東北アジア研究

Korea!2009/03/02

2009年03月02日

JR西日本にメールを送った後、Park君にもメールを送りたいと思った。
まず、英文を作った。

Dear,
Now I’m in Japan.
I hope, hope, and hope you to come to my country, and love these beautiful islands.
I hope splendid youths like you to know and love Japan.
This is my blog, I wrote about you.
http://suzumoto.s217.xrea.com/
Maybe now you can’t read it, but, at least, I can say that I told Japanese people how beautiful heart you have, and your home country’s people have.
Still I can’t read the letter what you gave me fully, but I can understand you gave me a warm goodbye.
I hope you also try to read my haiku I gave you.

それを、まず日本文に、直した。

前略。
今、私は日本にいます。
私は、君が我が祖国を訪ねてくれることを、心から望んでいます。心から。
私は、君のような素晴らしい若者たちに、日本を知って、そして、愛して欲しい。
これが、私のブログです。私は、君について、書いた。
http://suzumoto.s217.xrea.com/
たぶん、今は読めないだろう。
だが、これだけは言える。
私は、日本人に対して、いかに君と、君の祖国の民が、美しい心を持っているかを、書いたつもりだ。
まだ、私は君からもらった手紙を、十分解読できないでいる。
だが、私は君が心のこもった別れの挨拶を私にくれたことだけは、読み取ることができた。
君もまた、私が贈った俳句を、読むことに挑戦しておくれよ。
草々

Exciteの自動翻訳機に、かけた。
その結果を拾って、今度は韓文和訳マシーンに、かけてみた。
一見しただけで、自動翻訳の結果が、文章になっていないことが、知れた。
サイトの記事を拾い読みするぐらいならば自動翻訳でもよいが、手紙に自動翻訳は、使ってはならない。
残念ながら、Exciteの訳は、その程度だ。
私は、手持ちの日韓・韓日辞書を、取り出した。
この辞書は、初心者にとって極めて使いにくい。
2002年のワールドカップ時代に発行された辞書の古本を、amazonで安く手に入れたものだ。
カバーに「W杯観戦必携」などと、書かれている。
しかし、この辞書は、残念ながら一つのメッセージを、私に発していた。
-日韓は、しょせん分かり合えないよ。
日韓辞書の各項目の地の文に、韓国語が出て来る。

「紀念」으로도 썼지만 「記念」이 일반적임。

こんな説明をされても、初心者は読めない。
この日韓辞書は、韓国語の文法をマスターしている日本人だけにしか、使えない。そして、そんな日本人は、百人に一人も、いるだろうか?
私は、自分の手で、翻訳を始めた。
自動翻訳機では、「民」が「백성」になっていた。
「백성」を、辞書で引く。
漢字(ハンジャ)が、分かる。
-「百姓」。
これでも韓国語ではよいのかもしれないが、もし日本語とニュアンスが近いのであるのならば、この語はだめだ。私は、「사람」を使った。
訳していくうちに、韓国語は日本語とまことに文法が似ていることに、ますます気づいてくる。
直訳の感覚で、文章を組み立てることができる。
韓国語と日本語は、同窓生のようなものだ。
スペイン語とイタリア語のような、兄弟ではない。日韓の民族の血は交じり合っていても、日韓の言葉は、遡ればおそらく別系統の言葉だったのであろう。この二つの言語は、原始から持っていたであろう単語については、共通性が見られない。たぶん韓国語は北の大地から南下して来た言葉で、日本語は昔からこの島にいたか、あるいは南の海を渡って北上して来た言葉だ。
同じ時期に、同じ隣にいるチャイナ先生から、文明と漢語を学んだ。
互いの国が疎遠となってからも、文献により間接的に、チャイナ先生から文物を輸入し続けた。
だから、同窓生なのだ。
漢語の圧倒的な影響を受けながら、文法の構造に漢語の単語を組み込む、膠着語となった。
だから、21世紀の現代になっても、驚くほどに文法が似ている。これは進化論の言葉で言えば、互いに種として関係がないのに外見や生活活動が似通っている、収斂進化”convergence”というべきものであろう。たぶん。
そして、ともに儒教の影響を受けて、人間のつながりを社会の根本に置く。
韓国では家族の結合で、日本では組織の結合の点であることが、ちょっと違うが。
だが、両方ともに、中国の引き写しではない。
楽天的な中国人と違って、両国民は清貧を愛し、やせ我慢を愛する。
そして、清潔を愛する心が、強烈に強い。
「ウマミ」を嗅ぎ分ける舌を、持っている。中華料理はやたらに料理を飾り立ててみたり、野菜に細かい細工を施したりする。彼らはそれをよしとしてやっているのだろうが、私は率直な意見を言わせてもらえば、そんなことにかかるお金が、もったいない。美味いものを食わせてくれれば、それでよい。そう、思ってしまう。華やかとは決して言えない韓国料理を食べている韓国人も、同意見ではないかと思っている。
さらに、これは悪い面であるが、集団の多数意見が時に熱狂的世論を作り、しばしば少数者を「空気」で圧迫する。
これらは、おそらく血の影響であろう。同じジャポニカの米を太古から食ってきたことと、同じく。
ワープロで、翻訳を続ける。
まだこの言葉をマスターしていないので、自分で十分理解できない言い回しは、避けることにした。「私」には、「나」を使った。「君」には、「자네」を使った。私の方が、彼より年長である。それで、日本語の感覚で、これらを使うことに決めた。間違いかもしれないが、ここに私の学習の記録を残すために、今回はこれで通す。
思いの他早く、できあがった。
以下の文章をもう一度Exciteにかければ、文法的にはだいたい合っているであろうことが、推測できた。

전략.
지금, 나는 일본에 있습니다.
나는, 자네가 내 조국을 방문하는 것을, 진심으로 바라고 있습니다.진심으로.
나는, 자네와 같은 훌륭한 젊은이들가, 일본을 알고, 그리고, 사랑하는 일을 바란다.
이것이, 내 브로그입니다.나는, 자네에 관해서, 썼다.
http://suzumoto.s217.xrea.com/
아마, 지금은 읽을 수 없을 것이다.
하지만, 이것만은 말할 수 있다.
나는, 일본인에 대해서, 얼마 자네와, 자네의 조국의 사람들이, 아름다운 마음을 가지고 있을까를, 쓴 셈치다.
아직, 나는 자네에게 받은 편지를, 충분 해독할 수 없다.
하지만, 나는 자네가 정성 어린 이별의 인사를 나에게 준 것 만은, 읽고 이해할 수 있었다.
자네도, 내가 준 하이쿠를, 읽는 일에 도전하는 일을 바란다.
이만 줄이겠습니다

私が生まれて始めて書いた、韓国語の手紙である。ここに、記録する。
おそらく、この訳はへんてこな、ものであろう。
だが、それでいいのだ。
人の労苦を借りるよりも、私は自分でやる。そうしなければ、身につかない。
英文の下に、韓国語訳を貼り付けて、メールを作る。
教えてもらったアドレスに、送った。
だが、届かなかった。
昨日、夕映氏が、酔いながら私に、忠告をした。
-あんまり、舞い上がるなよ。
彼は、私よりももっと沢山、挫折を経験している。
挫折を経験しながらも、それでも精一杯前を向いて、生き続けている。
そんな彼だから、私を危ぶんだのであろう。
私はついその時、電話口の彼に、反論してしまった。
だが、日が明けた今は、彼の忠告の意味が、よく分かる。
その後、ちょっとだけ機転を利かせて、教えてもらったメアドをもう一度よく見た。
メアドの先頭部分は、よく見ると気の利いたしゃれになっていた。
それで、たぶんこう書きたかったんだろうと類推して、もう一度送ってみた。
今度は、届いたようだ。
ひょっとして、違う誰かに送ってしまったかも、しれないけれどね。ハハハ。

Korea!2009/03/08

2009年03月08日

京都市内で、韓国人を連れて行くための、Best&Worst Places(?)。
第一カテゴリー 日本では神格化、韓国では悪人
・豊国神社(東山区、秀吉が神として祀られている)
・高台寺(東山区、秀吉の正妻の寺)
・方広寺(東山区、秀吉が建てた寺)
・本圀寺(山科区、清正が帰依した寺)
・伏見桃山城(伏見区、秀吉が建てた城)
・明治天皇・皇后陵(伏見区、日韓併合時点の天皇)
清正(チョンジョン)はただの指令官であり、悪の張本人は秀吉(スギル)その人なのだが、韓国での伝承では両方とも極悪人となっているので、現状では致し方なかろう。
第二カテゴリー 日本では微笑ましいエピソード、韓国では侵略者の政治的エピソード
・北野天満宮(上京区、秀吉の茶会)
・醍醐寺(伏見区、秀吉の花見)
・円山公園(園内の洋館、長楽館は、伊藤博文の命名)
博文が韓国でどのような評価をされているか、今さら言うまでもなかろう。
第三カテゴリー 日本人はあまり知らない、韓国関係の歴史上人物
・知恩院(東山区、家康が帰依した寺)
・金戒光明寺(左京区、家康の保護を受けた寺。儒者山崎闇斎の墓もある)
・二条城(中京区、家康が建てた城)
・平安神宮(左京区、祭神の桓武天皇の母が、韓国系)
家康(キガン)は秀吉の家を成敗し、李朝と友好を回復した偉人である。角倉了以に命じて高瀬川を開削し、京都が流通の拠点となる基礎を築いた。家康は、京都のまち作りにおいても、桓武天皇、秀吉、北垣国道と並ぶ功績を打ち立てたのだ。韓国人には、あまり知られていないかもしれないけれど。
桓武天皇の母、高野新笠の出生には異説もあるのだが、まあ通説に従おう。
・相国寺(上京区、大儒者李退渓(イ・テゲ)の業績を日本に初めて紹介した、藤原惺窩が学んだ寺)
・建仁寺(東山区、藤原惺窩から朱子学を学んだ林羅山が学んだ寺)
徳川時代の儒教は、はじめ李朝朱子学を模倣するところから始まったことは、日本人として覚えておきたいものだ。時代が進むにつれて、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの独創的儒者が、日本にも現れ出てくる。伊藤、荻生らの名前と業績は、李朝の学者たちもまた知るところであった。朱子学から逸脱した彼らの業績への評価は、複雑なものであったようだが。
ただし藤原惺窩は李朝の儒者に面会したとき、「明と朝鮮が結んで日本を征服してほしい」と望みを述べたという、売国的思想家でもある。日本人として、そこだけはわきまえておきたい。
李進煕氏が引用する、朝鮮通信史に対する幕府の接待料理覚書が、たいへん面白い。
それによると、肉と魚は、基本的にオーケー。エビ、タコ、ハマグリでもよい。一番の好物は、牛肉。
生魚すなわち刺身も、オーケー。
だが、塩魚は、あまり好きでない。
野菜、海藻、油揚げ、全てオーケー。
果物は、全部オーケー。
にゅうめん、そば、オーケー。
和菓子は、たいていオーケー。
酒は、古酒。焼酎。酒類は、たいていオーケー。
もちろん、個人により好みはある。
料理は、「あつき物を嫌、大概ぬるき物を好」むとか。
以前夕映舎氏が、慶州の高級酒を「日本の古酒のようだ」と批評したが、なんと幕府もまた、彼らの好物の酒として、筆頭に古酒を挙げているでは、ないか。
この書を読むと、いかに徳川幕府が、朝鮮通信使の接待に丹念に心をくばり、彼らの好物を徹底的に調べ上げていたかが、分かる。日本のサービス業の精神が早くも十八世紀の時点で満開していたことが、ありありと見て取ることができる。そして、幕府が持っていたおもてなしの心を忘れ去ってしまったのが、明治政府の外交であった。
『海游録』を著した申維翰(シン・ユハン)は、1719年通信使の製述官であったが、彼は日本で味わった味についても、書き残している。
-諸白を、上品となす。
諸白とは、要するに日本酒のこと。いっぱんに、李朝の使者は、日本酒のうまさを絶賛している。
他に、梅酒、桑酒、忍冬(すいかずら)酒などのリキュール類も、味がよいとしている。
とか言いながら、一行が道中で一番好んだのは、道中で作った白酒、つまりマッコルリだったりする。
本国からも持参していて、それは焼酎(ソジュ)と秋露酒(チュロジュ)であった。秋露酒とは、どんなものかまだわからない。
思うに、彼らにとって日本酒は、「うまいけれど、飽きる」味なのかもしれないな。
通信使たちの酒の記録を見て、そんな印象を持った。
他に、マクワウリやスイカが、甘くて味がよいと言っている。
申維翰は、食物については、
-粕漬をもって美食とす。
と、言っている。サワラの西京漬けみたいなやつだ。私も、好物である。
また、鰹節に興味を示している。鯨の肉については、柔らかくて油っこくて珍味と思えないと、評価が低い。また、すき焼きにも注目している。

崔貞煕『静寂一瞬』、鮮于煇『テロリスト』

崔貞煕『静寂一瞬』と鮮于煇『テロリスト』の二編の短編小説を、読んだ。
いずれも、舞台は1950年代、6.25戦争の最中と直後を描いた、物語である。
読後の感想-
歴史が、ない。
両者ともに二千年の都ソウルが舞台であるにも関わらず、歴史が舞台装置として、使われない。
風景が、ない。
あるのは、空気だけといってもよい。夏の暑さか、ひりつく冬の冷たさか。風景が、描かれない。
モノが、ない。
建築や、家の品物に対する、愛惜を通じた描写が、ない。
両者の小説ともに、戯曲の台本を読んでいるような感がある。あるのは、人物同士の激しい対立。それが、熱い。北と南で民族家族が相別れるという劇的な悲惨をエネルギーとして、人間だけが、描かれている。このまま小説を舞台にすることが、簡単にできる。なるほど、韓国映画にエネルギーがあるわけだ。
唯一、小説らしい描写としては、食い物に関する執着。これだけが、読み物独特の世界として、描かれる。日本人の私としては、食い物の描写に行き当たると、ほっとしてしまう。
韓国小説は、日本小説のような、歴史、風景、建築にたいする愛惜的な描写とは、無縁であった。逆に日本小説には、韓国小説のような対立も会話も、ほとんど存在しない。
読後に、ふと思った。
日本人が物語を思い浮かべるとき、その登場人物たちは、おそらく全て最初から和解しているのではないか。和解しているから、そのままでは物語とならず、ゆえに歴史や風景や建築を描写して、寄り道だらけの文章を書き上げる。
いっぽう韓国人の登場人物は、対立して和解できない。ゆえに、えんえんと人間を描写しなければならない。描写しても、描写しても、対立は終わらない。風景や歴史を楽しむ瞬間は、物語がぶっつ切れるまで、とうとうやってこないのか、、、
できれば韓国人の書き手には、この言葉過剰の国に赴いて、人の対立を抉り出して風穴を開けてほしいものだ。
私は、韓国の山河に赴いて、そこで静かに歴史と風景と建築を愛でる言葉を、紡ぎ出そう。

雨森芳洲『交隣提醒』試訳

2009年03月10日

雨森芳洲の『交隣提醒』を、読んでいる。
これは、全訳して日本人に読ませるべき古典だと、思う。
雨森芳洲(1668 – 1755)は儒者で朝鮮語を会得して、その技能をもって徳川時代の対馬藩に招かれて、真文役として李朝の釜山東莱府と往来し、両国の外交事務に生涯を捧げた。
彼の著作を読むと、昔から半島と関係を持ち、かの国の民には慣れているはずの対馬藩士ですら、隣国の常識に往々にして無知であったことが、見て取れる。何かにつけて日本の常識を持ち出して隣国を嘲る武士たちを諌めて反省を促す厳しくも切々と語る調子が、両国民を知り尽した芳洲の、両国の友好を願う心からの祈りを、鮮やかに描き出している。
古文書なのですらすらと訳すことが、難しい。
興味深いと思った箇所だけ、試しに訳出しよう。

日本では、歴々の車夫が寒天にも尻をまくり、槍持ちとか挟箱(きょうばこ)持ちなどは、顔にヒゲを描いて足拍子なぞ取ります。定めし、朝鮮人の心にも男意気立派だと写るだろうと、思うでしょう。ところが、朝鮮人の心にとっては、尻をまくるなんぞは無礼と見なし、顔にヒゲを描くなんぞは異様に見えるし、足拍子なぞ取るのは単に疲れるだけで無駄なことをしていると、内心で笑っているのです。また、朝鮮人の心には、身内の喪において務めとして哭泣(こっきゅう。霊前で大泣きすること)することは、日本人が見たらきっと感動するに違いないと考えているのですが、実は日本人は嘲笑しているのです。このように、日本と朝鮮とでは食い違いがあることを、お察しなさいますように。

ふんどし一丁でオケツをからげた姿は、日本人にとっては男意気だ(最近はそうでもないが、、、)。また、風呂で裸の付き合いも、結構なことだ。しかし半島の常識では、野蛮な習俗でしかない。一方半島の人は、親類の喪に服したとき、大声を挙げて泣きわめく。これは儒教に定められている葬礼にのっとったもので、大声で泣き悲しめば、周囲の人は遺族がどれだけ故人を大事にしていたかがよく感じ取られて、もらい泣きするのが人情だと、彼らは思っているのである。しかし、金日成の喪に服したピョンヤン市民の身をよじらせて号泣する映像を見て、たぶんほとんどの日本人が不気味に思って嘲笑したように、彼らの喪礼が日本人を感動させることは、たぶんない。

朝鮮人は日本人と言葉の上でも相争ったりしないようにしているのですが、それを彼らの主意だと早合点するがゆえに、彼らは毎度に自国のことを謙遜している一方で、日本人はかえって自国のことを常に自慢ばかりしています。たとえば、酒の一事などにしても、「日本の酒は、三国一ですぞ。だから朝鮮の皆様も、そのように思われるでしょう?」などと誇ります。朝鮮人が、「なるほど、そうですな。」と返答すれば、やっぱりそうであったかと得心します。ところが彼らは内心では、「了見の狭い奴だ!」と嘲って、何の評価もしていないのです。日本の酒が三国一だと朝鮮人が思っているのならば、会合があったりした際に、日本酒が飲みたいと申し出るはずです。ところが、そんなことはありません。それは、日本人の口には日本酒がよいのであって、朝鮮人には朝鮮酒、唐(中国)人には唐酒、紅毛(オランダ)人には阿利吉(アラキ。蒸留酒)がよいのです。これは、自然の道理です。以前、訳官たちの会合で、真意を申していただきたいと彼らに促した際に、我ら朝鮮人にとっては食べ慣れているものがよいのです、と言われました。また、日本酒は確かに結構であるが、胃につかえます。多く飲むには、朝鮮酒がよいです、とも言われました。お国(対馬藩)のうちに酒豪がいたとしても、京酒(つまり、清酒)を好まずかえってお国の薄にごり酒を好む者がいるのと、同様の心持ちなのです。

うまいまずいの思い込みは、主観的なもの。そして、民族の文化に、包まれているものだ。
彼らが清酒(せいしゅ)を好まなくても、それは仕様がない。日本人の私が清酒(チョンジュ)を全く受け付けないのと、同じなのだ。肝要は、互いが違うことを認め合って、嘘をつかないことだ。上の芳洲の観察から300年後の現在、攻守所が変わって韓国人が自国の文化を日本人に誇って、日本人が「なるほど、そうですな。」と心ならずもうなずいているような、気がする。しかし、日本人にとって、それはかえって不誠実ではないだろうか?裏で嘲らず、これはまずい、これは面白くない、と愛をもって言い返す勇気が、日本人に欲しいものだ。そして、私にも。

鄭漢淑『旧家』

2009年03月11日

鄭漢淑『旧家』
現代の訪れを描いた、短編である。
伝統ある両班の宗家が、因習にまみれた家父長制の家が、嫡孫である主人公の成長と共に、崩れ去って行く。しみじみとした悲しい語り方は、日本人にとっても親しみやすい一篇となっている。
それにしても、韓国の書き手にとって、日帝と6.25は、重たい。この二つの事件によって、半島は強姦されるように、現代の市民社会に突入させられた。彼らの市民社会化は、司馬遼太郎が日本について描いたような「明治よいとこ節」(批評家、高橋敏夫氏の表現)の調子によって、明るく描くことができない。現代の韓国人が自らの市民社会化の歴史を冷静に評価することが難しく、かえっていまの現代と前近代の時代を両方とも絶対肯定するような、日本人にとって奇妙な歴史感覚を選ばざるをえないのは、彼らの歴史がそうさせているのである。あたかも現代のロシア人が、忌まわしいながらも間違いなく現代社会を作り上げたソビエト時代を冷静に評価することができず、いまのロシアと帝政時代を両方とも称える歴史感覚の欠如に追い込まれているのと、相同していると思われる。

金達寿『玄界灘』

釜山港!関釜連絡線!そこは朝鮮人にとてどんなところであり、どんなものであっただろうか。
(金達寿『玄界灘』より)

在日朝鮮人作家、金達寿(キム・タルス)氏の代表作、『玄界灘』を読んだ。
前半は、文句なしに面白い。
この作品もまた、人間同士のぶつかり合いである。和解できないバックグラウンドが、ある。日本。朝鮮。征服者。被征服者。和解できない背景を背負わされた登場人物たちが、ギリシャ悲劇のように葛藤し、意識の上ではなかったことにしていた根本的な対立が、意識に上せざるをえない状況に追い込まれて、登場人物を切り裂いて行く。
後半は、つまらない。
作者の思想的立場から言って致し方のない、ことではある。
私は、全篇を義務として読んだ。
だが、読み物としては、残念ながら前半で終わっている。
後半は、コミュニズムに目覚め、反日独立運動に立ち上がるレールに、全ての登場人物が乗せられてしまっている。書かなければならなかったことは、分かる。しかし、それはもう物語ではない。
逸脱する個性があれば、もっと分厚い物語になったであろう。
日帝の人を人とも思わぬ暴虐な抑圧の下で、逸脱など許されない、許したくない心情は、痛いほどに分かる。
だが、最後に種明かしされる特高の「李元」のつぶやきなどは、もっと深刻な問題を、本当は示唆しているはずなのである。
そこを書かなかったのは、思想的制約であったか。
いまだ統一が成されていない悲惨の前に、描く筆先が震えたか。
残念な、小説である。そして、残念な、半島の現状である。

雨森芳洲『交隣提醒』試訳

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。

さらに、信使(朝鮮通信使)を大仏(かつて東山方広寺にあった、京都大仏)に立ち寄らせる件ですが、これまで朝鮮へもご通知されたりしておりますが、あれは廃絶するべきです。そのわけの仔細は、享保年間の信使(すなわち、1719年の第九回通信使。正使洪致中、製述官申維翰)の記録に書かれております。明暦年間(すなわち、1655年の第六回通信使)に、日光に参詣させるようにと仰せ出されたことは、御廟の華美なるを使者に拝見させようとする意図であったと、聞きました。そして大仏に立ち寄らせた件についても、一つは日本に珍しい巨大な仏があることを見せるためであって、もう一つは耳塚(東山区)をお見せになって、日本の武威を見せ付けてやろうとする意図であったとか、聞いています。しかし、これはまた何と奇怪なご見識でございましょうか。
廟制は節倹を主といたすところであって、よって柱に丹(に)塗り、垂木(たるき。やねばしら)に彫刻するような事は、『春秋』(儒教の経典。乱世の諸侯の行いを批判した、歴史書)においてては謗(そし)られることです。ゆえに、御廟の華美は、朝鮮人の感心するところでは、ございません。仏の功徳とは、形の大小によるものではありません。ゆえに、有用の材を費やし、無用の大仏を作るような事は、これまた嘲りの一因となるものです。耳塚なんぞは、豊臣家が無名の師(いくさ)を起こし、両国の無数の人民を殺害した記念碑でございますので、その暴悪を重ねて相手に示すことになるのです。これらいずれも、わが国の繁栄のためになりません。かえって、我が国の無学無見識を暴露するだけなのです。正徳年間(すなわち、1711年の第八回通信使)には、大仏に信使が立ち寄った際には、耳塚を囲って隠しました。享保年間にも、その前例に従って、朝鮮人には見えないように配慮しました。これらは、まことに盛徳のご政治であらせられたことです。

mimi.JPG
日本人がよかれと思って見せたものも、外国人には変なものに見えることがあるのは、しごく当たり前のことだ。上に書かれている韓国人の美意識は、たぶん基本的に今でも変わっていない。彼らのことを、派手を好む中国人の仲間だと思い込むと、たぶん大誤解を招くだろう。彼らから見れば、むしろ日本人のほうが、よっぽどに派手好きなのだ。耳塚は、方広寺の門前にある塚で、文禄慶長の役の際に日本軍人たちが功名のしるしとして死体からそぎとった耳・鼻を集めて、現在ここに供養塔が建っている。幕府は通信使の目から隠したが、いずれこれは日本がきちんと謝罪した後に、韓国人にも見てもらわなくてはならない。アウシュビッツと同じ、戦争の負の遺跡なのだ。

天和の年(すなわち1682年、第七回通信使)、日本の道中の列樹がいずれも古木で枝葉を損傷していない姿を見て、法令が厳粛ゆえにこうであるのかと、三使者がことのほかに感心したとか。日光とか大仏をもって栄華を見せたとこちらが思っていても、彼らはそれらには感心もしませんでした。かえって、日本人の気の付かない列樹のようすに、感心していたのです。ここにも、朝鮮と日本の違いがあることを、知るべきなのです。

華麗な建築よりも、樹木の姿に感銘する。それで、よいではないか。
第九回の通信使で雨森芳洲と道中を共にした申維翰は、近江摺針峠の「望湖亭」という茶屋の光景を、激賞した。

結構は新浄にして、一点の塵もなく、後ろには石泉を引いて方池となし、游魚はキキ(さんずい+癸)として鱗さえも数えられる。徘徊すること久しくして、みずから人生を歎き、「この一畝区を得れば、すなわち、老死するまでそれに安んじ、紅塵を踏まざるべし。莱州以北の好山水、なんぞ我が数間を容れざるか」と。
(『海游録』より)

第九回通信使の製述官、申維翰は、妾腹の庶子であったという。嫡庶の区別を厳しくする儒教国家の李朝においては、庶子の栄達の道は、閉ざされていた。申維翰は、そんな己の境遇を嘆いて、故国から遠く離れた近江の琵琶湖を見下ろす茶屋において、できればこんな絶景の地に一畝の田を得て、生涯を隠れ住んでみたいものだと、詠嘆したのであった。
韓国の河は、日本以上に澄み渡っていて、しかも広い。彼らが日本人以上に水景を愛したとしても、何の不思議があるだろう。幸いに、日本にも美しい水を湛えた風景は、まだ残されている。彼らならば、きっと喜ぶであろう。そして、川と湖と海をこれまで無残に痛め付けて省みなかった、日本人は彼らの美意識に触れて、よくよく反省せよ。もう、瀬戸内海も有明海も、我らは無残な姿に汚してしまった。そんなもの誰が、喜ぶというのであるか?

-知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(雍也篇)

彼らはもうかつてのように『論語』を読めないであろうが、孔子のこの言葉が今でもきっと心に染み渡っているはずではなかろうか?

Korea!2009/03/12

2009年03月12日

阪急電鉄から、回答があった。以下に、全文を添付する。ただし、文中に私の本名があるので、その箇所については私のペンネーム「鈴元仁」に変える。

阪急電鉄広報部の**(注:社員名)と申します。

平素は阪急電鉄をご愛顧賜りまして誠にありがとうございます。

先日はメールをありがとうございました。

いただきましたご意見につきまして担当部署より以下のとおりご回答申し上げます。今後とも阪急電鉄をご愛顧賜りますようお願い申し上げます。


平素は阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます。

早速でございますが、いただきましたご要望につきましてご回答申し上げます。

弊社では、外国のお客様にも快適にご利用いただくため、各駅に掲出しているすべての路線図に英語表記を記載している他、時刻表表題部(行先方面含む)や、時刻表に併設している停車駅案内にも英文字を表記しております。

しかしながら、鈴元仁様よりご指摘いただきました券売機の画面表示に関しましては、現在、英字表記がされておりません。

また、英字を表記するためには券売機のシステムを改造することになりますが、再度改造することになりますと、膨大な費用が必要となりますので、現時点では実施は困難でございます。

今回鈴元仁様にご指摘いただきました点を踏まえ、今後もすべてのお客様に快適にご利用いただけるよう、外国語表記等について検討を進めてまいります。

なお、券売機の操作方法につきましては、弊社のホームページ上に掲載している、英語・中国語・韓国語の阪急沿線ガイドの中でご説明しております。

また、同内容の小冊子が各駅にございますので、ご案内申し上げます。

鈴元仁様には事情ご賢察の上、今後とも阪急電鉄をご愛顧賜りますようお願い申し上げます。


運輸部

そこで私は、以下のl回答のメールを、阪急電鉄に送付した。

前略。
Hotmailが自動的に迷惑メールに放り込んでいたため、3月9日付けで回答があったのを、本日まで見逃していました。貴社には、我が不明をお詫びします。
仰せのとおり、貴社の駅表示には、英語・漢語・韓国語が書かれています。
ホームページ上で券売機の操作方法が記載されていること、そして同様の内容の小冊子も配布されていること、それも分かります。
迅速なご回答ともども、少なくとも貴社は決して異質な客、異質な意見を無視しているわけではないこと、それもよく分かりました。
しかし。
それでも、私は申し上げなければ、なりません。
異質な文化を背負った客にとって、第一印象はまことにその後の貴社への先入主を形作る、決定的な要因となります。
ホームページに記載してあったり、小冊子を配られたりするご努力は、残念ながら異質な客が貴社のサービスを受けようとする際に真っ先に駆け付けるであろう自動券売機が日本語オンリーであることによって、全て台無しです。
どうして、世界第二位の経済大国の、第二の都市をリードする私鉄である貴社ともあろうものが、外国人でも易々と操作できる自動券売機に英語表示を付けず、調べなければならないホームページや駅員に聞かなければならない小冊子を揃えて満足しているのか、私には分かりません。
貴社につきましては、よく社員をご教育なされて、きっと外国人が迷っても応対できるようにご配慮しておられるかと、存じます。
しかし、この日本全体では、そうでありません。日本人である私は、知っています。
異国の人が困っていても、コミュニケーションが恐ろしいので足早に通り過ぎる。
それが、日本人です。自分だけの世界に閉じこもって、異邦の民への応対は誰かがやってくれるだろうと、高をくくって知らん顔。それが、日本人です。そしてそんな日本人は、自分たちの薄情さ、世界の人々に対する想像力の不足が、己の国を傾けていることに、全く気づいていません。
日本人の性がいまだに対人恐怖症である以上は、ぜひとも冷たいながらも正確な機械に対応させる手段を取った方が、親切と申すべきでは、ないでしょうか。
日本の機械工業は世界一であることを、地球人は皆知っています。
ロボットの自動券売機に、英・漢・韓のみならず、世界中の言語を網羅するガイドをやらせたならば、さすが日本である、さすが日本の鉄道であると、彼らが驚嘆して感心すること、請け合いです。
貴社も、そして我々日本人も、自分たちの長所を生かさず、そして短所に気づいていない。
病根は、深いのです。
貴社が日本の鉄道の先覚者たらんとご自負なさるならば、まず率先してなしたまえ。
貴社と、関西と、そして日本国が、万国の言葉に対応する券売システムを持っていることを、よろしく誇りたまえ。
そうして発券された切符の券面に、その国の言葉をもって簡潔なガイドを印刷する。そうすれば、自分の言葉で語りかけられた異邦の客は、きっと感動して、世界の裏側まで貴社の評判を、流すことでしょう。
それが、企業にとって百年の礎となるべきことを、どうか察したまえ。
勝手な意見を並べて、申し訳ございませんでした。
貴社が、関西と日本国のためにますます輝くことを、お祈り申し上げます。
草々。

私は、かつて官僚の組織の中にいた。
だから、官僚の組織が、外部のサービス使用者からの意見に対して、典型的にどのような対応を取るのかを、知っている。
彼らは、外部から主張を持って怒鳴り込んで来た者に対して、はいはいはいとうなずきながら、ひたすら応対に時間を過ごして、時の過ぎるのを待つ。
そのようなしつこい意見者のことを、組織内の者たちは、「クレーマー」と名付けて、嘲笑っているのだ。
官僚の組織は、上意下達である。下が外部から取り込んだ意見は、決して政策に生かされることはない。組織が動くのは、上から命令が振り下ろされた時だけ。官庁ならば、議会の議員から、要請があった時。その時だけ、官僚の組織は目の色を変えて、巻いたゼンマイを解き放したがごとく、迅速に動くのだ。それが、硬直した組織の姿なのだ。
阪急電鉄のユーザーへの回答は、少なくとも迅速であった。
この企業が、私が知っている官僚の病気に蝕まれていないことを、祈らずにはいられない。

雨森芳洲『交隣提醒』試訳

2009年03月13日

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。

古館(訳者注:1678年まで使われた、豆毛浦倭館)の時分までは、朝鮮の乱後の余威がありましたので、朝鮮人に無理をもって押し付ける式で、訳官たちは己の身の難儀の余り、中間(ちゅうげん。下僕)に都の首尾をよろしく取り繕って、成り難いことも成るように運ぶことも、できました。これゆえ、「強根ヲ以ッテ勝ヲ取ル」道を、朝鮮を制御する良策であると、人々は心得たものでした。
新館(訳者注:1678年に開かれた、草梁倭館)ができて以降は、余威もだんだん薄くなって、無体に勝を取ることが難しい勢いになったのですが、余威が薄くなったのだという点を(日本側は)理解することができず、こっち側のやり方がまずかったから(交渉がうまくいかないのだ)とばかり、思い込みました。
竹嶋一件(すなわち、1693年に始まる、鬱陵島紛争のこと)までは、威力恐喝をもって勝を取るべしとの趣きでございましたが、七年を経ても目的を達することができず、かえってご外聞に傷が付くように、相成りました。それゆえ、ここ三十年来は、上のような風をやめて、その結果以降は平穏無事となっているのでございます。しかし、朝鮮人の才知たるもの、日本人の及ぶところではありませんので、今後ご対策が不十分でございますと、「世話になった誰それの木刀」(訳者注:木刀を振り回しても実戦には役に立たない、という意味であろうか?)という次第で、あちらこちらでやり込められる恐れがございますので、この点をよくよく心を用いるべきでございます。
四、五十年前には、日本人が刀を抜けば、朝鮮人は恐懼逃奔いたしました。ところがここ十四、五年には、(倭館から)こちら側が炭薪を取りに参っただけの者どもを、朝鮮の軍官の一人が刀を抜いて追い散らしたこともあったほどでした。「霜ヲ履(ふ)ンデ氷ノ堅キニ至ル」と申すように、今や有智の人は渡海を考え直すべきという風にまで、なっております。

訳中にある「竹嶋一件」でいう「竹嶋」とは、当時の地名においては現在のリアンクール・ロックス(日本名竹島、韓国名独島)ではない。これは、鬱陵島(ウルルンド)のことだ。李朝の漁民安龍福(アン・ヨンブッ、生没年不詳)の活躍(?)の結果として、日本は李朝との紛争の結果、鬱陵島への日本漁民の渡海を禁止した。以降、鬱陵島は李朝領として確定している。だがこのとき、リアンクール・ロックス(当時日本はこの島を「松嶋」と呼んでいた)の李朝領有まで幕府が認めていたのかどうかは、極めて微妙な問題である。
現在に至るまでの紛争の種をまいた張本人、安龍福は一介の漁民であった。農本主義の李朝においては、漁民は賤民(チョンミン)である。彼はどうやら日本語が理解できたようであるが、日本語も朝鮮語も、書くことができなかったという。もっとも、この場合彼が書けなかったのは漢字(ハンジャ)であるはずで、民衆のための文字である諺文すなわちハングルが書けなかったかどうかは、よくわからない。
ともかく、目に一丁字もない男でありながら、彼は大した冒険者であった。二度目の日本渡海においては、漢字を書ける僧侶を道中で冒険に誘い、李朝の官のふりをして日本国に乗り込んだ。一度目の渡海で、密航者であるにも関わらず酒などふるまわれてずいぶんと丁重な取り扱いを日本側から受けて、味をしめたとも考えられるが、、、
彼の目的は、どうやら鬱陵島及び「于山島」の領有を、日本に認めさせるものであったようだ。だが、この二度目の渡海の時点ですでに幕府は鬱陵島への漁民の渡航を禁じていた。彼はそれを知らぬ立場にあったのであるが、このとき所在不明の「于山島」まで李朝領であると彼が日本側に主張したことが、現在の領土問題をややこしいことにしている。韓国側は、「于山島」とはリアンクール・ロックスであると、主張している。日本側は、安龍福の勘違いあるいは虚言であると、主張している。
現代の問題は、さておいて。
日本は、安龍福という一漁民によって、手玉に取られたようなものだ。彼は日本当局の前に出ては、虚言を弄して言い繕うことを常としたようであるが、外国にまで出向いて単身渡り合う度胸だけは一流のものであった。安龍福は結局日本から李朝に送還されて、その後の消息は分からないが、彼のおかげで日本は鬱陵島を失い、その上リアンクール・ロックスの領有権すら、脅かされる結果となっている。
芳洲も上に言っているように、半島の民の才知は、日本人の及ぶところではなかった。昔ならば刀で脅せば相手も怖がり、それが日本側に有利な交渉条件を作らせていたものだが、今やすっかり友好ムードが高まって日本側も軟弱になった結果、かえって半島人の才覚と度胸に、日本側がたじたじとなる始末。芳洲は、日本側に彼らと渡り合う準備が足りないことを、憂慮しているのである。

古来より、朝鮮の書物に「敵国」という言葉がございますが、ここでいう「敵国」とは、対礼の国(訳者注:対等の礼儀で交際するべき国)と申す字義なのであることを、(わが国は)ご存知ありません。これほどまでに誠信をもって友好関係を結んでいるのに、朝鮮においてはかつての旧怨をいまだ忘れず、日本を「かたき国」と書いているのだと、合点しています。
また、お国(対馬藩)が朝鮮のために日本の海賊を掃討している件を文書に書き記す際には、(朝鮮側が)「対馬は朝鮮の藩屏である」と記載しているところに、「藩屏と申す言葉は、家来が主人に対して言上するときの言葉である!」とよく考えもせずに添え書きする者が、ございます。こういった件は、我らのような粗学の者どもには、いまだもって免れ難い弊害であります。
文字を読んでも文意を読解できない者は、了見もそれ相応の程度しか持てないものでございまして、とにかくお国の義はかの国とははなはだ違うのでありますので、学問才力の優れた人物をお抱えになられないと、どんなに心を尽したところで、隣国友好の筋は立ちがたいであろうと、存じます。学力のある人物をお取立てになられることは、切要のことでございます。

雨森芳洲は、当時の東北アジアの外交用語が、儒教思想に基づいた漢文用語であることを、知っていた。それを知らない日本が、文字面だけをとらまえて怒って反論するのは、日本の無学無見識である。日本人は、漢字が読めるくせに、漢字で表された文明の常識を、知らなかったのだ。
一八六九年、日本の明治政府は、二百五十年の慣習を転覆させて、李朝に「皇」「勅」「大日本」の語を用いた書契を送付した。世に言う、書契問題である。李朝がその書契の文字に困惑して、受け取りを拒否したことは、単に旧弊に固執した李朝政府の頑迷固陋だけが、問題なのではない。
李朝の外交政策は、華夷秩序の国際法に準拠していた。
すなわち中華帝国を兄として事(つか)え、その他の夷国に対しては対等の礼をもって交隣する。それは西洋の国際法とは異質であったが、首尾一貫した体系であった。
もし日本一国に対してこれを破れば、李朝の外交政策は全て一変させなければならなかった。外交政策を一変させることは、さらに儒教に基づいた法が支配する国内秩序もまた、変化を余儀なくされる。それほどに重大な問題であることを、この時の明治政府が理解していた様子は、見られない。日本では単なる文字の形式に固執した当時の李朝政府の魯鈍さを嘲笑する評価が、出版された著作においてすらしばしば見られる。だが、その評価は誤りである。
対馬藩は、かつて李朝から米を支給されていた。対馬は住民を食わせるだけの米が取れないので、李朝に乞うて毎年米の給付を受けていたのだ。これが、李朝から見れば、藩屏として解釈された。事実関係として、対馬藩はずっと幕府と李朝の両方に、仕えていたと見なしてもよい。
その事実を理解せずに、藩屏とは何ごとだと怒るのは、現実をよく見ない主張である。李朝は、対馬藩に対して何の隷属関係も要求していないし、藩の重荷となるような課役も義務付けていない。それどころか、李朝は対馬藩に釜山の倭館にて貿易を認めさせて、対馬藩はその上がりでずいぶん儲けてさえいたのであった。
芳洲は、隣国と誤解なき友好関係を打ち立てるために、仕える対馬藩に対して、漢学をよく学んだ才人をもっと採用するように、提言した。相手の立場を知らず、外交の常識を知らない無学者は、外交を行なう資格はない。日本流のツーカーな空気で分かり合える相手は、日本列島を一歩踏み出したら、いないと心得なければならない。
もちろん、二十一世紀の現在、東北アジアの外交用語は、すでに漢文でも儒教思想でもない。
しかし、隣国と友好関係を打ち立てるためには、政府と外交官は無学無見識であってはならないことは、今でも全く通じる義ではないか。
ありていに言えば、現在の日本外交は、隣国から見透かされている。現在の日本にとって一番大事で、唯一大事なのは、アメリカとの関係だけだ。日本は、隣国の経済を必要としている限りで、ちょっとだけ謝ったり友好のそぶりを見せたりする。しかし、少しも本気でないことを、彼らは見透かしている。だから信用できず、ゆえに相手はいくらでも批判するし、難題をふっかけるのだ。それを恩知らずとか無礼だとか怒るのは、自分たちの隣国に対する礼儀が慇懃無礼そのものであることに、思いを馳せるとよい。

雨森芳洲『交隣提醒』試訳

2009年03月14日

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。非常に興味深いと思われる外交事件を彼はいろいろと書き記しているのだが、当時の外交事務の詳細を私はまだよく知らないので、十分に訳出することができない。よって、あらまし大意を読み取ることができた箇所だけ、試しに訳してみる。

送使(訳者注:対馬藩から倭館に毎年八回派遣される、八送使のこと)・僉官(訳者注:東莱府使の配下である、釜山僉使のことであろう)が五日次(オイリ。よくわからないが、文意からおそらく送使が運んで来た物品で開かれる、貿易市のことであろう)を受け取った際、鱈・青魚が一枚不足しているとか言って、役人どもが礼房・戸房(訳者注:李朝の外務省兼文部省に当たる礼曹および財務省に当たる戸曹の、出先機関)と相争うような見苦しい事も、ございます。
だいたいにして、他国へ使者がまかり越す際に、先方の応対がよろしいときには丁寧だと考え、先方の応対がよろしくないときには粗末だと考えて、それだけで判断を下してこちら側がとやかく文句を言うなどは、もちろん道理のないことです。朝鮮の場合にも上のような事例が確かにあるのですが、朝鮮の風儀と申すものは、下々の者どもにおいてはとくに廉恥の心が薄く、利を貪るので、接待の馳走の一事においても、李朝朝廷や東莱府の本意では全くないのです。下っ端どもが数を減らしたり、物品を粗末なものにすり替えたりしているのが実情でありまして、もしこちら側が何も申し立てないでいると、ゆくゆくは散々な結果が待っているべき恐れが、ございます。そのような時期に至ればどれだけの行き違いが生じるか想像もつきかねますので、日本の役人どもが上のように古式を踏まえて相争うのも、不恰好ではあるがやむをえない点も、あるのです。それゆえ、甚だしい争いについてはこれを禁じ、その他についてはこれまで通りのやり方で対処させてもよろしいかと、存じます。
日本人の覚え違いのために、「昔はこんな風ではなかったのに、段々と馳走の品が悪くなっている」と、口々に申したとしても、本当にそうであったか否かの義を何をもって判断すればよいのか、手掛かりがありません。不確かなので、先方に伝えることもできず、以前の礼儀の実情の証拠も、ありません。今後は、先方の馳走の丁寧・不丁寧をもって隣交の誠信・不誠信をもって知り、異邦の事情を察する一助となりますので、送使・僉官の記録にお膳の次第を仔細に書き付けるようにとの沙汰あり、宝永二年(1705)以降朝鮮に渡海する人はめいめいが記録を残して提出するようにとの、仰せ付けがございました。

長年実務に携わった芳洲は、日本側から見て朝鮮の対応が不審に思われる点があることを、知っていた。そして、その不審の原因が、李朝政府の不誠実にあるのではなく、政府が用いている下吏や町人どもの腐った性根にあることまで、見抜いていた。いったいにして李朝の高官は無学な自国の民衆を侮り、商売や利得の計算などを卑しい道として毛嫌いする、君子の倫理観を持っていた。それで、おそらく下吏や商人の狡猾なごまかしに、十分気付かなかったのであろう。小役人や商人こそが最も誠実であるという日本人の常識と、李朝の常識は、まるで違っていたのである。芳洲の指摘する朝鮮の商売は、どうやら中国式であった。
はなはだしい争いは、よくない。しかし、言うべきことは、言わなければならない。細かいことであるが、接待の馳走について細かく記録を残すべきという沙汰を、日本側は出した。誠実・不誠実の証拠を残して、先方の真意を問うためである。もちろん、相手が善意であるはずだとまずは前提に置いて、その上でどうしてこんな粗相があるのかを、交渉しなければならない。外交は、口論でもいけないし、逆になあなあでもいけないのである。

朝鮮を「礼儀の邦(くに)」と唐(中国)が申すわけは、他の夷狄(いてき。蛮族)どもはややもすれば唐に背くにも関わらず、朝鮮は代々藩王の格を失わず、事大(じだい。中国に仕えること)の礼儀にかなう国であると、こういう意味に他なりません。しかるに朝鮮人が壁に唾を吐き、人前で便器を用いるようなたぐいのことを見て、「礼儀の邦」には似合わない振る舞いだと申すのは、「礼儀の邦」という言葉の意味を分かっていないからなのです。もちろん朝鮮は古式を考え中華の礼法を採用している点においては、他の夷狄に優っていますので、これまでは日本人の方が思慮足らずであった事が多くございました。しかし、文盲の者どもは、かえって変なことをやらかすようでして、まことに恥ずかしいことでございます。このこと、心に留め置かれてくださいませ。

なぜ李朝が「東方礼儀の邦」と中国に呼ばれているのかを、芳洲は説明する。それは、日本人が「礼儀」という言葉からイメージする、「お行儀の良さ」という意味では、決してない。むしろ中華の礼儀を採用し、蛮族でありながら中国を兄として仕えて、決して背かない。それが、中国から見れば「中華に帰順したおとなしい蛮族」という意味で、「礼儀の邦」なのだ。いっぽう、日本は中国にとって「化外(けがい)」である。「化外」とは、中華に帰順しない蛮族のことであって、中華帝国から見ればケダモノと見なされなければならない。「化外」の日本は、とうぜん「礼儀の国」という称号を与えられない。どんなに民のお行儀がよくても、中国の文明を全面的に採用せず、その上中国を悪し様に言う国は、彼らにとって「礼儀」知らずなのだ。
儒教の文明は、高潔なエリートを作ることに役立ったが、残念ながら民衆の民度を高めるシステムではなかった。福澤諭吉が君子のいる国と君子の国とを区別せよ、君子の国とは中国ではなく、西洋諸国であると『文明論之概略』で喝破したのは、このことなのだ。
もとより、現在の韓国人は、君子の国である。これは、私が旅行したから、知っている。彼らは、昔の朝鮮人のように、むやみに道に唾を吐きかけたりしない。

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