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	<title>韓国・中国・台湾・日本を調べ、旅行し、味わうサイト。それが、アジアのとうふです。 &#187; 台湾旅行記</title>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30PM07:30</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 10:30:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[與八仙過海 &#8211; 八仙と海を過（こ）える &#8211; 
TAIPEI EYEは、中国と台湾の伝統演劇・音楽を上演する劇団である。木戸銭がちょっと高いが、金を払って観るに十分値する、ハイレベルなパフォーマンスを見せる。上演30分前から劇場前のフロアに入ることができて、そこでは役者たちがメーキングする場面も見ることができるのだ。




彼らのレパートリーは、伝統音楽、京劇、雑劇、布袋戲にわたる。布袋戲（ポテヒ、漢語の読みではブーダイシ）とは、福建省の人形劇に由来する、台湾土着の伝統人形劇である。台語で行なわれる劇なので、戒厳令時代にはこの上演が禁止されたこともあった。そのような歴史もあったために、布袋戲は台湾人にとって自文化のシンボルともなっている。その上、（日本でも知っている人がいると思うが）『霹靂布袋戲』のような現代の新作も作られていて、熱狂的なフリークがいるのだ（『霹靂布袋戲』関係のグッズは、台湾Yahhoo!オークションの定番である）。戦後以降日本人が自分たちの伝統的な物語を愛好しなくなり、日本人が日本の伝統劇を見なくなってしまった結果として、大阪の人形浄瑠璃は演劇の生命としてほとんど死んでいる。歌舞伎と違って外国人が好んで観る要素も乏しい人形浄瑠璃は、このままでは滅んでしまう運命であろう。それに比べれば、布袋戲は生命力を脈々と保っていてうらやましい限りだ。下の写真は、おなじみ諸葛孔明の布袋戲人形。フロア―には、『三国志』『西遊記』などの布袋戲人形がいろいろと陳列されていた。


今夜の演目は、三題。まず京劇音楽の合奏があって、次に『小放牛』という歌をメインにした小劇。小休憩を挟んで、後半は京劇『八仙過海』（バーシャングォハイ）の上演である。



小休憩の間に、フロアーで役者たちが京劇の一部のパフォーマンスを見せた。男性役者が、京劇特有のファルセット（裏声）を出して歌う。聞くと、どうもモンゴルの歌謡と似ているような気がした。何かしらの関係があるような予感がするのであるが。



さて、後半の演目『八仙過海』について述べよう。この劇の登場人物である「八仙」とは、中国歴代の八人の高名な神仙たちのことである。道教において、唐代から宋代にかけて徐々に彼らへの信仰が発展した。後の明朝において呉元泰が著した『八仙出處東遊記』が、この京劇の元ネタであると考えられている。

上の写真は、大龍&#x5cd2;保安宮の正殿回廊に描かれている『八仙過海』の図である。上の図で、右半分に描かれている八人が、八仙である。彼らはそれぞれが固有の道具、「暗八仙」を携えている。すなわち、右から、



名前
容姿
説明
暗八仙


何仙姑
女性
唐代の人。八仙の中の紅一点。
荷花（ハスの花）


張果老
老人
唐代に出現した。その時すでに数百歳だったという。
魚鼓（楽器）


藍采和
童子
唐代の人。童子の姿をしているが不老不死。
花籠


鍾離權
道士
漢代の人。八仙最長老で、形式的なリーダー。
芭蕉扇


呂洞賓
学者
唐代の人。八仙の真のリーダーで、最も信仰される。
剣


韓湘子
風流人
唐代の人。有名な文人、韓愈（韓退之）のおい。
笛子（笛）


鐵拐李
乞食
西周の人。乗り移った肉体が不具の乞食の死体だったので、杖を持ち歩く。
葫蘆（ひょうたん）


曹國舅
役人
北宋の人。宋皇室の外戚で、八仙で最も時代が若い。
玉板



このように、老人に童子、学者に道士、乞食に役人、そして風流人に女性と貴賎老若あらん限りの姿を取っている不老不死の人たちが、八仙なのである。この超人列伝には、バランスを重んじる中国人の発想がありありと表現されているのだ。そしておそらくこの八仙が、日本の「七福神」信仰にも重要なヒントを与えたに違いない。



『八仙過海』の筋は、八仙たちが西王母の誕生祝いに招かれた帰りに、彼らの住処である東海の神仙の島、蓬莱山に帰ろうとしたときに起ったエピソードである。リーダーの呂洞賓が、雲に乗って楽々帰るよりは自分たちの力を奮って海を渡ってやろうではないかと提案した。そこで、八人はロバに乗ったりひょうたんに乗ったりめいめいの手段を用いて、渡海を決行したのであった。しかし八仙が渡海を試みているという情報は龍宮を驚かし、東海龍王と鯉の仙女が率いる海の動物の将兵たちが、八人の行く手をはばむのであった。無敵の八人はこれは面白いと、海の神々といざ一戦交えるのであった、、、、（上の絵は、Wikipediaから引用。）



これが、上演舞台。残念ながらフィルムが尽きてこの一枚だけだが、冒頭に八仙たちがこれから意気揚揚と渡海を行なおうとしているシーンである。右から、藍色の服の曹國舅、水色の服の藍采和、うす紫色の服の韓湘子、長いヒゲを生やした呂洞賓、後ろに隠れてしまっているが何仙姑、見るからに老人の張果老、芭蕉扇を持った鍾離權、そして赤い顔で杖を持った鐵拐李である。この中でも鍾離權を演じていた（たぶん）女性が、とてもユーモラスでチャーミングだった。パフォーマンスは武闘アクションシーンが最大の見せ場で、八仙たちと鯉の仙女や亀の兵団とが繰り広げる派手な空中演戯が見事であった。最後は、鯉の仙女がまあ許してやるわと鐵拐李のヒョウタンを返してやって、ハッピーエンドでお開き。

こんなお遊びの冒険をする八仙たちは、孔子さまや孟子大先生のような憂い顔の求道者たちとは全然違った、ゆかいな神々である。中国文化圏の人々は、どちらの道を真に信奉しているのであろうか？―　答えは、おそらく「どちらとも場合によって、人それぞれによって信奉している」というものなのであろう。それが、本質的に多神教的な彼らの考え方であるに違いない。
今夜を最後として、私も八仙たちのようにこの台湾から東海の国に帰る。この土地で思ったことは、やはり台湾は日本と同じく、多神教の世界である。だからよくも悪くも「主義や信仰のためならば命も捨てる」ような考え方は、おそらくいつのまにか足元から掘り崩されていく風土なのであろう。「千萬人といえども吾往（ゆ）かん」（『孟子』公孫丑章句上より）というような真面目な孔子・孟子の道は、色々とある信仰の道の中の一つとして、この風土の中に場を与えられているのである。まじめな人はそれを信奉してもいいし、信奉することを薦めるが、その道一色で社会が塗り固められることは、決してない。解決すべき問題に真剣に取り組むのは大事なことであるが、その特定の問題だけに社会が集中して進むべきであると凝り固まってしまうならば、政治は恐ろしい間違いを犯すであろう。日本でもこの台湾でも、そうしたがっている人々がどうやら非常に多いようだ。しかしながら、この台湾の人々の心の平凡な姿は、昨日恩主公さんに行って見たような、「夢や希望がかなえばちょっと嬉しいな」ぐらいの、穏やかな祈りに留まるのではないだろうか、、、、？

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3><font color="#c9364d">與八仙過海 &#8211; 八仙と海を過（こ）える &#8211; </font></h3>
<p><a href="http://www.taipeieye.com">TAIPEI EYE</a>は、中国と台湾の伝統演劇・音楽を上演する劇団である。木戸銭がちょっと高いが、金を払って観るに十分値する、ハイレベルなパフォーマンスを見せる。上演30分前から劇場前のフロアに入ることができて、そこでは役者たちがメーキングする場面も見ることができるのだ。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870037.JPG"><img alt="12870037.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870037-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p></p>
<p><span id="more-30"></span><br />
彼らのレパートリーは、伝統音楽、京劇、雑劇、布袋戲にわたる。布袋戲（ポテヒ、漢語の読みではブーダイシ）とは、福建省の人形劇に由来する、台湾土着の伝統人形劇である。台語で行なわれる劇なので、戒厳令時代にはこの上演が禁止されたこともあった。そのような歴史もあったために、布袋戲は台湾人にとって自文化のシンボルともなっている。その上、（日本でも知っている人がいると思うが）『霹靂布袋戲』のような現代の新作も作られていて、熱狂的なフリークがいるのだ（『霹靂布袋戲』関係のグッズは、台湾Yahhoo!オークションの定番である）。戦後以降日本人が自分たちの伝統的な物語を愛好しなくなり、日本人が日本の伝統劇を見なくなってしまった結果として、大阪の人形浄瑠璃は演劇の生命としてほとんど死んでいる。歌舞伎と違って外国人が好んで観る要素も乏しい人形浄瑠璃は、このままでは滅んでしまう運命であろう。それに比べれば、布袋戲は生命力を脈々と保っていてうらやましい限りだ。下の写真は、おなじみ諸葛孔明の布袋戲人形。フロア―には、『三国志』『西遊記』などの布袋戲人形がいろいろと陳列されていた。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870038.JPG"><img alt="12870038.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870038-thumb.JPG" width="114" height="200" /></a>
<p>今夜の演目は、三題。まず京劇音楽の合奏があって、次に『小放牛』という歌をメインにした小劇。小休憩を挟んで、後半は京劇『八仙過海』（バーシャングォハイ）の上演である。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870039.JPG"><img alt="12870039.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870039-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
小休憩の間に、フロアーで役者たちが京劇の一部のパフォーマンスを見せた。男性役者が、京劇特有のファルセット（裏声）を出して歌う。聞くと、どうもモンゴルの歌謡と似ているような気がした。何かしらの関係があるような予感がするのであるが。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/bashan.jpg"><img alt="bashan.jpg" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/bashan-thumb.jpg" width="520" height="164" /></a>
<p>
さて、後半の演目『八仙過海』について述べよう。この劇の登場人物である「<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%99">八仙</a>」とは、中国歴代の八人の高名な神仙たちのことである。道教において、唐代から宋代にかけて徐々に彼らへの信仰が発展した。後の明朝において呉元泰が著した『八仙出處東遊記』が、この京劇の元ネタであると考えられている。
<p>
上の写真は、大龍&#x5cd2;保安宮の正殿回廊に描かれている『八仙過海』の図である。上の図で、右半分に描かれている八人が、八仙である。彼らはそれぞれが固有の道具、「暗八仙」を携えている。すなわち、右から、
<p></p>
<table border="1">
<tr>
<td width="40">名前</td>
<td width="40">容姿</td>
<td width="200">説明</td>
<td width="70">暗八仙</td>
</tr>
<tr>
<td>何仙姑</td>
<td>女性</td>
<td>唐代の人。八仙の中の紅一点。</td>
<td>荷花（ハスの花）</td>
</tr>
<tr>
<td>張果老</td>
<td>老人</td>
<td>唐代に出現した。その時すでに数百歳だったという。</td>
<td>魚鼓（楽器）</td>
</tr>
<tr>
<td>藍采和</td>
<td>童子</td>
<td>唐代の人。童子の姿をしているが不老不死。</td>
<td>花籠</td>
</tr>
<tr>
<td>鍾離權</td>
<td>道士</td>
<td>漢代の人。八仙最長老で、形式的なリーダー。</td>
<td>芭蕉扇</td>
</tr>
<tr>
<td>呂洞賓</td>
<td>学者</td>
<td>唐代の人。八仙の真のリーダーで、最も信仰される。</td>
<td>剣</td>
</tr>
<tr>
<td>韓湘子</td>
<td>風流人</td>
<td>唐代の人。有名な文人、韓愈（韓退之）のおい。</td>
<td>笛子（笛）</td>
</tr>
<tr>
<td>鐵拐李</td>
<td>乞食</td>
<td>西周の人。乗り移った肉体が不具の乞食の死体だったので、杖を持ち歩く。</td>
<td>葫蘆（ひょうたん）</td>
</tr>
<tr>
<td>曹國舅</td>
<td>役人</td>
<td>北宋の人。宋皇室の外戚で、八仙で最も時代が若い。</td>
<td>玉板</td>
</tr>
</table>
<p>
このように、老人に童子、学者に道士、乞食に役人、そして風流人に女性と貴賎老若あらん限りの姿を取っている不老不死の人たちが、八仙なのである。この超人列伝には、バランスを重んじる中国人の発想がありありと表現されているのだ。そしておそらくこの八仙が、日本の「七福神」信仰にも重要なヒントを与えたに違いない。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/bashan2.JPG"><img alt="bashan2.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/bashan2-thumb.JPG" width="142" height="200" /></a></p>
<p>
『八仙過海』の筋は、八仙たちが西王母の誕生祝いに招かれた帰りに、彼らの住処である東海の神仙の島、蓬莱山に帰ろうとしたときに起ったエピソードである。リーダーの呂洞賓が、雲に乗って楽々帰るよりは自分たちの力を奮って海を渡ってやろうではないかと提案した。そこで、八人はロバに乗ったりひょうたんに乗ったりめいめいの手段を用いて、渡海を決行したのであった。しかし八仙が渡海を試みているという情報は龍宮を驚かし、東海龍王と鯉の仙女が率いる海の動物の将兵たちが、八人の行く手をはばむのであった。無敵の八人はこれは面白いと、海の神々といざ一戦交えるのであった、、、、（上の絵は、Wikipediaから引用。）</p>
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870040.JPG"><img alt="12870040.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870040-thumb.JPG" width="400" height="228" /></a>
<p>
これが、上演舞台。残念ながらフィルムが尽きてこの一枚だけだが、冒頭に八仙たちがこれから意気揚揚と渡海を行なおうとしているシーンである。右から、藍色の服の曹國舅、水色の服の藍采和、うす紫色の服の韓湘子、長いヒゲを生やした呂洞賓、後ろに隠れてしまっているが何仙姑、見るからに老人の張果老、芭蕉扇を持った鍾離權、そして赤い顔で杖を持った鐵拐李である。この中でも鍾離權を演じていた（たぶん）女性が、とてもユーモラスでチャーミングだった。パフォーマンスは武闘アクションシーンが最大の見せ場で、八仙たちと鯉の仙女や亀の兵団とが繰り広げる派手な空中演戯が見事であった。最後は、鯉の仙女がまあ許してやるわと鐵拐李のヒョウタンを返してやって、ハッピーエンドでお開き。
<p>
こんなお遊びの冒険をする八仙たちは、孔子さまや孟子大先生のような憂い顔の求道者たちとは全然違った、ゆかいな神々である。中国文化圏の人々は、どちらの道を真に信奉しているのであろうか？―　答えは、おそらく「どちらとも場合によって、人それぞれによって信奉している」というものなのであろう。それが、本質的に多神教的な彼らの考え方であるに違いない。
<p>今夜を最後として、私も八仙たちのようにこの台湾から東海の国に帰る。この土地で思ったことは、やはり台湾は日本と同じく、多神教の世界である。だからよくも悪くも「主義や信仰のためならば命も捨てる」ような考え方は、おそらくいつのまにか足元から掘り崩されていく風土なのであろう。「千萬人といえども吾往（ゆ）かん」（『孟子』公孫丑章句上より）というような真面目な孔子・孟子の道は、色々とある信仰の道の中の一つとして、この風土の中に場を与えられているのである。まじめな人はそれを信奉してもいいし、信奉することを薦めるが、その道一色で社会が塗り固められることは、決してない。解決すべき問題に真剣に取り組むのは大事なことであるが、その特定の問題だけに社会が集中して進むべきであると凝り固まってしまうならば、政治は恐ろしい間違いを犯すであろう。日本でもこの台湾でも、そうしたがっている人々がどうやら非常に多いようだ。しかしながら、この台湾の人々の心の平凡な姿は、昨日恩主公さんに行って見たような、「夢や希望がかなえばちょっと嬉しいな」ぐらいの、穏やかな祈りに留まるのではないだろうか、、、、？
<p><img alt="taipei010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei010.JPG" width="455" height="300" /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30PM06:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 09:00:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
残金二塊錢
対岸の八里から淡水に戻って、ようやく朝から何もまとまったものを食べていない事実を捨て置けないほどの空腹感を感じた。メインストリートの客家料理店に入った。台湾ビールを一本と、「客家煎豆腐」に「山苦瓜炒鹹蛋」を注文した。しめて、３３０元（約1150円）。




客家煎豆腐は、揚げた豆腐とネギをコクのある中国醤油とスープで煮込んだだけの、シンプルな料理。シンプルだが、なかなかに味わい深い。もう一皿の山苦瓜炒鹹蛋は、ゴーヤーとつぶし卵を塩とスープの調味料で炒めたものだった。こちらもあっさりしていて日本人向きの味わいだったが、ゴーヤーが苦味がなくなるほど茹でてあった。私としては、ゴーヤーの苦味が残っていたほうがよかった。

一日目にバスの中で両替したっきりの台湾元だったので、もはやほとんど手元に残っていなかった。コンビニで珍しい台湾製の「轉蛋」（ガチャガチャのこと。この会社の製品）を見つけて一回遊んでみたりして（だが高い！一回１２０元！）、さらに金がなくなってしまった。旅行記では書かなかったが、朝方芝山岩に行く前に、民権西路駅で降りて伝統劇団の「TAIPEI EYE」の今夜のショーのチケットを買っていた。今さら新たに両替をする気にもならないので、観劇以外の時間は残った金だけで時間を過ごすことに決めた。そういうわけで、プロヴィンシア城（紅毛城）にまで歩いて行ったものの、入場料がないので入らなかった。下は、前の門から撮った紅い城の影。



残金は、１００元も残っていない。再び地下鉄に乗って台北に戻り、暑いからアイスティーを買ったら、残り３７元。民権西路駅から少し歩いた中山北路にあるビルの中に、TAIPEI EYEの劇場がある。中で涼ませてくれるかと期待して６時前に行ったのであるが、結果はノー。開演３０分前の７時半にならなければ、階上の劇場には入らせてくれないという。ビルの１階のフロア―には座れるような施設がなにもないので、外に出た。

まだ２時間近くもある。仕方がないから、近くのケンタで時間をつぶすことにした。この台北旅行で最初で最後に入ったファストフードである。まずコンビニに行って、１０元で「中国時報」（台湾の最有力紙のひとつ）を買う。次にケンタに行って、コーラを頼む。２５元。これで、残り２元となった。地下鉄にもバスにも乗れない。観劇後は歩いてホテルまで帰ることを、決意した。


そういうわけで、これが最後に日本に持ち帰った二塊錢（２元のこと。スラングで現金のことを、こういう言い回しで言う）である。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="formosa.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/formosa.JPG" width="120" height="144" align="right" vspace="5" hspace="15"></p>
<h3><font color="#c9364d">残金二塊錢</font></h3>
<p>対岸の八里から淡水に戻って、ようやく朝から何もまとまったものを食べていない事実を捨て置けないほどの空腹感を感じた。メインストリートの客家料理店に入った。台湾ビールを一本と、「客家煎豆腐」に「山苦瓜炒鹹蛋」を注文した。しめて、３３０元（約1150円）。
<p></p>
<p><span id="more-29"></span><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870034.JPG"><img alt="12870034.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870034-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
客家煎豆腐は、揚げた豆腐とネギをコクのある中国醤油とスープで煮込んだだけの、シンプルな料理。シンプルだが、なかなかに味わい深い。もう一皿の山苦瓜炒鹹蛋は、ゴーヤーとつぶし卵を塩とスープの調味料で炒めたものだった。こちらもあっさりしていて日本人向きの味わいだったが、ゴーヤーが苦味がなくなるほど茹でてあった。私としては、ゴーヤーの苦味が残っていたほうがよかった。
<p>
一日目にバスの中で両替したっきりの台湾元だったので、もはやほとんど手元に残っていなかった。コンビニで珍しい台湾製の「轉蛋」（ガチャガチャのこと。<a href="http://www.tommybear.com.tw/list1.htm">この会社の製品</a>）を見つけて一回遊んでみたりして（だが高い！一回１２０元！）、さらに金がなくなってしまった。旅行記では書かなかったが、朝方芝山岩に行く前に、民権西路駅で降りて伝統劇団の「TAIPEI EYE」の今夜のショーのチケットを買っていた。今さら新たに両替をする気にもならないので、観劇以外の時間は残った金だけで時間を過ごすことに決めた。そういうわけで、プロヴィンシア城（紅毛城）にまで歩いて行ったものの、入場料がないので入らなかった。下は、前の門から撮った紅い城の影。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870035.JPG"><img alt="12870035.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870035-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
残金は、１００元も残っていない。再び地下鉄に乗って台北に戻り、暑いからアイスティーを買ったら、残り３７元。民権西路駅から少し歩いた中山北路にあるビルの中に、TAIPEI EYEの劇場がある。中で涼ませてくれるかと期待して６時前に行ったのであるが、結果はノー。開演３０分前の７時半にならなければ、階上の劇場には入らせてくれないという。ビルの１階のフロア―には座れるような施設がなにもないので、外に出た。
<p>
まだ２時間近くもある。仕方がないから、近くのケンタで時間をつぶすことにした。この台北旅行で最初で最後に入ったファストフードである。まずコンビニに行って、１０元で「中国時報」（台湾の最有力紙のひとつ）を買う。次にケンタに行って、コーラを頼む。２５元。これで、残り２元となった。地下鉄にもバスにも乗れない。観劇後は歩いてホテルまで帰ることを、決意した。
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P8130010.JPG"><img alt="P8130010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P8130010-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>
<p>
そういうわけで、これが最後に日本に持ち帰った二塊錢（２元のこと。スラングで現金のことを、こういう言い回しで言う）である。
<p><img alt="taipei010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei010.JPG" width="455" height="300" /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30PM03:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 06:00:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
ILHA FORMOSA（美しい島） !
淡水の景色は、すばらしい。坂の街である。背景にある陽明山塊から降りてくる傾斜が、淡水河に沈むそのあわいにある。川は間もなく東シナ海に注ぐ寸前にあって大河であり、しかも海水が入り込んで海のような深い色をたたえている。街並みは縦横にはりめぐらされた坂道でつながれて、台湾の都市らしく飲食店が豊富で華やかである。しかしさんさんと降り注ぐ陽光と海からの風の下、油っこさは取り除かれて爽やかな印象を観光客に与える。活力と美がどちらもどちらを圧倒しないで、調和を保っている。そんな小都会であった。




淡水のメインストリート、中正路にある「天上聖母」である。天上聖母とは、台湾の守り神である媽祖（マースー）のことだ。福建省の実在の女性が神として崇められるようになった存在である。海の神として、その信仰は香港や東南アジアの華僑に広く行き渡っている。そしてこの台湾でもそうであって、媽祖さまは台湾を守護する八百万の神仏の中でも、一頭図抜けている人気を誇る。この淡水のお宮は、小さいながらも台湾らしく華麗で丁寧に作られている。



生ジュースやかき氷売りに、酸梅湯（スァンメイタン）に豬血&#x7cd5;（チューシェカォ）、、、通りの両岸は、もうすっかり見慣れてしまった食べ物屋の風景である。酸梅湯とは、魯迅の小説にも出てくる、コクのある梅ジュースのことだ。この淡水の店は、どうやら有名らしい。一杯頼んでみた。わずかに塩を利かせてあって、いかにも健康飲料のような味わいであった。だが、上の写真の豬血&#x7cd5;　―　読んで字のとおり、豬（日本語ではイノシシのことだが、漢語では豚のこと）の血を固めて作った餅のようなもの　―　は、とうとう食べる勇気がでなかった。



渡し場から、対岸の八里（パーリ）にまで水上巴士（水上バス）がひんぱんに往来している。往復３６元。私は、チケットを買って、乗り込んだ。



青い空の下、広々とした淡水河を船は波を切って進む！淡水の街は遠目に見ても美しく、背後にそびえるのは、陽明山塊。陽明山（ヤンミンシャン）とは特定の山を指した名称ではなくて、七星山（標高1120ｍ）、大屯山（同1092ｍ）、嵩山（同989ｍ）らの各山の集まった台北北部の山地全体を指した名称である。淡水河は、この陽明山塊と対岸の八里の背後にそびえる観音山（標高612ｍ）との間をすり抜けて、台北市内にさかのぼっていく。深い森をたたえた山があり、海とつながる大河があり、青い空と太陽の光があり、そして何よりも、人々の生活がある。ここには伝統的な山水画では描けない、枯れた景色からは程遠い豊かな色の風景がある。かつて山水画を生み出した中国大陸は、「遠目から見れば天国、しかし近くに寄って見れば地獄」と言われた。確かにエリートたちが高い水準の文物を生み出したが、普通の人民はひどく苦しんでいたのだ。しかし、この風景はどうであろうか？もちろん未だに人々の中には苦しみや悲しみがある。正さなければならない不正もまた、必ず多くあるであろう。しかしながら、全ての人が不幸であるような地獄の社会からは、少なくともこの地は遠ざかっている。何と喜ばしいことではないか。この淡水の風景は、二十一世紀初頭のアジアにある、ほんとうの宝石の一つではないか。

戯れに、このようなことを言ってみたい。

もし外国人に台湾を見せたいと思うならば、おそらくいちばんよいのは淡水の船着き場に連れて行き、そこから八里行きの水上バスに乗せてみることだ。そうすれば、この島が持つ地形の一つ一つが、まとめて眼前に開けるだろう。前には汽水となった淡水の大河が広がり、この島が海と川とのあわいで生業をたててきたことを、海のような川の色が教えてくれる。右手遠くには黒々としたマングローブ林が見える ― この島が、すでに熱帯であることを視覚的にわからせるものであるが、遠くから見る場合には、想像力を少し働かせてその情景を目に浮かばせよう。目の前にそびえる黒々とした陽明山塊は、ここから島の奥に続いていく4000メートルにもうすぐ届きそうな大山脈の、格好の序章をなしている。その下にある淡水の街並みは、この川をさかのぼった向こうにある台北の都が延長してきた姿であって、この島の住民がしょぼくれた無気力民では決してない、活力のある人民であることを一目で分からせるためのショーウィンドウだ。街の左手にあるのは、赤いプロヴィンシア城。1628年、オランダに先を越されたスペイン人が、ならばこの島の北半分は俺たちのものだと勝手に宣言して、建てた城だ。それもそうだろう、この河口にこうやって船が入れば、誰でもが&#8221;Ilha Formosa !&#8221;（ポルトガル語：「美しい島だ！」）と叫びたくなる。プロヴィンシア城は、この河口の美しさと、この河口からさらに奥に続いていく「美麗島」の予感にわくわくしたスペイン人が作ったものだ。しかし、彼らはマラリアに苦しんだあげくに、わずか十年でこの城を放棄して去ってしまった。彼らの残した現在は「紅毛城」と呼ばれている城跡は、この島がいかに外国人を魅了したかという事実と、かつてこの島に入って来ては去っていった多くの外国人がいたことを、問わず語りに示しているのである。ジャンクの稚魚のような漁船も、川を上り下りしている。この島は、漁業の島である。ただ、この淡水の景色には、島の風景の重大な要素である農業の風景が足りない。そこで、水上バスに乗り込む前に、淡水の通りでサトウキビを一本買っておくとよい。それをかじって、台中平原の豊かな農村を想像すればいいだろう（ただし、船中では食べるな。対岸に着いてから、味わわなければならない）。この青くて暑い空の下で、何の目的かは知らないが働いている、なんと信じられないほどに様々な人々！理性は、八里郷海岸に打ち寄せる波のように消え去ってしまう。一方想像力はふくらみ、広がり、深まり、ついには地理を形作って濃密な「美麗島」が描かれるのだ、、、

実はこれは、E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』Howard&#8217;s End第十九章のもじりである。フォースターは外国人にイングランドを見せるための場所として、南イングランドの英仏海峡にほど近い、パーベック・ヒルズの最先端、コーフの数マイル東の頂に連れて行くことをすすめた。試しに、フォースターの叙述にならって、この淡水を「美麗島」（&#8221;Formosa&#8221;の漢語訳）とも呼ばれる台湾を外国人に予感させるための縮図がある場所として、提唱してみたい。ここには、海と、川と、山と、緑と、そして人民の営みがある。

人の書いたもののコピーだけでは申し訳ないので、自分でもヘタな漢詩を作ってみた。七言絶句形式で、口語を交えた表現にしてみたが、どうだろうか？






舟前美麗影嶢嶢

舟前、美麗（うるわ）しき影嶢嶢



山緑河清戲海潮

山緑にして河清く、海潮と戲（たわむ）る



問島將來游哪裡

島に「將來、哪裡（いずこ）に游（およ）ぐか」と問えば



風謡已在地球漂

風は謡う、「已（すで）に地球にありて漂う」と。









対岸の八里から撮った、陽明山塊である。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="formosa.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/formosa.JPG" width="120" height="144" align="right" vspace="5" hspace="15"></p>
<h3><font color="#c9364d">ILHA FORMOSA（美しい島） !</font></h3>
<p>淡水の景色は、すばらしい。坂の街である。背景にある陽明山塊から降りてくる傾斜が、淡水河に沈むそのあわいにある。川は間もなく東シナ海に注ぐ寸前にあって大河であり、しかも海水が入り込んで海のような深い色をたたえている。街並みは縦横にはりめぐらされた坂道でつながれて、台湾の都市らしく飲食店が豊富で華やかである。しかしさんさんと降り注ぐ陽光と海からの風の下、油っこさは取り除かれて爽やかな印象を観光客に与える。活力と美がどちらもどちらを圧倒しないで、調和を保っている。そんな小都会であった。</p>
<p></p>
<p><span id="more-28"></span><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870033.JPG"><img alt="12870033.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870033-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
淡水のメインストリート、中正路にある「天上聖母」である。天上聖母とは、台湾の守り神である媽祖（マースー）のことだ。福建省の実在の女性が神として崇められるようになった存在である。海の神として、その信仰は香港や東南アジアの華僑に広く行き渡っている。そしてこの台湾でもそうであって、媽祖さまは台湾を守護する八百万の神仏の中でも、一頭図抜けている人気を誇る。この淡水のお宮は、小さいながらも台湾らしく華麗で丁寧に作られている。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870036.JPG"><img alt="12870036.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870036-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
生ジュースやかき氷売りに、酸梅湯（スァンメイタン）に豬血&#x7cd5;（チューシェカォ）、、、通りの両岸は、もうすっかり見慣れてしまった食べ物屋の風景である。酸梅湯とは、魯迅の小説にも出てくる、コクのある梅ジュースのことだ。この淡水の店は、どうやら有名らしい。一杯頼んでみた。わずかに塩を利かせてあって、いかにも健康飲料のような味わいであった。だが、上の写真の豬血&#x7cd5;　―　読んで字のとおり、豬（日本語ではイノシシのことだが、漢語では豚のこと）の血を固めて作った餅のようなもの　―　は、とうとう食べる勇気がでなかった。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870029.JPG"><img alt="12870029.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870029-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
渡し場から、対岸の八里（パーリ）にまで水上巴士（水上バス）がひんぱんに往来している。往復３６元。私は、チケットを買って、乗り込んだ。</p>
<p><img alt="tansui.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/tansui.JPG" width="400" height="581" /></p>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870031.JPG"><img alt="12870031.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870031-thumb.JPG" width="400" height="228" /></a>
<p>
青い空の下、広々とした淡水河を船は波を切って進む！淡水の街は遠目に見ても美しく、背後にそびえるのは、陽明山塊。陽明山（ヤンミンシャン）とは特定の山を指した名称ではなくて、七星山（標高1120ｍ）、大屯山（同1092ｍ）、嵩山（同989ｍ）らの各山の集まった台北北部の山地全体を指した名称である。淡水河は、この陽明山塊と対岸の八里の背後にそびえる観音山（標高612ｍ）との間をすり抜けて、台北市内にさかのぼっていく。深い森をたたえた山があり、海とつながる大河があり、青い空と太陽の光があり、そして何よりも、人々の生活がある。ここには伝統的な山水画では描けない、枯れた景色からは程遠い豊かな色の風景がある。かつて山水画を生み出した中国大陸は、「遠目から見れば天国、しかし近くに寄って見れば地獄」と言われた。確かにエリートたちが高い水準の文物を生み出したが、普通の人民はひどく苦しんでいたのだ。しかし、この風景はどうであろうか？もちろん未だに人々の中には苦しみや悲しみがある。正さなければならない不正もまた、必ず多くあるであろう。しかしながら、全ての人が不幸であるような地獄の社会からは、少なくともこの地は遠ざかっている。何と喜ばしいことではないか。この淡水の風景は、二十一世紀初頭のアジアにある、ほんとうの宝石の一つではないか。
<p>
戯れに、このようなことを言ってみたい。
<p></p>
<blockquote><p>もし外国人に台湾を見せたいと思うならば、おそらくいちばんよいのは淡水の船着き場に連れて行き、そこから八里行きの水上バスに乗せてみることだ。そうすれば、この島が持つ地形の一つ一つが、まとめて眼前に開けるだろう。前には汽水となった淡水の大河が広がり、この島が海と川とのあわいで生業をたててきたことを、海のような川の色が教えてくれる。右手遠くには黒々としたマングローブ林が見える ― この島が、すでに熱帯であることを視覚的にわからせるものであるが、遠くから見る場合には、想像力を少し働かせてその情景を目に浮かばせよう。目の前にそびえる黒々とした陽明山塊は、ここから島の奥に続いていく4000メートルにもうすぐ届きそうな大山脈の、格好の序章をなしている。その下にある淡水の街並みは、この川をさかのぼった向こうにある台北の都が延長してきた姿であって、この島の住民がしょぼくれた無気力民では決してない、活力のある人民であることを一目で分からせるためのショーウィンドウだ。街の左手にあるのは、赤いプロヴィンシア城。1628年、オランダに先を越されたスペイン人が、ならばこの島の北半分は俺たちのものだと勝手に宣言して、建てた城だ。それもそうだろう、この河口にこうやって船が入れば、誰でもが&#8221;Ilha Formosa !&#8221;（ポルトガル語：「美しい島だ！」）と叫びたくなる。プロヴィンシア城は、この河口の美しさと、この河口からさらに奥に続いていく「美麗島」の予感にわくわくしたスペイン人が作ったものだ。しかし、彼らはマラリアに苦しんだあげくに、わずか十年でこの城を放棄して去ってしまった。彼らの残した現在は「紅毛城」と呼ばれている城跡は、この島がいかに外国人を魅了したかという事実と、かつてこの島に入って来ては去っていった多くの外国人がいたことを、問わず語りに示しているのである。ジャンクの稚魚のような漁船も、川を上り下りしている。この島は、漁業の島である。ただ、この淡水の景色には、島の風景の重大な要素である農業の風景が足りない。そこで、水上バスに乗り込む前に、淡水の通りでサトウキビを一本買っておくとよい。それをかじって、台中平原の豊かな農村を想像すればいいだろう（ただし、船中では食べるな。対岸に着いてから、味わわなければならない）。この青くて暑い空の下で、何の目的かは知らないが働いている、なんと信じられないほどに様々な人々！理性は、八里郷海岸に打ち寄せる波のように消え去ってしまう。一方想像力はふくらみ、広がり、深まり、ついには地理を形作って濃密な「美麗島」が描かれるのだ、、、</p></blockquote>
<p>
実はこれは、E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』Howard&#8217;s End第十九章のもじりである。フォースターは外国人にイングランドを見せるための場所として、南イングランドの英仏海峡にほど近い、パーベック・ヒルズの最先端、コーフの数マイル東の頂に連れて行くことをすすめた。試しに、フォースターの叙述にならって、この淡水を「美麗島」（&#8221;Formosa&#8221;の漢語訳）とも呼ばれる台湾を外国人に予感させるための縮図がある場所として、提唱してみたい。ここには、海と、川と、山と、緑と、そして人民の営みがある。
<p>
人の書いたもののコピーだけでは申し訳ないので、自分でもヘタな漢詩を作ってみた。七言絶句形式で、口語を交えた表現にしてみたが、どうだろうか？<br />
<blockquote><table border="1" cellpadding="8">
<tr>
<td>
<table>
<tr>
<td width="150">
<h3>舟前美麗影嶢嶢
</td>
<td>舟前、美麗（うるわ）しき影嶢嶢
</td>
<tr>
<td>
<h3>山緑河清戲海潮
</td>
<td>山緑にして河清く、海潮と戲（たわむ）る
</td>
<tr>
<td>
<h3>問島將來游哪裡
</td>
<td>島に「將來、哪裡（いずこ）に游（およ）ぐか」と問えば
</td>
<tr>
<td>
<h3>風謡已在地球漂
</td>
<td>風は謡う、「已（すで）に地球にありて漂う」と。
</td>
</tr>
</table>
</td>
</tr>
</table>
</blockquote>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870032.JPG"><img alt="12870032.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870032-thumb.JPG" width="400" height="228" /></a>
<p>
対岸の八里から撮った、陽明山塊である。</p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30PM01:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 04:00:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[

空と　―　ジャンクと　―　マングローブ！

芝山岩で色々と調べ物をしたので、どうやら頭の力をほとんど使い切ってしまったようだ。もう故宮博物院をしっかりと見て回るだけの判断力が、頭に残っていない。

こんな状態で行くのは不幸だ、と思ったので、今回の旅行では故宮博物院行きをパスすることにした。また台北に来た機会に、じっくりと見ることにしよう。だがこっそりと意見を言っておくが、あれは大陸中国の宝であって、この島の宝ではない。蒋介石の知恵袋であった国際骨董品商の張静江（1877 &#8211; 1950）が、日中戦争時に北京から一番価値のある文物をごっそり持ち出して重慶に運んだものだ。それが国民党の大陸脱出と共に台北に運び込まれて、結果として台北の「故宮」の方にむしろ超一流の宝が入っている。だから、いずれあれは北京に返すのが筋だと、私は思う。


郊外に行こう、電車に乗って。

疲れた頭で、ふっとそう思った。

私は親から「お前は自転車を乗るときにも前を見ないで走る奴だから、絶対に車の運転をしたらあかん」と言われていて、自分でも車の運転をしたらたぶん死ぬだろうと予想できるほどなので、車の免許を持っていない。結果、車を転がして回る旅行のスタイルに愛着がない。そのため小さい頃から電車に乗って郊外に行く旅が大好きだった。私の育った関西地方には私鉄が縦横に張り巡らされているので、いくらでもプランを立てて知らない海辺や山の中に行くことができた。時には何の変哲もない工業地帯や平凡な住宅地が終点の線路にも、乗りに行ったものだ。今、ほとんど頭の中が空っぽになってしまったときに、やってみたくなったのは地下鉄の終点まで行ってみることだった。そういうわけで、芝山駅で切符を買ってMRT（地下鉄）淡水線に乗った。終点の淡水までの運賃は、郊外だから一声高い４０元である。

台北市は盆地の中にある。その盆地の中を、淡水河が流れている。かつて淡水河を昇り降りして烏龍茶の運び出しが行なわれた。東シナ海の河口からさかのぼって、台北旧市街の&#33355;&#33338;、大稻&#22485;で茶の積み出しが行なわれた。その後この川は運送用に使われなくなり、今では若干の漁船と遊覧船を除いて、川を上り下りする船影は見えない。

MRTの車内は静かで、日本の平日の昼下がりの車内のようだ。ビジネスマンなど乗っておらず、母親と、子供たちと、お年寄りと、そして観光客だけ。今日も激しく暑い日中の昼下がりを、列車は走っていった。ほとんど日本にいるような錯覚すら覚えた、私であった。

だが、列車が山の中をすり抜けて次第に淡水の町に近づいていくにつれて、目の前の淡水河は海のように拡がりはじめた。そこにやがて見え出した風景は、、、、ごくごく低木の緑の森が、河沿いに伸びている。その根元をよく見ると、木の幹が川の水の中に浸かっているのである。おそらく海水と混じって汽水（きすい）と化しているであろう川の水は、目の前からかなり向こうまで広がっている緑の森の中に入り込んで、水の中から無数の低木が生え出る不思議な光景を作っていた。

―　これは、マングローブじゃないか！

そうだ。ここは台湾なのだ。西表島からほど近い、亜熱帯の河口地方。そこに特有の植生が、マングローブ林だ。それを、ここで見ることができた。台湾は、やはり南の島なのだ。おそらく、人間の開発が進む前は、淡水河沿いにもっと鬱蒼と広がっていたのであろう。おそらく昔に比べてずいぶん縮小したであろうとはいえ、まだMRTの沿線に多少残っている。ひょっとしてこの線路を作ったときも、削ってしまったのかもしれない。私は車窓からの亜熱帯の風景を喜びながら、人間の川辺に向けた進出線がもうそろそろこの線路の辺で止まってほしいものだ、といった矛盾した感想を持ってしまった。

淡水駅に着いた。明るい太陽の光が似合う、にぎやかだがどこかとぼけた味わいのある観光地だ。駅前はよく整備されて、清潔である。まず私はやっぱり駅前の屋台で、生フルーツジュースを買って飲んだ。グアバジュースが、甘酸っぱくて空き腹にうまい。

ほとんど海といってよい河岸を歩いていった。すると、そこで私が見かけたものは、、、、、


舳先（へさき）がそり返って、しかも水平に切り取られているような変わった形をした、漁船たちであった。赤色や青色でにぎやかにペインティングされていて、両脇には魚の目玉が描かれている。

ジャンク（戎克）だ。

小さいが、この特徴はまさしく中国伝統の船、ジャンクの様式そのものだ。竜骨を置かずに、箱を何個かつなげる形式で作られた独特の構造。竜骨がないから、舳先は尖らずにこのように水平にちょん切られたような形となる。船体に反（そ）りを思い切り効かせて、波に上手に乗れるように工夫してある。そして最大の「目玉」は、まさしく船を魚になぞらえて古来から必ずおまじない用の「目玉」を船に描き込むのだ。漢代の「船」（チュアン）にすでにこの構造は出現し、以来二千年間、この姿で造られつづけた。竜骨を置いた西洋船よりも速度は遅いが、頑丈さでは決して西洋木造船に負けることはなく、しかも平底だから浅瀬に乗り上げても顛覆しないという利点を持つ。明代の鄭和が操った巨大船隊もこのジャンクであった。十九世紀になってすら1846年から1848年にかけて、一隻のジャンクが中国から喜望峰を回ってイギリスとアメリカを回航した。この西洋で&#8221;Keying&#8221;（耆英）と名が記録されている船は、ボストンからロンドンまでを21日で航行してみせて、イギリスの新聞はこの中国の伝統船が航海に優れていることを賞賛したのであった（英語版Wikipediaの&#8221;Junk&#8220;の記事を参照）。



まさか今この淡水で、しかも結構新しいジャンクが見られるとは、思いもよらなかった。漁船として使われているようで、魚網を載せてエンジンが取り付けられている。ジャンクをジャンクたらしめているシンボルと言える目ん玉もきちんと付けられている。鄭和の船や耆英号と同じ伝統を享有しているのである。もっとも鄭和の巨大船が鯨とすれば、この漁船はせいぜいジャコぐらいでしかないが、、、、ともかく、ずらりと目玉を揃えて並んだちびっこジャンクたちの群れを見ると、まるで水上の不思議な生き物のようである。中国文化圏の人々は元来が陸地民で、「江湖」（ジャンフー）といえば無法者の世界の形容詞となっているくらいに、海や川の世界はイカガワシイものだと印象されている。そのような人々が水の上にこんなにユーモラスな船を浮かべることを思いついたというのが、何とも不思議でかつ興味深いではないか。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="formosa.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/formosa.JPG" width="120" height="144" align="right" vspace="5" hspace="15"></p>
<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">空と　―　ジャンクと　―　マングローブ！</font></h3>
<p></font></h3>
<p>芝山岩で色々と調べ物をしたので、どうやら頭の力をほとんど使い切ってしまったようだ。もう故宮博物院をしっかりと見て回るだけの判断力が、頭に残っていない。
<p>
こんな状態で行くのは不幸だ、と思ったので、今回の旅行では故宮博物院行きをパスすることにした。また台北に来た機会に、じっくりと見ることにしよう。だがこっそりと意見を言っておくが、あれは大陸中国の宝であって、この島の宝ではない。蒋介石の知恵袋であった国際骨董品商の張静江（1877 &#8211; 1950）が、日中戦争時に北京から一番価値のある文物をごっそり持ち出して重慶に運んだものだ。それが国民党の大陸脱出と共に台北に運び込まれて、結果として台北の「故宮」の方にむしろ超一流の宝が入っている。だから、いずれあれは北京に返すのが筋だと、私は思う。
<p></p>
<p><span id="more-27"></span><br />
郊外に行こう、電車に乗って。
<p>
疲れた頭で、ふっとそう思った。
<p>
私は親から「お前は自転車を乗るときにも前を見ないで走る奴だから、絶対に車の運転をしたらあかん」と言われていて、自分でも車の運転をしたらたぶん死ぬだろうと予想できるほどなので、車の免許を持っていない。結果、車を転がして回る旅行のスタイルに愛着がない。そのため小さい頃から電車に乗って郊外に行く旅が大好きだった。私の育った関西地方には私鉄が縦横に張り巡らされているので、いくらでもプランを立てて知らない海辺や山の中に行くことができた。時には何の変哲もない工業地帯や平凡な住宅地が終点の線路にも、乗りに行ったものだ。今、ほとんど頭の中が空っぽになってしまったときに、やってみたくなったのは地下鉄の終点まで行ってみることだった。そういうわけで、芝山駅で切符を買ってMRT（地下鉄）淡水線に乗った。終点の淡水までの運賃は、郊外だから一声高い４０元である。
<p><img alt="tansui.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/tansui.JPG" width="400" height="581" /></p>
<p>台北市は盆地の中にある。その盆地の中を、淡水河が流れている。かつて淡水河を昇り降りして烏龍茶の運び出しが行なわれた。東シナ海の河口からさかのぼって、台北旧市街の&#33355;&#33338;、大稻&#22485;で茶の積み出しが行なわれた。その後この川は運送用に使われなくなり、今では若干の漁船と遊覧船を除いて、川を上り下りする船影は見えない。
<p>
MRTの車内は静かで、日本の平日の昼下がりの車内のようだ。ビジネスマンなど乗っておらず、母親と、子供たちと、お年寄りと、そして観光客だけ。今日も激しく暑い日中の昼下がりを、列車は走っていった。ほとんど日本にいるような錯覚すら覚えた、私であった。
<p>
だが、列車が山の中をすり抜けて次第に淡水の町に近づいていくにつれて、目の前の淡水河は海のように拡がりはじめた。そこにやがて見え出した風景は、、、、ごくごく低木の緑の森が、河沿いに伸びている。その根元をよく見ると、木の幹が川の水の中に浸かっているのである。おそらく海水と混じって汽水（きすい）と化しているであろう川の水は、目の前からかなり向こうまで広がっている緑の森の中に入り込んで、水の中から無数の低木が生え出る不思議な光景を作っていた。
<p>
―　これは、マングローブじゃないか！
<p>
そうだ。ここは台湾なのだ。西表島からほど近い、亜熱帯の河口地方。そこに特有の植生が、マングローブ林だ。それを、ここで見ることができた。台湾は、やはり南の島なのだ。おそらく、人間の開発が進む前は、淡水河沿いにもっと鬱蒼と広がっていたのであろう。おそらく昔に比べてずいぶん縮小したであろうとはいえ、まだMRTの沿線に多少残っている。ひょっとしてこの線路を作ったときも、削ってしまったのかもしれない。私は車窓からの亜熱帯の風景を喜びながら、人間の川辺に向けた進出線がもうそろそろこの線路の辺で止まってほしいものだ、といった矛盾した感想を持ってしまった。
<p>
淡水駅に着いた。明るい太陽の光が似合う、にぎやかだがどこかとぼけた味わいのある観光地だ。駅前はよく整備されて、清潔である。まず私はやっぱり駅前の屋台で、生フルーツジュースを買って飲んだ。グアバジュースが、甘酸っぱくて空き腹にうまい。
<p>
ほとんど海といってよい河岸を歩いていった。すると、そこで私が見かけたものは、、、、、
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870027.JPG"><img alt="12870027.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870027-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
舳先（へさき）がそり返って、しかも水平に切り取られているような変わった形をした、漁船たちであった。赤色や青色でにぎやかにペインティングされていて、両脇には魚の目玉が描かれている。
<p>
ジャンク（戎克）だ。
<p>
小さいが、この特徴はまさしく中国伝統の船、ジャンクの様式そのものだ。竜骨を置かずに、箱を何個かつなげる形式で作られた独特の構造。竜骨がないから、舳先は尖らずにこのように水平にちょん切られたような形となる。船体に反（そ）りを思い切り効かせて、波に上手に乗れるように工夫してある。そして最大の「目玉」は、まさしく船を魚になぞらえて古来から必ずおまじない用の「目玉」を船に描き込むのだ。漢代の「船」（チュアン）にすでにこの構造は出現し、以来二千年間、この姿で造られつづけた。竜骨を置いた西洋船よりも速度は遅いが、頑丈さでは決して西洋木造船に負けることはなく、しかも平底だから浅瀬に乗り上げても顛覆しないという利点を持つ。明代の鄭和が操った巨大船隊もこのジャンクであった。十九世紀になってすら1846年から1848年にかけて、一隻のジャンクが中国から喜望峰を回ってイギリスとアメリカを回航した。この西洋で&#8221;Keying&#8221;（耆英）と名が記録されている船は、ボストンからロンドンまでを21日で航行してみせて、イギリスの新聞はこの中国の伝統船が航海に優れていることを賞賛したのであった（英語版Wikipediaの&#8221;<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Junk_%28ship%29#19th_century_junks_.28Qing_Dynasty.29">Junk</a>&#8220;の記事を参照）。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870028.JPG"><img alt="12870028.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870028-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
まさか今この淡水で、しかも結構新しいジャンクが見られるとは、思いもよらなかった。漁船として使われているようで、魚網を載せてエンジンが取り付けられている。ジャンクをジャンクたらしめているシンボルと言える目ん玉もきちんと付けられている。鄭和の船や耆英号と同じ伝統を享有しているのである。もっとも鄭和の巨大船が鯨とすれば、この漁船はせいぜいジャコぐらいでしかないが、、、、ともかく、ずらりと目玉を揃えて並んだちびっこジャンクたちの群れを見ると、まるで水上の不思議な生き物のようである。中国文化圏の人々は元来が陸地民で、「江湖」（ジャンフー）といえば無法者の世界の形容詞となっているくらいに、海や川の世界はイカガワシイものだと印象されている。そのような人々が水の上にこんなにユーモラスな船を浮かべることを思いついたというのが、何とも不思議でかつ興味深いではないか。<br />
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		<title>台北四十八時間 06/06/30AM12:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 03:00:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
芝山岩の上で（３）



「學務官僚遭難者之碑」の前に置かれていた、台北市政府の説明プレートである。このように書いてある。


日本殖民政府は、台湾において日本語教育を推進しようとした。明治二十八年（1895）七月、台湾総督府学務部長伊澤修二は学務部を芝山岩（巖）學堂に移設して、殖民教育体制を開始した。明治二十九年（1896）に、「芝山岩（巖）事件」が発生して、六名の学務官僚が殺された。殖民政府はこの事件を記念するために、「學務官僚遭難之碑」を建てた。台湾が光復した後、士林地方の人士は「芝山岩（巖）事件」を抗日志士の行為であると指摘した。民國四十七年（1958）に國民大会は全員一致で「芝山岩（巖）事件碑記」を建てる件を通過させた。許昌揚國大代表の撰述により、一枚の石碑を立てて碑文を刻み、雨農閲覧室の前に掲げたのであった。（中略）「學務官僚遭難之碑」はかつて草むらの中に捨て置かれていたが、民國九〇年（2001）十二月、当時の写真による位置を参考にして、旧観に復元した。

芝山岩（巖）事件は異なった歴史観によって異なった解釈が行なわれており、石碑の処理に関してもまた、見解が一致していない。わが市政府は学者・専門家に幾度となく調査・研究を依頼することを通じて、客観的に歴史の全貌をことごとく見分けて、もって殖民主義の統治恩恵と統治策略を明らかにしてきた。当初、しばらくは現地において保存することを原則として、平衡を取って公平な方式で雨農閲覧室の前に並立させる。最終的に両碑は博物館かあるいは文物館に移して展示する予定である。

台北市政府文化局　謹んで誌す
中華民國九十二年十二月


ここに書かれているとおり、将来この碑と「芝山巖事件碑記」はこの芝山岩から撤去されて、どこかの博物館か文物館に陳列するのが市政府の意向であるという。そしてこの件についても、背後には推進派・反対派のつばぜり合いがあるようだ（漢語のこの記事と、それに反論したこの記事など）。台北の南の烏來においても、今年2006年の二月に「高砂義勇隊紀念碑」の創建を巡って創建者側と県政府とのいさかいがあったばかりである（漢語のこの記事参照。紀念碑は現在撤去されているようである）。



プレートの説明のとおり、、「學務官僚遭難之碑」の前には雨農閲覧室がある。この施設は、もと芝山巖祠があった土地の上に作られたものである。資料閲覧室なのだが、中は日本の図書館の自習室みたいな使われ方をしていた。涼しくて格好の自習場所なのであろう。その壁に、台北市政府の用意した芝山巖事件とその後の歴史的経過について詳しく説明する写真つきパネルが掲げられていた。

そこでは、例えば「六氏先生之墓」の建立について、このように記載していた。
、、、足見殖民統治之遺毒迄今猶未滌清。
殖民統治の遺毒が、今なお落とされずに残っていることを見ることができる。

また、芝山巖祠の建設については（訳）、
芝山巖祠の建設は、芝山巖の生態に極大的な破壊をもたらした。山頂東側の土地を平らにし、山頂にあった遺物を埋め立てて、大量の泥土をまいた。このほか、外来植物を導入して、造成は芝山巖の原始林相を破壊せしめた、、、

とまで書いている。呈示されている資料の合い間に、日本の統治への批判的視点が語られていた。

素直に考えても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が人民のマジョリティーに喜ばれるはずがない。だから、台北市政府の上のような主張は、叩かれている日本人としての感情的なわだかまりを置いて見たならば、大変わかりやすいスタンスである。昔の時代と違って、選挙で議員が選ばれるようになった今はどの政党でも台湾の住民に向けてアピールしなければ、票を獲得することなどできない。だから、国民党も現在過去の台湾史の有名人らを顕彰する運動を行なっている。以前に挙げた李筱峰氏の『馬英九と台湾史を論ず』に収録されている写真によれば、最近の国民党中央党本部の前面には、過去の台湾史で日本支配に抵抗した台湾人たちの肖像写真が掲げられている。その中には、蒋渭水（1891 &#8211; 1931、日本統治下で、人民に台湾文化を啓蒙するための「台湾文化協会」を創立）、李友邦（1906 &#8211; 1952、日本からの台湾独立を目指す「台湾独立革命党」を設立。戦後、国民党政府により反政府活動嫌疑をかけられて銃殺）、モーナルーダオ（1882 &#8211; 1930、原住民タイヤル族で、1930年に起った日本人大虐殺事件の「霧社事件」の指導者）などがいる。李筱峰氏の目から見れば、過去に台湾独立運動を暴力で抑圧し続けてきた国民党が今さら台湾史の英雄たちを顕彰するとは「驚きのあまり跳び上がり、笑いがこみあげるのを禁じえない」（25ページ）ということなのだが、とにかくこのように「自分たちの島」への回帰の流れの中に政治がある。しかも、大陸中国との関係は極めてデリケートである。その状況で政治的に一番叩きやすい対象は、過去に「自分たちの島」を殖民地として支配した、当時の日本当局なのであろう。いくら客観的に殖民地支配の歴史を評価する視点を持ったとしても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が主流となることはおそらくありえないだろう。

そのように、「自分たちの島」を称えれば称えるほど温度の差はあったとしてもマイナスの評価とならざるをえないのが、日本統治時代である。日本統治時代は、戦後の国民党による戒厳令時代と並んで、「台湾が本来の姿でなかった時代」として評価されるであろう。ただしかし、昔の日本当局は、現在まだここに続いて存在している国民党とは違って、完全に過去の歴史となった支配者である。だから、過去の国民党よりもずっと政治的に叩きやすい対象のはずだ。その状況があるにも関わらず、この芝山岩の公園で私が見た文物やその説明は、一方的な決め付けと破壊からは免れていた。いや、以前は一方的な決め付けと破壊の中にあった。それが1990年代以降に見直しがなされて、ある程度冷静な視点に立った上で歴史を残しながら批判しようとしている。そこに、過去を冷静に見据えざるをえなくなったこの島の言論の成熟を見てはいけないであろうか？台湾の言論においては、日本の統治政策がほとんどアナーキーに近かった清朝時代の台湾を高度な工業社会に作り変えたことは、もはや常識として語られているのである。

心配しなくても、この国が心底から反日になることは、おそらくないだろう。日本の文化がこれほどにも（一部の人が眉をひそめるまでに）好意的に受け入れられている事実を見れば、たとえ将来政治的な言葉上の物言いで何か反発があったとしても、現在の日本に対して何かと興味と関心を持つ人民の基調低音は変わりはしないと思う。もし真の意味でこの島の住民が反日となる日が来るとするならば、それは台湾人が常に感嘆して眺めてきた日本人の創造力のパワーがついに失われて、かつ日本人の最大の美徳である謙虚さを捨てて傲慢になってしまったときなのだ。政治的民族でも冒険家民族でもない、職人的民族の日本人がこれらの美徳を失ったら、一体何の美徳が残るのであろうか？もしそうなってしまった時には、その時こそ、この島の人々は日本を見限るであろう。


打ち捨てられた石や鉄のベンチは、かつてここがにぎやかな神社であった時代の名残であろうか？公園の遊歩道の向こうにあって入れないので、おそらくここが公園として整備されたときに置かれたものではないだろう。芝山岩はこのぐらいにして、私は裏道から平地に降りていった。


]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">芝山岩の上で（３）</font></h3>
<p></font></h3>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870019.JPG"><img alt="12870019.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870019-thumb.JPG" width="200" height="169" /></a>
<p>
「學務官僚遭難者之碑」の前に置かれていた、台北市政府の説明プレートである。このように書いてある。
<p></p>
<p><span id="more-26"></span></p>
<blockquote><p>日本殖民政府は、台湾において日本語教育を推進しようとした。明治二十八年（1895）七月、台湾総督府学務部長伊澤修二は学務部を芝山岩（巖）學堂に移設して、殖民教育体制を開始した。明治二十九年（1896）に、「芝山岩（巖）事件」が発生して、六名の学務官僚が殺された。殖民政府はこの事件を記念するために、「學務官僚遭難之碑」を建てた。台湾が光復した後、士林地方の人士は「芝山岩（巖）事件」を抗日志士の行為であると指摘した。民國四十七年（1958）に國民大会は全員一致で「芝山岩（巖）事件碑記」を建てる件を通過させた。許昌揚國大代表の撰述により、一枚の石碑を立てて碑文を刻み、雨農閲覧室の前に掲げたのであった。（中略）「學務官僚遭難之碑」はかつて草むらの中に捨て置かれていたが、民國九〇年（2001）十二月、当時の写真による位置を参考にして、旧観に復元した。
<p>
芝山岩（巖）事件は異なった歴史観によって異なった解釈が行なわれており、石碑の処理に関してもまた、見解が一致していない。わが市政府は学者・専門家に幾度となく調査・研究を依頼することを通じて、客観的に歴史の全貌をことごとく見分けて、もって殖民主義の統治恩恵と統治策略を明らかにしてきた。当初、しばらくは現地において保存することを原則として、平衡を取って公平な方式で雨農閲覧室の前に並立させる。最終的に両碑は博物館かあるいは文物館に移して展示する予定である。
<p>
台北市政府文化局　謹んで誌す<br />
中華民國九十二年十二月<br />
</blockquote>
<p>
ここに書かれているとおり、将来この碑と「芝山巖事件碑記」はこの芝山岩から撤去されて、どこかの博物館か文物館に陳列するのが市政府の意向であるという。そしてこの件についても、背後には推進派・反対派のつばぜり合いがあるようだ（漢語の<a href="http://www.ettoday.com/2006/05/02/141-1936068.htm">この記事</a>と、それに反論した<a href="http://www.ettoday.com/2006/05/17/142-1942197.htm">この記事</a>など）。台北の南の烏來においても、今年2006年の二月に「高砂義勇隊紀念碑」の創建を巡って創建者側と県政府とのいさかいがあったばかりである（漢語の<a href="http://news01.cdns.com.tw/20060218/news/gstz/200000002006021721391349.htm">この記事</a>参照。紀念碑は現在撤去されているようである）。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870023.JPG"><img alt="12870023.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870023-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
プレートの説明のとおり、、「學務官僚遭難之碑」の前には雨農閲覧室がある。この施設は、もと芝山巖祠があった土地の上に作られたものである。資料閲覧室なのだが、中は日本の図書館の自習室みたいな使われ方をしていた。涼しくて格好の自習場所なのであろう。その壁に、台北市政府の用意した芝山巖事件とその後の歴史的経過について詳しく説明する写真つきパネルが掲げられていた。
<p>
そこでは、例えば「六氏先生之墓」の建立について、このように記載していた。<br />
<blockquote><p>、、、足見殖民統治之遺毒迄今猶未滌清。<br />
殖民統治の遺毒が、今なお落とされずに残っていることを見ることができる。</p></blockquote>
<p>
また、芝山巖祠の建設については（訳）、<br />
<blockquote><p>芝山巖祠の建設は、芝山巖の生態に極大的な破壊をもたらした。山頂東側の土地を平らにし、山頂にあった遺物を埋め立てて、大量の泥土をまいた。このほか、外来植物を導入して、造成は芝山巖の原始林相を破壊せしめた、、、</p></blockquote>
<p>
とまで書いている。呈示されている資料の合い間に、日本の統治への批判的視点が語られていた。
<p>
素直に考えても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が人民のマジョリティーに喜ばれるはずがない。だから、台北市政府の上のような主張は、叩かれている日本人としての感情的なわだかまりを置いて見たならば、大変わかりやすいスタンスである。昔の時代と違って、選挙で議員が選ばれるようになった今はどの政党でも台湾の住民に向けてアピールしなければ、票を獲得することなどできない。だから、国民党も現在過去の台湾史の有名人らを顕彰する運動を行なっている。以前に挙げた李筱峰氏の『馬英九と台湾史を論ず』に収録されている写真によれば、最近の国民党中央党本部の前面には、過去の台湾史で日本支配に抵抗した台湾人たちの肖像写真が掲げられている。その中には、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E6%B8%AD%E6%B0%B4">蒋渭水</a>（1891 &#8211; 1931、日本統治下で、人民に台湾文化を啓蒙するための「台湾文化協会」を創立）、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8F%8B%E9%82%A6">李友邦</a>（1906 &#8211; 1952、日本からの台湾独立を目指す「台湾独立革命党」を設立。戦後、国民党政府により反政府活動嫌疑をかけられて銃殺）、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E9%82%A3%E9%AD%AF%E9%81%93">モーナルーダオ</a>（1882 &#8211; 1930、原住民タイヤル族で、1930年に起った日本人大虐殺事件の「霧社事件」の指導者）などがいる。李筱峰氏の目から見れば、過去に台湾独立運動を暴力で抑圧し続けてきた国民党が今さら台湾史の英雄たちを顕彰するとは「驚きのあまり跳び上がり、笑いがこみあげるのを禁じえない」（25ページ）ということなのだが、とにかくこのように「自分たちの島」への回帰の流れの中に政治がある。しかも、大陸中国との関係は極めてデリケートである。その状況で政治的に一番叩きやすい対象は、過去に「自分たちの島」を殖民地として支配した、当時の日本当局なのであろう。いくら客観的に殖民地支配の歴史を評価する視点を持ったとしても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が主流となることはおそらくありえないだろう。
<p>
そのように、「自分たちの島」を称えれば称えるほど温度の差はあったとしてもマイナスの評価とならざるをえないのが、日本統治時代である。日本統治時代は、戦後の国民党による戒厳令時代と並んで、「台湾が本来の姿でなかった時代」として評価されるであろう。ただしかし、昔の日本当局は、現在まだここに続いて存在している国民党とは違って、完全に過去の歴史となった支配者である。だから、過去の国民党よりもずっと政治的に叩きやすい対象のはずだ。その状況があるにも関わらず、この芝山岩の公園で私が見た文物やその説明は、一方的な決め付けと破壊からは免れていた。いや、以前は一方的な決め付けと破壊の中にあった。それが1990年代以降に見直しがなされて、ある程度冷静な視点に立った上で歴史を残しながら批判しようとしている。そこに、過去を冷静に見据えざるをえなくなったこの島の言論の成熟を見てはいけないであろうか？台湾の言論においては、日本の統治政策がほとんどアナーキーに近かった清朝時代の台湾を高度な工業社会に作り変えたことは、もはや常識として語られているのである。
<p>
心配しなくても、この国が心底から反日になることは、おそらくないだろう。日本の文化がこれほどにも（一部の人が眉をひそめるまでに）好意的に受け入れられている事実を見れば、たとえ将来政治的な言葉上の物言いで何か反発があったとしても、現在の日本に対して何かと興味と関心を持つ人民の基調低音は変わりはしないと思う。もし真の意味でこの島の住民が反日となる日が来るとするならば、それは台湾人が常に感嘆して眺めてきた日本人の創造力のパワーがついに失われて、かつ日本人の最大の美徳である謙虚さを捨てて傲慢になってしまったときなのだ。政治的民族でも冒険家民族でもない、職人的民族の日本人がこれらの美徳を失ったら、一体何の美徳が残るのであろうか？もしそうなってしまった時には、その時こそ、この島の人々は日本を見限るであろう。
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870025.JPG"><img alt="12870025.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870025-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
打ち捨てられた石や鉄のベンチは、かつてここがにぎやかな神社であった時代の名残であろうか？公園の遊歩道の向こうにあって入れないので、おそらくここが公園として整備されたときに置かれたものではないだろう。芝山岩はこのぐらいにして、私は裏道から平地に降りていった。
<p>
<img alt="taipei009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei009.JPG" width="455" height="300" /><br /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30AM10:30</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 01:30:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
芝山岩の上で（２）



山の頂上に着いた。遠景にうっすら見えるのっぽのビルは、台北で二番目の高さの新光摩天大楼である。ここからTAIPEI101は、山の後ろに隠れて見えない。

だが「かなりきつい山道」という情報を聞いていたから少々身構えて登ったが、正直私の感想は、「これしきの山で大変だなどと言っていては、京都の伏見稲荷の参拝などとてもできないぞ？」と言っておこう。だいたいここはお宮さんなのだから、地元のオジイやオバアも参拝しているはずなのだし（実際していた）、何ほどの山道でもないはずだが？




これが、芝山巖惠濟宮の正面である。このお宮で祀られているのは、「開漳聖王」と道教の文昌帝君、そして仏教の観音菩薩だ。開漳聖王とは唐代の実在の人物、陳元光（657 &#8211; 711）のことで、福建省漳州に入ってその地の蛮族などを平定する功を立てたという。後世の漳州人たちにとって、神として信仰されるようになった。今の士林に当る八芝蘭に移り住んだ漳州人たちは、近くにある岩山を故郷の山にちなんで「芝山」と名付けて、山上に開漳聖王と観音菩薩を祀るほこらを建てた（1751年）。開漳聖王を祀るお宮を「惠濟宮」と言い、観音菩薩を祀るお宮を「芝山巖」と言う。これが、この芝山巖惠濟宮の始まりである。後に道教の神、文昌帝君もここに合祀されるようになった。



例によって華麗な装飾であるが、全体として保安宮のような繊細さには少々欠けると評価するべきであろうか。この廟そのものは何度も建て替え・修理が行なわれて、創建時そのままではない。

このお宮の裏に周り込む遊歩道が設けられている。政府が、歴史的文物を保存する公園として整備しているのである。私はそこに入っていった。



その中に、一つの日本式の墓が建てられている。これが、「六氏先生之墓」である。墓の表面は、まだ全然古びておらず、新しい。これは1995年に士林國民小學校百周年を記念して、校友会有志たちが敷地を整備し直して建てられたという。この士林國民小學校とは、台湾総督府主任学務部長伊澤修二が明治二十八（1895）年に六名の教師を含む学務部員をひき連れて渡台し、この芝山巖惠濟宮の裏手の建物を借りて始めた「芝山巖學堂」（しざんがんがくどう）の後身の学校なのである。そしてこの六名の教師が、この墓の主である「六氏先生」なのだ。

「六氏先生」― 楫取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の六名、加えて軍夫の小林清吉もいた ― は、渡台した翌月の七月にこの八芝蘭集落の隣の岩山に着任した。ここに、伊澤修二の下で台湾総督府学務部が開かれたのである。八芝蘭は台湾でも教育熱心な土地で、科挙の及第者をこれまでの歴史で多数輩出していた。芝山巖惠濟宮の中には、すでに地元民によって義塾も開かれていた。そのような教育熱心な気風のある土地だったから、伊澤たちも台湾人教育の橋頭堡としてふさわしいと考えてこの地を選んだのであろう。着任した教師たちは、早速現地の子弟への教育を開始した。最初は寺子屋のようなもので、生徒数は六、七人しかいなかったという。しかし年が明けた正月、事件が起った。伊澤はたまたま日本に帰っていて、教師と軍夫七名だけが居残っていた。そこに八芝蘭の人民が決起して彼らを襲撃したのである。伝わっている話によれば、彼らは人民に対して教育の意義を説得しようとしたが、通じずに皆殺しに会ったという。

どうして人民が教師たちを惨殺したのかの真実については、私はあえて憶測したりしないでおく。だが、この「芝山巖事件」がどのように理解されて、そしてどのように当局が評価したのかが、彼ら「六氏先生」の遺跡の取り扱いの歴史に大きく関わってきた。「六氏先生」の墓は現在ではこのようであるが、過去は全然違ったものであった。


十年ほど前に建てられた「六氏先生」の墓の奥に、今度はもっと歴史の古い石碑が保存されている。「學務官僚遭難之碑」とある。これは、伊藤博文の筆の石碑である。


こちらは、「故教育者姓名碑」である。かつての日本統治時代、これら「學務官僚遭難之碑」と「故教育者姓名碑」、並びにもう一つの石碑「台湾亡教育者招魂碑」の三つが、この芝山岩に並んで建てられていた（下図参照）。私が行った時には「故教育者姓名碑」の横に一枚の石碑がいまだ横倒しになって打ち捨てられていたが、わからないがそれがひょっとしたら「台湾亡教育者招魂碑」だったのかもしれない。



この芝山岩は、日本当局によって次第に現地教育の聖地として意義付けられていった。そうしてついに昭和五（1930）年に、「六氏先生」や台湾の故教育者たちを祀る「芝山巖祠」が建立されたのである。


戦争が終わって、全ては一変した。芝山巖祠は当然のように破壊され、石碑は引き倒された。逆にそれまで土匪の破壊活動として位置付けられてきた「芝山巖事件」の蜂起者たちが、反日抵抗の義士として顕彰されることとなった。上の写真は、戦後の民國四十八（1959）年にこの地に建てられた「芝山巖事件碑記」である。そこには義民たちが『謀った』のではなくて『奮起』して教職員楫取道明ら七人を殲滅して、来援に来た日本軍と応戦し、激怒した日本軍は士紳の潘光松ら六人を捕らえて殺害したと記されている。このような歴史評価の逆転の中で、「六氏先生」の墓もうち捨てられたままで、年月が流れたのである。

それが今、一部の石碑と共に、まがりなりにも公園の中で立っていることが許されているのである。私はこの後で「芝山巖祠」の跡地に作られた芝山公園雨農閲覧室に入って展示資料を読んだが、そこにはあくまでも日本統治時代を批判する市当局のスタンスが表現されていた。しかしたとえ彼らにとっては反面教師としての遺跡であっても、こうして歴史公園として整備して保存せざるをえなくなっている。私はこの事実から、この島の言論の自由の現状が、昔に比べてずっと悪くない地点に到っているのではないかという印象を受けた。当局が殖民地時代を一定評価する歴史観を持つようになったというよりはむしろ、反対意見や異論が封殺されずに一定の場を与えられているという事実がなければ、この公園のような現状はおそらく成り立たないであろう。


]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">芝山岩の上で（２）</font></h3>
<p></font></h3>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870012.JPG"><img alt="12870012.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870012-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
山の頂上に着いた。遠景にうっすら見えるのっぽのビルは、台北で二番目の高さの新光摩天大楼である。ここからTAIPEI101は、山の後ろに隠れて見えない。
<p>
だが「かなりきつい山道」という情報を聞いていたから少々身構えて登ったが、正直私の感想は、「これしきの山で大変だなどと言っていては、京都の伏見稲荷の参拝などとてもできないぞ？」と言っておこう。だいたいここはお宮さんなのだから、地元のオジイやオバアも参拝しているはずなのだし（実際していた）、何ほどの山道でもないはずだが？
<p></p>
<p><span id="more-25"></span><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870013.JPG"><img alt="12870013.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870013-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
これが、芝山巖惠濟宮の正面である。このお宮で祀られているのは、「開漳聖王」と道教の<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8C%E5%B8%9D%E5%90%9B">文昌帝君</a>、そして仏教の観音菩薩だ。<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%BC%B3%E8%81%96%E7%8E%8B">開漳聖王</a>とは唐代の実在の人物、陳元光（657 &#8211; 711）のことで、福建省漳州に入ってその地の蛮族などを平定する功を立てたという。後世の漳州人たちにとって、神として信仰されるようになった。今の士林に当る八芝蘭に移り住んだ漳州人たちは、近くにある岩山を故郷の山にちなんで「芝山」と名付けて、山上に開漳聖王と観音菩薩を祀るほこらを建てた（1751年）。開漳聖王を祀るお宮を「惠濟宮」と言い、観音菩薩を祀るお宮を「芝山巖」と言う。これが、この芝山巖惠濟宮の始まりである。後に道教の神、文昌帝君もここに合祀されるようになった。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870014.JPG"><img alt="12870013.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870014-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
例によって華麗な装飾であるが、全体として保安宮のような繊細さには少々欠けると評価するべきであろうか。この廟そのものは何度も建て替え・修理が行なわれて、創建時そのままではない。
<p>
このお宮の裏に周り込む遊歩道が設けられている。政府が、歴史的文物を保存する公園として整備しているのである。私はそこに入っていった。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870015.JPG"><img alt="12870015.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870015-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
その中に、一つの日本式の墓が建てられている。これが、「六氏先生之墓」である。墓の表面は、まだ全然古びておらず、新しい。これは1995年に士林國民小學校百周年を記念して、校友会有志たちが敷地を整備し直して建てられたという。この士林國民小學校とは、台湾総督府主任学務部長伊澤修二が明治二十八（1895）年に六名の教師を含む学務部員をひき連れて渡台し、この芝山巖惠濟宮の裏手の建物を借りて始めた「芝山巖學堂」（しざんがんがくどう）の後身の学校なのである。そしてこの六名の教師が、この墓の主である「六氏先生」なのだ。
<p>
「六氏先生」― 楫取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の六名、加えて軍夫の小林清吉もいた ― は、渡台した翌月の七月にこの八芝蘭集落の隣の岩山に着任した。ここに、伊澤修二の下で台湾総督府学務部が開かれたのである。八芝蘭は台湾でも教育熱心な土地で、科挙の及第者をこれまでの歴史で多数輩出していた。芝山巖惠濟宮の中には、すでに地元民によって義塾も開かれていた。そのような教育熱心な気風のある土地だったから、伊澤たちも台湾人教育の橋頭堡としてふさわしいと考えてこの地を選んだのであろう。着任した教師たちは、早速現地の子弟への教育を開始した。最初は寺子屋のようなもので、生徒数は六、七人しかいなかったという。しかし年が明けた正月、事件が起った。伊澤はたまたま日本に帰っていて、教師と軍夫七名だけが居残っていた。そこに八芝蘭の人民が決起して彼らを襲撃したのである。伝わっている話によれば、彼らは人民に対して教育の意義を説得しようとしたが、通じずに皆殺しに会ったという。
<p>
どうして人民が教師たちを惨殺したのかの真実については、私はあえて憶測したりしないでおく。だが、この「芝山巖事件」がどのように理解されて、そしてどのように当局が評価したのかが、彼ら「六氏先生」の遺跡の取り扱いの歴史に大きく関わってきた。「六氏先生」の墓は現在ではこのようであるが、過去は全然違ったものであった。
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870022.JPG"><img alt="12870022.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870022-thumb.JPG" width="114" height="200" /></a>
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十年ほど前に建てられた「六氏先生」の墓の奥に、今度はもっと歴史の古い石碑が保存されている。「學務官僚遭難之碑」とある。これは、伊藤博文の筆の石碑である。
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870024.JPG"><img alt="12870024.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870024-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
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こちらは、「故教育者姓名碑」である。かつての日本統治時代、これら「學務官僚遭難之碑」と「故教育者姓名碑」、並びにもう一つの石碑「台湾亡教育者招魂碑」の三つが、この芝山岩に並んで建てられていた（下図参照）。私が行った時には「故教育者姓名碑」の横に一枚の石碑がいまだ横倒しになって打ち捨てられていたが、わからないがそれがひょっとしたら「台湾亡教育者招魂碑」だったのかもしれない。
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<img alt="shizan.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/shizan.JPG" width="350" height="200" /></p>
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この芝山岩は、日本当局によって次第に現地教育の聖地として意義付けられていった。そうしてついに昭和五（1930）年に、「六氏先生」や台湾の故教育者たちを祀る「芝山巖祠」が建立されたのである。
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870026.JPG"><img alt="12870026.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870026-thumb.JPG" width="114" height="200" /></a>
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戦争が終わって、全ては一変した。芝山巖祠は当然のように破壊され、石碑は引き倒された。逆にそれまで土匪の破壊活動として位置付けられてきた「芝山巖事件」の蜂起者たちが、反日抵抗の義士として顕彰されることとなった。上の写真は、戦後の民國四十八（1959）年にこの地に建てられた「芝山巖事件碑記」である。そこには義民たちが『謀った』のではなくて『奮起』して教職員楫取道明ら七人を殲滅して、来援に来た日本軍と応戦し、激怒した日本軍は士紳の潘光松ら六人を捕らえて殺害したと記されている。このような歴史評価の逆転の中で、「六氏先生」の墓もうち捨てられたままで、年月が流れたのである。
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それが今、一部の石碑と共に、まがりなりにも公園の中で立っていることが許されているのである。私はこの後で「芝山巖祠」の跡地に作られた芝山公園雨農閲覧室に入って展示資料を読んだが、そこにはあくまでも日本統治時代を批判する市当局のスタンスが表現されていた。しかしたとえ彼らにとっては反面教師としての遺跡であっても、こうして歴史公園として整備して保存せざるをえなくなっている。私はこの事実から、この島の言論の自由の現状が、昔に比べてずっと悪くない地点に到っているのではないかという印象を受けた。当局が殖民地時代を一定評価する歴史観を持つようになったというよりはむしろ、反対意見や異論が封殺されずに一定の場を与えられているという事実がなければ、この公園のような現状はおそらく成り立たないであろう。</p>
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<img alt="taipei009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei009.JPG" width="455" height="300" /><br /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30AM10:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 01:00:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
芝山岩の上で（１）



MRT（地下鉄）淡水線は、途中から地上に出て高架を走っていく。郊外の淡水まで走る相当に長い線だ。途中の車窓から、超高級ホテルの圓山大飯店（ユァンシャンダーファンディエン、英名&#8221;The Grand Hotel&#8221;）が見える。中華宮殿風の大建築で、とにかく目立つ。蒋介石が外国の賓客を迎えるホテルが台北にないことを憂慮したので、宋美齢（ソンメイリン）夫人の提案によって建てられた。明治日本の鹿鳴館と同じで、しょせんは外の目に向けて作られた、浮世離れした建築物である。


芝山（チーシャン）駅で降りた。ここから東に少し歩くと、芝山岩（チーシャンヤン）と呼ばれる岩山が平地から突き出ている。この山の頂上には、現在芝山巖惠濟宮（チーシャンヤンフィジーゴン）、略して惠濟宮（フィジーゴン）という仏教・道教習合の寺院がある。しかしながら、この大して高くはないが結構急峻な岩山は、台湾の歴史上においてもう二つの重要な役割をかつて果たしていた。一つは、十九世紀の「泉&#28467;械闘」の中で、士林に入植していた&#28467;州人たちが泉州人の攻撃から身を守るために築いた「芝山岩」砦として。もう一つは、日本統治開始直後の1895年（明治二十八年）に台湾総督府主任学務部長に任じられた伊澤修二（1851 &#8211; 1917）が、惠濟宮の裏手の敷地に日本語教育のための「芝山巖學堂」（しざんがんがくどう）を開いた土地としてである。そしてやがて述べる「六氏先生」の殉教の後を受けて、1930年（昭和五年）に彼らを祀る芝山巖祠（しざんがんし）が建立された土地としてである。



今は何の変哲もない郊外の町並みを歩いていくと、「雨聲街」という名前の通りに入った。「雨の聲（こえ）の街」。大陸中国にこのような都市名があるのだろうか。これまで台北の街を歩いてきて、これほどまでに詩的なネーミングの通りに出会ったのは、初めてだった。



芝山岩の、ふもとにやって来た。赤いぼんぼりを連ねた、台湾の寺院らしいにぎにぎしさだ。延々と階段が続いている。しかし、脚の力だけには自信がある私だから、気にもかけずに登り始めた。



階段を登ると間もなく、石を積み上げて造った城壁をくぐり抜けた。これが、&#28467;州人が築いた芝山岩の砦の門の跡である。



この「芝山岩隘門」は、元来山の東西南北にあった四つの門のうち、唯一残った西門である。清の道光五年（1852）に造られたという。「女牆」という凸型の構造も作られている、本格的な防御用の城壁である。敵が東西南北の通り道から侵入してきたときには、この門を閉じて、「女牆」の隙間から矢・鉄砲や石を下で門を破ろうとする敵に浴びせ掛ける。相手に持久戦による兵糧攻めの用意がなければ（そして械闘だから、たぶんそんな用意はないだろうから）、これで防御は万全であろう。民間の集落がこのような防御施設を作れるとは、まさしく十九世紀の台湾は日本の戦国時代さながらだったと言うしかない。



ヨーロッパの歴史でも、ヨーロッパの外に出向いていったイギリス・フランス・オランダ・スペインの殖民者たちは、互いに激しい戦いを繰り返した。それは、互いが外国だったからだ。ならば十九世紀にこの台湾に殖民して来て激しい戦いを繰り返した泉州人と&#28467;州人は、互いに外国人だったということであろうか。おそらく、そうだったのであろう。しかしながら、大陸に帰れば泉州も&#28467;州も同じ清帝国の地方行政単位である福建省の一州であり、そして泉州人も&#28467;州人も、同じく清帝国皇帝の臣民であった。このように中華帝国は、人民が実感している「仲間」意識の範囲と公式の「国家」の版図とが、大きく開いている政治体であった。十九世紀になっても同じ国の同じ省の人間たちがいまだに殺し合いの戦いを続けていたというのは、その行政単位が住民の実感といかに違っていたかの証拠ではないだろうか。

中華帝国の傘の下にあった各地域にとってある意味で不幸だったのは、「科挙」という素晴らしいシステムが存在していたことだ。北宋時代（10C～12C）に早くも完成した科挙は、前近代的帝国のシステムの枠内で人材を中央にリクルートするための、最も素晴らしく整備された制度であった。中華帝国は、科挙のシステムによって各地方で人より前に出ようとする欲と頭脳を持った人間たちを地方から引っこ抜くことに成功した。人間という存在には、名誉欲、出世欲、支配欲という厄介な欲が、残念ながら（？）間違いなく存在している。そのような人間どもの欲を、帝国に最も都合のよい形で満足させてやること。ありていに言えば、科挙の本当の意義はそこにあったのだ。結果、帝国の版図から言えば小さなシミの一点のようなものに過ぎない北京の官場に、天下の欲と能力を持った人材たちは全て引き寄せられてしまった。そうして地方には、習俗も言葉も地元民とは違うバックグラウンドで育ったどこかの土地出身の官僚を、代りに派遣する。こうして、広大な版図でも人材が分散して割拠することを防いだのだ。

中華帝国のそのようなシステムは、確かに安定には役に立った。だが、各地方の有為な人材を全て中央に引っこ抜いてしまうことによって、それぞれの地方が本来持っている自律意識を下から「国家」として組織化する道をふさいでしまったのではないだろうか。十九世紀の台湾で起った数々の「械闘」は、私闘の形で暴発し続けた、人民たちの生の自律意識であったのだろう。


]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">芝山岩の上で（１）</font></h3>
<p></font></h3>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005.JPG"><img alt="12870005.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
MRT（地下鉄）淡水線は、途中から地上に出て高架を走っていく。郊外の淡水まで走る相当に長い線だ。途中の車窓から、超高級ホテルの圓山大飯店（ユァンシャンダーファンディエン、英名&#8221;The Grand Hotel&#8221;）が見える。中華宮殿風の大建築で、とにかく目立つ。蒋介石が外国の賓客を迎えるホテルが台北にないことを憂慮したので、宋美齢（ソンメイリン）夫人の提案によって建てられた。明治日本の鹿鳴館と同じで、しょせんは外の目に向けて作られた、浮世離れした建築物である。
<p></p>
<p><span id="more-24"></span><br />
芝山（チーシャン）駅で降りた。ここから東に少し歩くと、芝山岩（チーシャンヤン）と呼ばれる岩山が平地から突き出ている。この山の頂上には、現在芝山巖惠濟宮（チーシャンヤンフィジーゴン）、略して惠濟宮（フィジーゴン）という仏教・道教習合の寺院がある。しかしながら、この大して高くはないが結構急峻な岩山は、台湾の歴史上においてもう二つの重要な役割をかつて果たしていた。一つは、十九世紀の「<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%B3%E6%B3%89%E6%A2%B0%E9%AC%A5">泉&#28467;械闘</a>」の中で、士林に入植していた&#28467;州人たちが泉州人の攻撃から身を守るために築いた「芝山岩」砦として。もう一つは、日本統治開始直後の1895年（明治二十八年）に台湾総督府主任学務部長に任じられた伊澤修二（1851 &#8211; 1917）が、惠濟宮の裏手の敷地に日本語教育のための「芝山巖學堂」（しざんがんがくどう）を開いた土地としてである。そしてやがて述べる「六氏先生」の殉教の後を受けて、1930年（昭和五年）に彼らを祀る芝山巖祠（しざんがんし）が建立された土地としてである。
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870006.JPG"><img alt="12870006.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870006-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
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今は何の変哲もない郊外の町並みを歩いていくと、「雨聲街」という名前の通りに入った。「雨の聲（こえ）の街」。大陸中国にこのような都市名があるのだろうか。これまで台北の街を歩いてきて、これほどまでに詩的なネーミングの通りに出会ったのは、初めてだった。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870007.JPG"><img alt="12870007.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870007-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
芝山岩の、ふもとにやって来た。赤いぼんぼりを連ねた、台湾の寺院らしいにぎにぎしさだ。延々と階段が続いている。しかし、脚の力だけには自信がある私だから、気にもかけずに登り始めた。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870008.JPG"><img alt="12870008.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870008-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
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階段を登ると間もなく、石を積み上げて造った城壁をくぐり抜けた。これが、&#28467;州人が築いた芝山岩の砦の門の跡である。
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870009.JPG"><img alt="12870009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870009-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
この「芝山岩隘門」は、元来山の東西南北にあった四つの門のうち、唯一残った西門である。清の道光五年（1852）に造られたという。「女牆」という凸型の構造も作られている、本格的な防御用の城壁である。敵が東西南北の通り道から侵入してきたときには、この門を閉じて、「女牆」の隙間から矢・鉄砲や石を下で門を破ろうとする敵に浴びせ掛ける。相手に持久戦による兵糧攻めの用意がなければ（そして械闘だから、たぶんそんな用意はないだろうから）、これで防御は万全であろう。民間の集落がこのような防御施設を作れるとは、まさしく十九世紀の台湾は日本の戦国時代さながらだったと言うしかない。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870010.JPG"><img alt="12870010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870010-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
ヨーロッパの歴史でも、ヨーロッパの外に出向いていったイギリス・フランス・オランダ・スペインの殖民者たちは、互いに激しい戦いを繰り返した。それは、互いが外国だったからだ。ならば十九世紀にこの台湾に殖民して来て激しい戦いを繰り返した泉州人と&#28467;州人は、互いに外国人だったということであろうか。おそらく、そうだったのであろう。しかしながら、大陸に帰れば泉州も&#28467;州も同じ清帝国の地方行政単位である福建省の一州であり、そして泉州人も&#28467;州人も、同じく清帝国皇帝の臣民であった。このように中華帝国は、人民が実感している「仲間」意識の範囲と公式の「国家」の版図とが、大きく開いている政治体であった。十九世紀になっても同じ国の同じ省の人間たちがいまだに殺し合いの戦いを続けていたというのは、その行政単位が住民の実感といかに違っていたかの証拠ではないだろうか。
<p>
中華帝国の傘の下にあった各地域にとってある意味で不幸だったのは、「科挙」という素晴らしいシステムが存在していたことだ。北宋時代（10C～12C）に早くも完成した科挙は、前近代的帝国のシステムの枠内で人材を中央にリクルートするための、最も素晴らしく整備された制度であった。中華帝国は、科挙のシステムによって各地方で人より前に出ようとする欲と頭脳を持った人間たちを地方から引っこ抜くことに成功した。人間という存在には、名誉欲、出世欲、支配欲という厄介な欲が、残念ながら（？）間違いなく存在している。そのような人間どもの欲を、帝国に最も都合のよい形で満足させてやること。ありていに言えば、科挙の本当の意義はそこにあったのだ。結果、帝国の版図から言えば小さなシミの一点のようなものに過ぎない北京の官場に、天下の欲と能力を持った人材たちは全て引き寄せられてしまった。そうして地方には、習俗も言葉も地元民とは違うバックグラウンドで育ったどこかの土地出身の官僚を、代りに派遣する。こうして、広大な版図でも人材が分散して割拠することを防いだのだ。
<p>
中華帝国のそのようなシステムは、確かに安定には役に立った。だが、各地方の有為な人材を全て中央に引っこ抜いてしまうことによって、それぞれの地方が本来持っている自律意識を下から「国家」として組織化する道をふさいでしまったのではないだろうか。十九世紀の台湾で起った数々の「械闘」は、私闘の形で暴発し続けた、人民たちの生の自律意識であったのだろう。</p>
<p>
<img alt="taipei009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei009.JPG" width="455" height="300" /><br /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30AM09:00</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 00:00:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[
&#29295;嶺街（２）



ふつうの中国的な赤レンガの塀の向こうに、入母屋（いりもや）の屋根瓦が見える。おそらく最近になって模倣して作られたものではない、戦前の本物の日本式住宅だ。




赤レンガの塀は、戦後に築かれたものであろうか。日本建築には、もともとレンガすなわち漢語の「&#22652;」（チュアン）を使うという発想がない。明治時代になって西洋建築を知ってから、模倣し始めた。しかしながら、高温多湿の日本では、窓が小さくて空気の滞留するレンガ建築は不適である。それに地震が来れば、ぞんざいなレンガ造りの家はすぐに壊れて、その多大な重量で中の人間は簡単に圧死する。イランやパキスタンで頻発する惨事を見ると、よくわかる。だから日本ではレンガ建築は必然的に広まらなかった。しかしだからと言って、日本の伝統的な住居建築　―　木造で床下を通し、そして壁の代りに大胆に障子やふすまを使う、骨と薄皮だけのような住居　―　が、日本本土の気候にすばらしくマッチしているのかと問えば、必ずしもそうとは言えない。日本本土は、夏は暑くて、しかも冬はかなり寒い。日本式住宅は、冬の寒さを快適にしのぐためにはとても不十分である。あちこちに隙間があって冷風が入り込むし、床の下は寒気の通り抜けとなって底冷えする。火鉢のような気休め程度の暖房器では、部屋全体が温かくならない。だから、日本人は冬にひたすらヤセ我慢する性分となったのである。日本人の過剰なまでの我慢好きは、冬の室内の寒さをしのぐ方法がないところから発生したのだと言えば、ちょっと唯物論的な決定論になってしまうだろうか？


だから、日本式住宅は、この台湾のような冬でもわりあい温かい南の土地で最適なはずなのだ。北に行けば行くほど、不都合が多くなっていく。幕末、幕府は東北諸藩に蝦夷地（北海道）の警備を命じたが、蝦夷地に赴いた者たちの多数が短期間に病死してしまった。理由は、各藩の建てた陣屋が本土と同じような板張り建築で、蝦夷地の寒さにとても耐えられる代物ではなかったからである。明治初年の屯田兵の兵舎もまた、似たようなものだったという（司馬遼太郎『街道をゆく　北海道の諸道』より）。北海道では日本式建築は捨てられるべき運命にあったが、台湾ではこうして今でも使用に耐えている。&#29295;嶺街の日本式建築は、この土地に残った、外来種の残存個体たちである。もはや新生児が生まれることもなくて滅んでいく運命なのであるが、風土と合っていたから老体たちがゆっくりと死んでいくことが許されていると言えるだろうか。



もう、崩壊が始まっている。破れた屋根の中に、引き出しのふすまが見える。どうやら部屋の間仕切りには、ふすま壁でなくて&#22652;を使っているようだ。








中に、洋風建築が混じっていた。日本式の建物が古びてずだぼろなのに対して、こちらはよく手入れがされて今でも瀟洒な雰囲気を保っている。かつてのトップクラスの官僚の邸宅であろうか。それとも、戦後に有力者が建て替えたのであろうか。



&#29295;嶺街の南、和平西路に出る寸前の辺りの両脇に固まっているこの地区は、台北のにぎやかさから遠く離れた、真夏の静けさが漂っていた。響くクマゼミの鳴き声が、よく風景に似合っている。



このような風景は、台湾中に今でもかなり残っているのだろう。何せ五十年間も日本領であった歴史がある土地なのだ。私は、この日本統治時代に日本人居住区であった中正区を離れて、日本が来る前に福建&#28467;州人の部落があった北の士林（シーリン）に向った。


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			<content:encoded><![CDATA[<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">&#29295;嶺街（２）</font></h3>
<p></font></h3>
<p><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860036.JPG"><img alt="12860036.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860036-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
ふつうの中国的な赤レンガの塀の向こうに、入母屋（いりもや）の屋根瓦が見える。おそらく最近になって模倣して作られたものではない、戦前の本物の日本式住宅だ。
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<p><span id="more-23"></span><br />
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860037.JPG"><img alt="12860037.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860037-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
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赤レンガの塀は、戦後に築かれたものであろうか。日本建築には、もともとレンガすなわち漢語の「&#22652;」（チュアン）を使うという発想がない。明治時代になって西洋建築を知ってから、模倣し始めた。しかしながら、高温多湿の日本では、窓が小さくて空気の滞留するレンガ建築は不適である。それに地震が来れば、ぞんざいなレンガ造りの家はすぐに壊れて、その多大な重量で中の人間は簡単に圧死する。イランやパキスタンで頻発する惨事を見ると、よくわかる。だから日本ではレンガ建築は必然的に広まらなかった。しかしだからと言って、日本の伝統的な住居建築　―　木造で床下を通し、そして壁の代りに大胆に障子やふすまを使う、骨と薄皮だけのような住居　―　が、日本本土の気候にすばらしくマッチしているのかと問えば、必ずしもそうとは言えない。日本本土は、夏は暑くて、しかも冬はかなり寒い。日本式住宅は、冬の寒さを快適にしのぐためにはとても不十分である。あちこちに隙間があって冷風が入り込むし、床の下は寒気の通り抜けとなって底冷えする。火鉢のような気休め程度の暖房器では、部屋全体が温かくならない。だから、日本人は冬にひたすらヤセ我慢する性分となったのである。日本人の過剰なまでの我慢好きは、冬の室内の寒さをしのぐ方法がないところから発生したのだと言えば、ちょっと唯物論的な決定論になってしまうだろうか？
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860038.JPG"><img alt="12860038.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860038-thumb.JPG" width="114" height="200"  align="left" vspace="5" hspace="15"></a><br />
だから、日本式住宅は、この台湾のような冬でもわりあい温かい南の土地で最適なはずなのだ。北に行けば行くほど、不都合が多くなっていく。幕末、幕府は東北諸藩に蝦夷地（北海道）の警備を命じたが、蝦夷地に赴いた者たちの多数が短期間に病死してしまった。理由は、各藩の建てた陣屋が本土と同じような板張り建築で、蝦夷地の寒さにとても耐えられる代物ではなかったからである。明治初年の屯田兵の兵舎もまた、似たようなものだったという（司馬遼太郎『街道をゆく　北海道の諸道』より）。北海道では日本式建築は捨てられるべき運命にあったが、台湾ではこうして今でも使用に耐えている。&#29295;嶺街の日本式建築は、この土地に残った、外来種の残存個体たちである。もはや新生児が生まれることもなくて滅んでいく運命なのであるが、風土と合っていたから老体たちがゆっくりと死んでいくことが許されていると言えるだろうか。
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860039.JPG"><img alt="12860039.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860039-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
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もう、崩壊が始まっている。破れた屋根の中に、引き出しのふすまが見える。どうやら部屋の間仕切りには、ふすま壁でなくて&#22652;を使っているようだ。
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<table>
<tr>
<td width="220">
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860040.JPG"><img alt="12860040.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860040-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></td>
<td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870001.JPG"><img alt="12870001.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870001-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></td>
</tr>
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<p>中に、洋風建築が混じっていた。日本式の建物が古びてずだぼろなのに対して、こちらはよく手入れがされて今でも瀟洒な雰囲気を保っている。かつてのトップクラスの官僚の邸宅であろうか。それとも、戦後に有力者が建て替えたのであろうか。
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870002.JPG"><img alt="12870002.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870002-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
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&#29295;嶺街の南、和平西路に出る寸前の辺りの両脇に固まっているこの地区は、台北のにぎやかさから遠く離れた、真夏の静けさが漂っていた。響くクマゼミの鳴き声が、よく風景に似合っている。
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<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870003.JPG"><img alt="12870003.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870003-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
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このような風景は、台湾中に今でもかなり残っているのだろう。何せ五十年間も日本領であった歴史がある土地なのだ。私は、この日本統治時代に日本人居住区であった中正区を離れて、日本が来る前に福建&#28467;州人の部落があった北の士林（シーリン）に向った。</p>
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<img alt="taipei008.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei008.JPG" width="455" height="300" /><br /></p>
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		<title>台北四十八時間 06/06/30AM08:00</title>
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		<pubDate>Thu, 29 Jun 2006 23:00:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[

&#29295;嶺街（１）

二日目も早々に起きる。昨日と同じく、ホテルの地下でバイキング形式の朝食。この一日も、市内と郊外中心に回ろうと思った。故宮博物院は、しっかり内容を見る気力があれば行くことにしよう。

朝のMRT（地下鉄）西門駅に出て、地下鉄で古亭（クーティン）駅に出た。今日はここから&#8221;Go spazielen&#8220;を始めることにする。まずは、駅のスタンド売り場で、柳丁（オレンジ）の生ジュースを飲んで気力をつけた。



この駅から和平西路を西に行くと、&#29295;嶺街（クーリンジェ）の入り口に出る。この地区は総統府（旧台湾総督府）の南に位置して、日本統治時代に日本人の居住区であった。事前にこの地区について詳しく調べていたわけではなかったが、何となく「&#29295;嶺」（大陸の名山、廬山の中の一地区）という風情のある名称が気にかかって、あえて足を運んだまでだ。



これは、、、？通りに面した超高級マンションの名前である。「元大欽品」とある。日本でも有名なスターの周杰倫（ジェイ・チョウ）もここに一室持っているとか。しかし私は台湾スターの追っかけをしにここに来たのではなくて、調べてみるとどうやらこのマンションの建っている敷地は、戦後に国民党の領袖の一人、何応欽（かおうきん、ホーインチン）の邸宅があったらしいのだ。
何応欽(1890年4月2日-1987年10月21日)、字は敬之、貴州興義の人。国民党陸軍一級上将。黄埔軍官学校総教官、軍事委員会參謀総長、國民政府行政院長を歴任する。

1901年、貴州陸軍小学校に入学。後に武昌陸軍中学に入学する。1908年日本に行く。初め振武学校（清朝の軍官学校）に入っていたが、後に陸軍士官学校に第十一期生として入学。同時に「中国同盟会」（1905年東京で結成された、反清革命秘密結社。総理は孫文、副総理は黄興）に加入。1916年中国に戻る。1924年黄埔軍官学校総教官に任命される。北伐時期、国民革命軍第一軍軍長であり、潮梅警備司令を兼任。広東・潮州・梅州を経由して、福建を平定。その後、東路総指揮に任じられて浙江に入る。1927年、寧漢分裂（北伐時期に南京の蒋介石と武漢の汪兆銘が分裂して政府を建てた事件。結果は共産党員を粛清して財界と外国の支持を得た蒋介石の勝利となる）時期には龍潭で孫伝芳を大破して、その後に全軍総司令部総参謀長に転任。1929年、海陸空軍総参謀長に任命。1930年、国民政府軍政部長に任命。これから後、何度も軍事委員会行営主任に任じられて、「剿匪」（共産党撲滅作戦）の前線指揮を担当する。何應欽は九・一八事変（1931年9月18日の満州事変）の後、日本と華北問題について交渉し、塘沽（タンクー）協定（1933）と梅津・何応欽協定（1935。いずれも、国民党軍を河北省から撤退させるという協定。実力で日本に勝てないと判断していた蒋介石の意向による、宥和外交の結果である）の調印の責任者となった。

西安事変（1936年、張学良らが蒋介石を西安で監禁して国共合作・抗日統一戦線の結成を要求した事件）の時、何応欽は暫定的に総司令代行となって、張学良の武力討伐を主張した。日中戦争の爆発後、第四戦区司令長官、軍事委員会参謀総長などの職を兼任。1944年11月以降、連合国中国戦区中国陸軍総司令、重慶野戦司令部主任を担当。1948年、白崇禧の後任として国防部長となり、1949年、李宗仁が（蒋介石に代わって）総統を後任した下では、行政院長に任じられる。1949年台湾に行き、総統府戦略顧問委員会主任委員を死去の直前まで担当する。1982年、三民主義統一中国大同盟首任会長に選出される。

（漢語版Wikipediaより）

蒋介石と同じく日本の陸軍士官学校に入学し、そこで同じく中国同盟会に参加した。中国に帰って、広州の黄埔軍官学校では蒋介石が校長、何応欽が総教官であった。彼はまさしく蒋介石と同じ釜の飯を食い続けた盟友であり、国共内戦敗北後は同じくこの台湾に落ち延びて余生を過ごしたのであった。もっともその盟友関係も、裏に回れば相当にドロドロした内容のものであったようだが。ただしWikipediaの記事では西安事変のときに張学良討伐を主張した（そして蒋介石の助命を最優先してほしいという、蒋介石夫人の宋美齢の嘆願をはねつけたという）と書かれているが、これにはどうやら異説があるようだ。彼は政治家としては蒋介石の後塵を拝する役目であったが、軍人としては蒋介石などよりずっと優秀であったと評価されている。台湾に渡り、蒋介石よりも長く生き続けた。

この何応欽や、閻錫山（1883 &#8211; 1960）、白崇禧（1893 &#8211; 1966）といった戦前中国史の重要人物たちが、国共内戦敗北後に大挙してこの台湾に詰め掛けた。共産党政権下では生きられない面々が、呉越同舟でこの小さな島に乗り込んだのである。彼らにとってこの島は「仮の宿」であったから、彼らの目の黒いうちはあくまでも「大陸反攻」「毋忘在莒」（「莒（きょ）にいることを忘れるな」。戦国時代、燕国に国のほとんどを占領された斉国が、わずかに残った莒などの都市から名将田単（でんたん）の用兵によって国土を回復した故事のことを言っている。蒋介石の筆によるこの句の石碑が、大陸沿岸に残された中華民国領土である金門島に建てられている）であった。

こののどかな台湾で、梅津・何応欽協定の当事者である日中戦争史の登場人物の一人が1980年代まで健在であったというのは、痛烈な歴史だ。西安事変の張学良も、蒋介石への反逆者として戦後台北郊外にずっと軟禁され続けていた（1990年に軟禁から解かれ、95年にアメリカに移住して、2001年その地で死去）。だが大陸からの移住世代は大方この世にいなくなり、その二世、三世らはもはやこの島を「仮の宿り」などとはおそらく少しも思っていないであろう。時間は歴史の確執を、血を流す対決から政治のゲームの上での競争に作り変えるまでに消化したのだ。いや、この島のために、そのようであってほしいと願う。



マンションの遠景。下に、他の街では見かけない、黒い瓦屋根が見える。日本式住宅である。この&#29295;嶺街の南辺の地区には、思ったより多くの日本式住宅が今でも残っていた。私は、その地区に立ち止まって観察を続けた。


]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="formosa.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/formosa.JPG" width="120" height="144" align="right" vspace="5" hspace="15"></p>
<h3><font color="#c9364d"><br />
<h3><font color="#c9364d">&#29295;嶺街（１）</font></h3>
<p></font></h3>
<p>二日目も早々に起きる。昨日と同じく、ホテルの地下でバイキング形式の朝食。この一日も、市内と郊外中心に回ろうと思った。故宮博物院は、しっかり内容を見る気力があれば行くことにしよう。</p>
<p><span id="more-22"></span><br />
朝のMRT（地下鉄）西門駅に出て、地下鉄で古亭（クーティン）駅に出た。今日はここから&#8221;Go <em>spazielen</em>&#8220;を始めることにする。まずは、駅のスタンド売り場で、柳丁（オレンジ）の生ジュースを飲んで気力をつけた。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860030.JPG"><img alt="12860030.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860030-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a></p>
<p>
この駅から和平西路を西に行くと、&#29295;嶺街（クーリンジェ）の入り口に出る。この地区は総統府（旧台湾総督府）の南に位置して、日本統治時代に日本人の居住区であった。事前にこの地区について詳しく調べていたわけではなかったが、何となく「&#29295;嶺」（大陸の名山、廬山の中の一地区）という風情のある名称が気にかかって、あえて足を運んだまでだ。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860032.JPG"><img alt="12860032.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860032-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
これは、、、？通りに面した超高級マンションの名前である。「元大欽品」とある。日本でも有名なスターの周杰倫（ジェイ・チョウ）もここに一室持っているとか。しかし私は台湾スターの追っかけをしにここに来たのではなくて、調べてみるとどうやらこのマンションの建っている敷地は、戦後に国民党の領袖の一人、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E6%87%89%E6%AC%BD">何応欽</a>（かおうきん、ホーインチン）の邸宅があったらしいのだ。<br />
<blockquote><p>何応欽(1890年4月2日-1987年10月21日)、字は敬之、貴州興義の人。国民党陸軍一級上将。黄埔軍官学校総教官、軍事委員会參謀総長、國民政府行政院長を歴任する。
<p>
1901年、貴州陸軍小学校に入学。後に武昌陸軍中学に入学する。1908年日本に行く。初め振武学校（清朝の軍官学校）に入っていたが、後に陸軍士官学校に第十一期生として入学。同時に「中国同盟会」（1905年東京で結成された、反清革命秘密結社。総理は孫文、副総理は黄興）に加入。1916年中国に戻る。1924年黄埔軍官学校総教官に任命される。北伐時期、国民革命軍第一軍軍長であり、潮梅警備司令を兼任。広東・潮州・梅州を経由して、福建を平定。その後、東路総指揮に任じられて浙江に入る。1927年、寧漢分裂（北伐時期に南京の蒋介石と武漢の汪兆銘が分裂して政府を建てた事件。結果は共産党員を粛清して財界と外国の支持を得た蒋介石の勝利となる）時期には龍潭で孫伝芳を大破して、その後に全軍総司令部総参謀長に転任。1929年、海陸空軍総参謀長に任命。1930年、国民政府軍政部長に任命。これから後、何度も軍事委員会行営主任に任じられて、「剿匪」（共産党撲滅作戦）の前線指揮を担当する。何應欽は九・一八事変（1931年9月18日の満州事変）の後、日本と華北問題について交渉し、塘沽（タンクー）協定（1933）と梅津・何応欽協定（1935。いずれも、国民党軍を河北省から撤退させるという協定。実力で日本に勝てないと判断していた蒋介石の意向による、宥和外交の結果である）の調印の責任者となった。
<p>
西安事変（1936年、張学良らが蒋介石を西安で監禁して国共合作・抗日統一戦線の結成を要求した事件）の時、何応欽は暫定的に総司令代行となって、張学良の武力討伐を主張した。日中戦争の爆発後、第四戦区司令長官、軍事委員会参謀総長などの職を兼任。1944年11月以降、連合国中国戦区中国陸軍総司令、重慶野戦司令部主任を担当。1948年、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B4%87%E7%A6%A7">白崇禧</a>の後任として国防部長となり、1949年、<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E4%BB%81">李宗仁</a>が（蒋介石に代わって）総統を後任した下では、行政院長に任じられる。1949年台湾に行き、総統府戦略顧問委員会主任委員を死去の直前まで担当する。1982年、三民主義統一中国大同盟首任会長に選出される。
<p>
（漢語版Wikipediaより）</p></blockquote>
<p>
蒋介石と同じく日本の陸軍士官学校に入学し、そこで同じく中国同盟会に参加した。中国に帰って、広州の黄埔軍官学校では蒋介石が校長、何応欽が総教官であった。彼はまさしく蒋介石と同じ釜の飯を食い続けた盟友であり、国共内戦敗北後は同じくこの台湾に落ち延びて余生を過ごしたのであった。もっともその盟友関係も、裏に回れば相当にドロドロした内容のものであったようだが。ただしWikipediaの記事では西安事変のときに張学良討伐を主張した（そして蒋介石の助命を最優先してほしいという、蒋介石夫人の宋美齢の嘆願をはねつけたという）と書かれているが、これにはどうやら異説があるようだ。彼は政治家としては蒋介石の後塵を拝する役目であったが、軍人としては蒋介石などよりずっと優秀であったと評価されている。台湾に渡り、蒋介石よりも長く生き続けた。
<p>
この何応欽や、閻錫山（1883 &#8211; 1960）、白崇禧（1893 &#8211; 1966）といった戦前中国史の重要人物たちが、国共内戦敗北後に大挙してこの台湾に詰め掛けた。共産党政権下では生きられない面々が、呉越同舟でこの小さな島に乗り込んだのである。彼らにとってこの島は「仮の宿」であったから、彼らの目の黒いうちはあくまでも「大陸反攻」「毋忘在莒」（「莒（きょ）にいることを忘れるな」。戦国時代、燕国に国のほとんどを占領された斉国が、わずかに残った莒などの都市から名将田単（でんたん）の用兵によって国土を回復した故事のことを言っている。蒋介石の筆によるこの句の石碑が、大陸沿岸に残された中華民国領土である金門島に建てられている）であった。
<p>
こののどかな台湾で、梅津・何応欽協定の当事者である日中戦争史の登場人物の一人が1980年代まで健在であったというのは、痛烈な歴史だ。西安事変の張学良も、蒋介石への反逆者として戦後台北郊外にずっと軟禁され続けていた（1990年に軟禁から解かれ、95年にアメリカに移住して、2001年その地で死去）。だが大陸からの移住世代は大方この世にいなくなり、その二世、三世らはもはやこの島を「仮の宿り」などとはおそらく少しも思っていないであろう。時間は歴史の確執を、血を流す対決から政治のゲームの上での競争に作り変えるまでに消化したのだ。いや、この島のために、そのようであってほしいと願う。
<p>
<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860035.JPG"><img alt="12860035.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12860035-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a>
<p>
マンションの遠景。下に、他の街では見かけない、黒い瓦屋根が見える。日本式住宅である。この&#29295;嶺街の南辺の地区には、思ったより多くの日本式住宅が今でも残っていた。私は、その地区に立ち止まって観察を続けた。</p>
<p>
<img alt="taipei008.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/taipei008.JPG" width="455" height="300" /><br /></p>
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		<pubDate>Thu, 29 Jun 2006 13:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[台湾旅行記]]></category>

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		<description><![CDATA[


Orz&#8230;.的節目（プログラム）

昨日の晩と同じように台湾ビールを二缶コンビニで買って、西門町のホテルに戻った。途中でインターネット喫茶に入ってみようかとのぞいて見たが、料金がべらぼうに高いのでやめにした。


ホテルに戻って、テレビを点ける。私は、日本に住んでいる時には、すでにテレビを基本的に観ない人になってしまっている。だが、外国に来たら興味本位でついつい観てしまう。

CMが面白い。フォード（だったかな？）のCMで、ナイスガイが華麗に乗り回す車を見て、青い目の男の子たちがつぶやく、
「Orz&#8230;..」


いうまでもなく、この「Orz」は、日本発のAA（アスキーアート）だ。もともとの形は、○&#124;￣&#124;＿である。これをヒイキのチームが滅多打ちに打ち込まれているときや肝心のシュートを逃したときなどに、何も言わずに掲示板に貼り付ける。やがて○&#124;￣&#124;＿は○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿となり、○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿となり、しまいには

　　 　　　　　　＼○／
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○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿○&#124;￣&#124;＿

となるのだ。

そういったネガティブな意味合いの記号で始まった○&#124;￣&#124;＿（これを簡略化したのがorzまたはOrz）だが、どうやら台湾ではいつのまにか「お願い！」とか「ごめんなさい！」という意味が派生し、さらには「ほんとにありがとう！」とか「参りました！」というような、プラスの意味にまで転化して使われているようなのだ。「五体倒地」と言う言い方さえ作られているらしい。日本では「ガクーリ」とか言われるのだが。

歴史ドラマをやっている。『大漢風』という「項羽と劉邦」ものの再放送だ。私はこの時代の歴史をよく知っているから、終わりまで見てしまった。

時代は紀元前二〇八年、始皇帝の死後に爆発した反秦討秦運動は、秦の名将章邯（しょうかん）の登場によって鎮圧されかかっていた。危機を打開するために反秦の楚軍は、章邯が包囲する北の趙の都邯鄲（かんたん）の救援に、宋義（そうぎ）と項羽を派遣した。楚はさらに加えて、第二戦線を作るために劉邦らを西に向けて進撃させたのであった。劉邦は儒者の&#37192;生（れきせい）や天才軍師の張良（ちょうりょう）を幕下に迎えて、少しずつながら着実に秦の首都に近づいていた。一方項羽は宋義の副将として趙救援作戦に北上していたが、主将の宋義は秦との小ずるい取引などを考えていたのか、まるで戦意がない。このままでは劉邦らに先を越されると憤った項羽は、宋義を斬り捨てる。そして自ら主将に成り代わると宣言して、人心を奪った。この後から、章邯率いる秦軍は項羽の恐るべき強さを思い知ることになる、、、

ドラマは、項羽が章邯の軍を撃破するくだりが中心だった。項羽は黄河を渡河した兵たちに釜や甑（こしき）を叩き割らせて船を焼き払い、このまま進んで勝たなければ死あるのみという状況を作って戦う。結果は大勝利で、以後あれだけ強かった秦軍は、項羽軍との戦いに連敗して嘘のように崩壊していく。虞美人（ぐびじん。演じているのは、楊恭如という有名な女優らしい）がもうこの時点で話に絡んできて、遠い陣中にある項羽の身を案じていた。

歴史ドラマも面白かったが、私が一番面白かったのは、（不謹慎ながら）政治報道番組だった。「2100全民開講」という、台湾では非常に有名な番組らしい。番組の歴史も1990年代にまでさかのぼる。毎日二時間の番組で、終了した後もすぐに再放送されている。内容は、古館のような進行役の人（李濤という名で、番組をやっているテレビ局「TVBS」の現CEO）の周りで、コメンテーターたちが政治問題についてひたすらしゃべりまくる番組である。途中、視聴者からの電話意見がさしはさまれる（&#8221;Call-in&#8221;と通称されているらしい）。「報道ステーション」のようなバラエティー性は一切ない。私が台北にいた頃の話題は、陳総統の家族をめぐる金絡みのいくつかの疑惑で一色だった。番組では邱毅という立法委員（台湾の国会である立法院の議員）がコメンテーターの一人として出演していたが、この人はこの番組内で爆料（暴露ネタ）を爆発させるので有名らしい。

番組の内容はコメンテーターたちが「阿扁」（陳総統の通称）を叩きまくるのがもっぱらで、反民進党的に偏向しているという評価がどうも台湾ではなされているようだ。だがそれを観ていた私はしょせん外国人だから、総統の親族のスキャンダルのような全くの国内問題について、どのような意見も持っていない。ただただ、コメンテーターたちが皆何とまあ長広舌をふるうのかと、感心して観ていた。よどみもせずに、長々と演説する。日本の国会議員では無理な芸当だ。途中ではさまれるイメージ映像は、人民の政治への怒りのシーンが映し出される。半端ではなく激しい。総統のパネルに人民が一斉に卵を投げ付け、講堂に掲げられていた総統の顔写真を、誰かが走り登って引きずり下ろしてしまう。正直言って「ヤラセじゃないか？」と疑ってしまった。

デモクラシーなのだから政治を批判するのは当然であって、こういったトップへのバッシングが許されない社会よりはずっといい。それに、平均的な生活水準としてはもはや先進国であるとは言うものの、この国にはかなり厳しい貧富の差が見え隠れする。政治家の関係者の保釈金として千万元単位の金が報道されるのに対して、『RIVER&#8217;S５４３』の風刺漫画で出てきた市の清掃作業員の月給は、わずか三万元でしかない。金と力をうんと持っているトップクラスの者たちに人民が頭まで下げることを要求するなどは、おそらくバランス感覚に欠ける物言いだろう。それよりは上に立つ者がスカタンであれば人民が容赦しない方が、健全なはずだ。だから、大陸中国はちょっと心配だ。台湾よりもさらに激しく貧富の差が存在して、しかも人民は上に立つ者への批判が許されない。この台湾の政治番組などを見ると、中国文化圏の人たちは「人の上に立つお方は偉いのだから、下々の者は何も言わずに素直に頭を下げる」ような性根をおそらく持っていないだろう。「だから、人の上に立つ者はスカタンではいかんぞ」と教えたのが儒教の孟子であって、「だから、下の連中の口を封じるためには法で縛るしかないんだぞ」と見切ったのが法家の韓非であった。そのような人民だから、必ず誰もが何か言いたいはずで、それを言える場が確保されている状況は少なくとも人民の精神的健康にとって健全であるだろう。

国の大きさが日本の九州ぐらいだから、国にとって重要な政治的課題も比較的はっきり整理できるはずだ。台湾の政治では周知の通り、大陸中国とどのようなスタンスを取るべきかの問題を巡って大きく二つの陣営が分かれている。恐ろしく重たい問題である。重たい問題であるからこそ、現実的な選択肢の幅はおそらく大して広くない。政治家たちが人民のために生きるという初心を忘れさえしなければ、舵取りを誤ることはたぶんないだろう。だからこの面積も人口もたぶん最もデモクラシーに適切な程度の大きさの国で、人民が人の上に立つスカタンを健全に突き上げることはよい現象なのではないか、などと思った。ただし健全に突き上げることが大事であって、メディアに誘導されては意味がないが。現状は、ちょっと政治報道がエンターテイメント的になりすぎているかもしれない。

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Orz&#8230;.的節目（プログラム）</font></h3>
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<p>昨日の晩と同じように台湾ビールを二缶コンビニで買って、西門町のホテルに戻った。途中でインターネット喫茶に入ってみようかとのぞいて見たが、料金がべらぼうに高いのでやめにした。
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<p><span id="more-21"></span><br />
ホテルに戻って、テレビを点ける。私は、日本に住んでいる時には、すでにテレビを基本的に観ない人になってしまっている。だが、外国に来たら興味本位でついつい観てしまう。
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CMが面白い。フォード（だったかな？）のCMで、ナイスガイが華麗に乗り回す車を見て、青い目の男の子たちがつぶやく、<br />
<blockquote><h3>「Orz&#8230;..」</h3>
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いうまでもなく、この「<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/Orz">Orz</a>」は、日本発のAA（アスキーアート）だ。もともとの形は、○|￣|＿である。これをヒイキのチームが滅多打ちに打ち込まれているときや肝心のシュートを逃したときなどに、何も言わずに掲示板に貼り付ける。やがて○|￣|＿は○|￣|＿○|￣|＿となり、○|￣|＿○|￣|＿○|￣|＿○|￣|＿○|￣|＿○|￣|＿となり、しまいには
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<p>となるのだ。
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そういったネガティブな意味合いの記号で始まった○|￣|＿（これを簡略化したのがorzまたはOrz）だが、どうやら台湾ではいつのまにか「お願い！」とか「ごめんなさい！」という意味が派生し、さらには「ほんとにありがとう！」とか「参りました！」というような、プラスの意味にまで転化して使われているようなのだ。「五体倒地」と言う言い方さえ作られているらしい。日本では「ガクーリ」とか言われるのだが。
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歴史ドラマをやっている。『大漢風』という「項羽と劉邦」ものの再放送だ。私はこの時代の歴史をよく知っているから、終わりまで見てしまった。
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時代は紀元前二〇八年、始皇帝の死後に爆発した反秦討秦運動は、秦の名将章邯（しょうかん）の登場によって鎮圧されかかっていた。危機を打開するために反秦の楚軍は、章邯が包囲する北の趙の都邯鄲（かんたん）の救援に、宋義（そうぎ）と項羽を派遣した。楚はさらに加えて、第二戦線を作るために劉邦らを西に向けて進撃させたのであった。劉邦は儒者の&#37192;生（れきせい）や天才軍師の張良（ちょうりょう）を幕下に迎えて、少しずつながら着実に秦の首都に近づいていた。一方項羽は宋義の副将として趙救援作戦に北上していたが、主将の宋義は秦との小ずるい取引などを考えていたのか、まるで戦意がない。このままでは劉邦らに先を越されると憤った項羽は、宋義を斬り捨てる。そして自ら主将に成り代わると宣言して、人心を奪った。この後から、章邯率いる秦軍は項羽の恐るべき強さを思い知ることになる、、、
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ドラマは、項羽が章邯の軍を撃破するくだりが中心だった。項羽は黄河を渡河した兵たちに釜や甑（こしき）を叩き割らせて船を焼き払い、このまま進んで勝たなければ死あるのみという状況を作って戦う。結果は大勝利で、以後あれだけ強かった秦軍は、項羽軍との戦いに連敗して嘘のように崩壊していく。虞美人（ぐびじん。演じているのは、楊恭如という有名な女優らしい）がもうこの時点で話に絡んできて、遠い陣中にある項羽の身を案じていた。
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歴史ドラマも面白かったが、私が一番面白かったのは、（不謹慎ながら）政治報道番組だった。「<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/2100%E5%85%A8%E6%B0%91%E9%96%8B%E8%AC%9B">2100全民開講</a>」という、台湾では非常に有名な番組らしい。番組の歴史も1990年代にまでさかのぼる。毎日二時間の番組で、終了した後もすぐに再放送されている。内容は、古館のような進行役の人（<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%BF%A4_%28%E5%8F%B0%E7%81%A3%29">李濤</a>という名で、番組をやっているテレビ局「TVBS」の現CEO）の周りで、コメンテーターたちが政治問題についてひたすらしゃべりまくる番組である。途中、視聴者からの電話意見がさしはさまれる（&#8221;Call-in&#8221;と通称されているらしい）。「報道ステーション」のようなバラエティー性は一切ない。私が台北にいた頃の話題は、陳総統の家族をめぐる金絡みのいくつかの疑惑で一色だった。番組では<a href="http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B1%E6%AF%85">邱毅</a>という立法委員（台湾の国会である立法院の議員）がコメンテーターの一人として出演していたが、この人はこの番組内で爆料（暴露ネタ）を爆発させるので有名らしい。
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番組の内容はコメンテーターたちが「阿扁」（陳総統の通称）を叩きまくるのがもっぱらで、反民進党的に偏向しているという評価がどうも台湾ではなされているようだ。だがそれを観ていた私はしょせん外国人だから、総統の親族のスキャンダルのような全くの国内問題について、どのような意見も持っていない。ただただ、コメンテーターたちが皆何とまあ長広舌をふるうのかと、感心して観ていた。よどみもせずに、長々と演説する。日本の国会議員では無理な芸当だ。途中ではさまれるイメージ映像は、人民の政治への怒りのシーンが映し出される。半端ではなく激しい。総統のパネルに人民が一斉に卵を投げ付け、講堂に掲げられていた総統の顔写真を、誰かが走り登って引きずり下ろしてしまう。正直言って「ヤラセじゃないか？」と疑ってしまった。
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デモクラシーなのだから政治を批判するのは当然であって、こういったトップへのバッシングが許されない社会よりはずっといい。それに、平均的な生活水準としてはもはや先進国であるとは言うものの、この国にはかなり厳しい貧富の差が見え隠れする。政治家の関係者の保釈金として千万元単位の金が報道されるのに対して、『RIVER&#8217;S５４３』の風刺漫画で出てきた市の清掃作業員の月給は、わずか三万元でしかない。金と力をうんと持っているトップクラスの者たちに人民が頭まで下げることを要求するなどは、おそらくバランス感覚に欠ける物言いだろう。それよりは上に立つ者がスカタンであれば人民が容赦しない方が、健全なはずだ。だから、大陸中国はちょっと心配だ。台湾よりもさらに激しく貧富の差が存在して、しかも人民は上に立つ者への批判が許されない。この台湾の政治番組などを見ると、中国文化圏の人たちは「人の上に立つお方は偉いのだから、下々の者は何も言わずに素直に頭を下げる」ような性根をおそらく持っていないだろう。「だから、人の上に立つ者はスカタンではいかんぞ」と教えたのが儒教の孟子であって、「だから、下の連中の口を封じるためには法で縛るしかないんだぞ」と見切ったのが法家の韓非であった。そのような人民だから、必ず誰もが何か言いたいはずで、それを言える場が確保されている状況は少なくとも人民の精神的健康にとって健全であるだろう。
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国の大きさが日本の九州ぐらいだから、国にとって重要な政治的課題も比較的はっきり整理できるはずだ。台湾の政治では周知の通り、大陸中国とどのようなスタンスを取るべきかの問題を巡って大きく二つの陣営が分かれている。恐ろしく重たい問題である。重たい問題であるからこそ、現実的な選択肢の幅はおそらく大して広くない。政治家たちが人民のために生きるという初心を忘れさえしなければ、舵取りを誤ることはたぶんないだろう。だからこの面積も人口もたぶん最もデモクラシーに適切な程度の大きさの国で、人民が人の上に立つスカタンを健全に突き上げることはよい現象なのではないか、などと思った。ただし健全に突き上げることが大事であって、メディアに誘導されては意味がないが。現状は、ちょっと政治報道がエンターテイメント的になりすぎているかもしれない。</p>
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