の制裁政策は、中国と調整をしなければ、何の実効もないことになる。
これじゃあ、バカにされますよ。
本当に日本は、人権を大事にせよと、胸を張って言えますか？
抑圧されている人、国家の犠牲となっている人に対して、「私たちはあなた方の味方だ」と、言うことができますか？していますか？
拉致被害者について怒るならば、どうして法輪功弾圧に対して、怒らないのか。ミャンマー軍政を、どう思っているのか。ロシアのファシズムと言ってもよいプーチン政権を、どう思うのか。
日本人の悲しみだけ主張していれば、外国が聞いてくれると思ったら、大間違いですよ。
日本は、経済が繁栄して、その何万倍も、高笑いの声が外国に聞こえているではありませんか？
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。<br />
「北朝鮮は、韓国にとっていちばん遠い国ですよ。何考えてるか、まったく分からない。」<br />
ソウルの人が、言った。<br />
日本人がいっぱいいるソウルに生活していた彼女にとって、日本はよほどに近い。北朝鮮は、もうそうでない。若い世代は、正直そう思っているのだろう。統一という韓国の国是は、残念ながら若い世代から、崩れ始めていると予感した。ちなみに、いま韓国で「八道」といったら、韓国の行政区画である八道のことを言うようだ。現在は、済州道が新設されて、九道になっている。私は歴史的な八道（京畿・慶尚・全羅・忠清・江原・黄海・平安・咸鏡）を想定して話をしたら、彼女と言っている内容が、食い違ってしまった。<br />
「『同志』（たしか、「同胞」の意の「トンポ」と言っておられたと思う）なんて言葉、知らないよ。北の人は、学校でこれを使うんだな。」<br />
日本に住んでいる韓国籍の人が、言った。<br />
聞いてみると、朝鮮籍の人は、やっぱり韓国に渡航できないという。<br />
渡航したければ、韓国籍に変えるしかない。<br />
しかし、韓国籍でも、北朝鮮に渡航は可能だという。<br />
「金、出しゃあね。結局、金だよ。」<br />
じっさい、渡航しているという。<br />
現在、新潟の港は閉ざされているが、北朝鮮に渡ることができないかといえば、そうではない。<br />
中国を経由すれば、行くことができる。<br />
だから、日本の制裁政策は、中国と調整をしなければ、何の実効もないことになる。<br />
これじゃあ、バカにされますよ。<br />
本当に日本は、人権を大事にせよと、胸を張って言えますか？<br />
抑圧されている人、国家の犠牲となっている人に対して、「私たちはあなた方の味方だ」と、言うことができますか？していますか？<br />
拉致被害者について怒るならば、どうして法輪功弾圧に対して、怒らないのか。ミャンマー軍政を、どう思っているのか。ロシアのファシズムと言ってもよいプーチン政権を、どう思うのか。<br />
日本人の悲しみだけ主張していれば、外国が聞いてくれると思ったら、大間違いですよ。<br />
日本は、経済が繁栄して、その何万倍も、高笑いの声が外国に聞こえているではありませんか？</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://asian-curd.asia/whatisasia/%e6%9c%80%e3%82%82%e9%81%a0%e3%81%84%e5%9b%bd/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>1</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>
