アジア旅行記

台北四十八時間 06/06/30PM01:00

2006年06月30日

formosa.JPG


空と ― ジャンクと ― マングローブ!

芝山岩で色々と調べ物をしたので、どうやら頭の力をほとんど使い切ってしまったようだ。もう故宮博物院をしっかりと見て回るだけの判断力が、頭に残っていない。

こんな状態で行くのは不幸だ、と思ったので、今回の旅行では故宮博物院行きをパスすることにした。また台北に来た機会に、じっくりと見ることにしよう。だがこっそりと意見を言っておくが、あれは大陸中国の宝であって、この島の宝ではない。蒋介石の知恵袋であった国際骨董品商の張静江(1877 – 1950)が、日中戦争時に北京から一番価値のある文物をごっそり持ち出して重慶に運んだものだ。それが国民党の大陸脱出と共に台北に運び込まれて、結果として台北の「故宮」の方にむしろ超一流の宝が入っている。だから、いずれあれは北京に返すのが筋だと、私は思う。

続きを読む…

台北四十八時間 06/06/30PM03:00

formosa.JPG

ILHA FORMOSA(美しい島) !

淡水の景色は、すばらしい。坂の街である。背景にある陽明山塊から降りてくる傾斜が、淡水河に沈むそのあわいにある。川は間もなく東シナ海に注ぐ寸前にあって大河であり、しかも海水が入り込んで海のような深い色をたたえている。街並みは縦横にはりめぐらされた坂道でつながれて、台湾の都市らしく飲食店が豊富で華やかである。しかしさんさんと降り注ぐ陽光と海からの風の下、油っこさは取り除かれて爽やかな印象を観光客に与える。活力と美がどちらもどちらを圧倒しないで、調和を保っている。そんな小都会であった。

続きを読む…

台北四十八時間 06/06/30PM06:00

formosa.JPG

残金二塊錢

対岸の八里から淡水に戻って、ようやく朝から何もまとまったものを食べていない事実を捨て置けないほどの空腹感を感じた。メインストリートの客家料理店に入った。台湾ビールを一本と、「客家煎豆腐」に「山苦瓜炒鹹蛋」を注文した。しめて、330元(約1150円)。

続きを読む…

台北四十八時間 06/06/30PM07:30

與八仙過海 – 八仙と海を過(こ)える –

TAIPEI EYEは、中国と台湾の伝統演劇・音楽を上演する劇団である。木戸銭がちょっと高いが、金を払って観るに十分値する、ハイレベルなパフォーマンスを見せる。上演30分前から劇場前のフロアに入ることができて、そこでは役者たちがメーキングする場面も見ることができるのだ。

12870037.JPG

続きを読む…

Korea! 序

2009年02月14日

『金笠(キム・サッカ)選集』(東洋文庫)の編訳者である、崔碩義氏は解説に言う。

金笠(1807-63年)は朝鮮王朝末期、全国各地を放浪した天才詩人である。彼の自由奔放な詩は、奇異なその人生と相俟って民衆に愛好され、今日でも朝鮮半島の南北で人気が高い。金笠の領域は多岐にわたるが、やはりその真骨頂は旅人として、人生の世知辛さを詠い、当時の腐敗堕落した両班支配層にたいしても歯に衣着せぬ諷刺詩を放ったところにある。金笠とその破格的な詩篇は朝鮮詩文学史上異彩を放つ存在であるといえるだろう。

解説の略歴に、頼る。
金笠の真の姓名は、金炳淵。笠(サッカ)は、彼がいつも笠をかぶって全国津々浦々を放浪したので、世間の人が呼んだ俗称である。
安東(アンドン)金氏の、末流である。
純祖(スンジョ)時代から大院君(テウォングン)時代までの李朝末期、安東金氏は政権を壟断して、歴史上に勢道政治(セドチョンチ)と呼ばれる。金笠は、祖父の宣川府使、金益淳が洪景来の乱に巻き込まれさえしなければ、政府の高官に昇る展望すら開けたかもしれない。
洪景来の乱(1812)は、北部の平安道で起った、農民反乱であった。
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird,1831-1904)が彼女の『朝鮮旅行記』で描く李朝末期の支配階層たちの姿は、一般民衆たちの姿と鮮明な対象を成している。
彼女が歩いた漢江流域の農村の住民たちは、外国人に対してその好奇心から失礼なふるまいをややもして行なうものの、概して性は善良で友好的であるという姿を、好意的に描いている。
彼女の指摘で注目するべきは、民衆は確かに漢字は読めないものの、たいていは諺文すなわちハングルを読むことができる、という点である。

諺文[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、わたしの観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。
(バード『朝鮮紀行』時岡敬子訳、講談社学術文庫、pp.111)

それが本当ならば、李朝末期において、民衆の識字率は、実は高かったはずである。単に、科挙(クァゴ)を受けるために必要な漢字(ハンジャ)を、両班だけが学び使う公用文字の漢字を、知らなかっただけであった。バードが半島を旅行した1894年から1897年の時期と同じくして、李朝政府は諺文すなわちハングルを、政府の公認する文字に昇格させる。
その支配階層である両班たちや、それにぶら下がっている吏員や従僕たちの姿は、バードの目から見て、どうしようもない。「朝鮮の災いのもとの一つにこの両班すなわち貴族という特権階級の存在があるからである。」(『朝鮮紀行』、pp137)ソウルと地方の両班や、その代官としての下僕たちは、民衆から無法に搾れるだけ搾り取る。肉体労働を恥辱とする両班たちは、自分では何もせず、隷下の民に地元の瓦や農産物をソウルまで無償で運ばせる苦役を課す。地方都市の吏員たちは、外国人に対して倣岸にして、無礼なばかりである。バードは李朝の農村の貧しくもつつましい生活を愛するものの、両班や従僕たちが集まる大小の地方都市に対しては、賞賛する言葉が極端に少ない。洪景来の乱は、バードが観察したような李朝末期の農村社会の圧制に反抗して起った、李朝末期の一連の農民反乱の一であった。
さて反乱は燃え上がって、金益淳は為すすべもなく、反乱軍に投降を余儀なくされる。
後に政府軍が反乱鎮圧に成功して、金益淳は中途で脱出することに成功したものの、結局許されずに、乱の最中に大逆罪で処刑されてしまう。当時の李朝の法は中国を倣った法であって、大逆罪の罪は、三族に及ぶ。権勢高い安東金氏の一流であったために、罪は思いの他軽くすんだ。しかし、金益淳の末流たちは、滅門廃族、すなわち両班の身分から追放されてしまったのであった。
金炳淵は、長じて自分が大逆者の孫であることをはじめて知り、動揺する。彼は狂騒し、二十二歳でついに妻子までを捨てて、放浪の旅に出た。笠をかぶり、李朝の北辺から済州島まで、歩いた。そうして、両班たちを罵り、民衆たちを憐れむ詩を、後世に残したのであった。彼の漢詩は破格であって、時に猥褻であり、それで民衆の愛するところとなったという。
私は、解説を読んでから、期待して金笠の詩を読んだ。
だが―
現在、私はこの金笠という高名な詩人の作品が、どうして韓国人の心を打つのか、まだ理解できない。
陶淵明やランボーならば、私は理解できる。
彼らは読み下したり、訳文で読んでも、その詩心がはっきりわかる。
私はフランス語でランボーの詩を読んでみたが、読めばますますこの詩人が言葉の魔術師であったことを、正しく理解できた。厳格に韻を踏む漢詩ならば、なおさらのことである。

松松栢栢岩岩廻
水水山山処処奇
(『金剛山』)

だが、金笠の詩を、今の私はいまだに、理解できない。
確かに技巧的な律詩や絶句もあることはあるが、上の作品のような日本人にとっては手抜きにすら見える作品が、傑作と言われているようだ。
私は、選集に収められた金笠の金剛山詩を読んだ後、イザベラ・バードの南北漢江(ハンガン)及び金剛山(クムガンサン)旅行記を読んで、少しだけ金笠の描写する風景が、分かったような気がする。だが、バードが激賞した風景の華麗かつ詳細な描写を読んだ後でもう一度金笠の詩を読み返せば、その色彩の乏しさに今度は淋しくなってしまった。
選集に収められた金笠の詩には、数字をやたらと多用した作品が目に付く。漢詩好きの私から見れば、小学生の作品のように見えてしまう。

一峰二峰三四峰
五峰六峰七八峰
(『夏雲多奇峰』)

一読して思ったことは、どうも韓国人は我ら日本人と、漢詩に対する感覚が、違うようだ。日本人は、読み下して日本語に変えてしまう。韓国人は、漢字の並びのままに、読む。

同知生前双同知
同知死後独同知
同知捉去此同知
地下願作双同知
(『輓詞』)

明らかに、これは何かの詩世界を、作っている。
だが、日本人であり、読み下した漢詩を長らく楽しみすぎている私には、金笠の漢詩は異様に見える。

主人呼韻太環銅
我不以音以鳥熊
濁酒一盆速速来
今番来期尺四蚣
(『濁酒来期』)

日本人流に読み下しても、何がなんだかわけがわからない。
編訳者の崔碩義氏が解説してくれているが、この詩は韓国語で読まないと、わからない。
漢字を読んだ時に起る、ダブルミーニングを使用しているのである。
金笠の諧謔詩は、漢字を独占して、詩文に耽る両班に、攻撃の矛を向ける。
この詩は、七言絶句のふりをした、実は韓国語詩なのだ。解説によると、とある田舎の詩会で、濁酒を賭けた出題に対して、金笠が即妙に披露したという。
だが。
韓国語詩だから、韓国語が血肉の中に入り込んでいないと、楽しめない。この詩を日本語に訳してしまうと、その内容は、じつにくだらない。
彼の詩には、怒りが多い。傑作と言われる詩は、罵りに満ちている。怒りと、罵りと、そして哄笑の世界が、金笠の詩の世界には、広がっている。
金笠の詩は、韓国語というこの子音の響きの美しい言葉に、強く結び付いているのであろう。今はそう、予感する。
そして、彼を生んだ韓国人の愛する風景とは、岩と水と空の、あくまでも地味な風景なのであろう。
日本人と韓国人は、確かに異質である。
そして、互いの芸術作品は、余所者にとってわかりにくい。中国やヨーロッパのような、誰にでもよいと分からせる、普遍性の味がかなり薄い。金笠の詩は、韓国の言葉と、韓国の山水と、そして韓国の人間が分かっていなければ、味わいづらいのであろう。我が万葉・古今の和歌が、ひとたび英訳してしまえば、もとのうたが持っていた呪術的な魔力を、ほとんど消し去ってしまうように。

柳柳花花
ポドルポドル・・・コッコッ(버들버들・・・꼿꼿)
(『訃告』)

翌日、もう一度読み直した。
すると、彼がどうして韓国で人気があるのかの理由が、わずかながら私の前に透けて見えたような、気がした。
上の、たった一行四文字の諧謔詩の漢字を韓国語で読めば、カナのようになる。
なんとなく分かると思うが、この読みは、擬態語に通じている。
ためしに、日本語訳してみよう。

柳柳花花
ブルブル・・・コッテン

そうなのだ。
この愉快な訃告を、しかも生気あふれた(そして「花柳」で色道にも通じさせた)漢字でもって、金笠は作って見せたというのだ!
なるほど、愛されるわけだ。
やっと、彼の楽しみ方の、一条の光が私に見えた。
だが、まだこれでは、今の日本人に楽しめるとは、言いがたい。
だからこそ。
だから、こそ。
この両国は、もっと互いを理解しあうべきなのだ。私は、金笠の詩を読んだ後、そう思った。
日韓の血と文化は、歴史を遡れば、確実に濃く混じり合っている。
もとより、別民族である。
イギリス人とドイツ人が、日本人と韓国人以上に濃厚に血と文化を重ね合わせていたとしても、イギリス人とドイツ人が同民族であるなどという主張は、一部の北方人種優越主義に凝り固まったフェルキッシュ(Völkisch)思想家のたわごとにすぎないように。イギリス人とドイツ人は、別民族である。日本人と韓国人は、なおさら別民族である。別の言葉を持ち、別の文化を愛好している。
だが、互いは異質であるが、きっと最も近い、文明である。
私は、今回の七泊八日の旅行をもって、両国民の心の底流に流れているものが、驚くほどに似ていることが、よく分かった。そして、我らとは異質ながらも、韓国人と、韓国語と、そして韓国の山水が、極めて美しいことを、知った。
旅行記の中で、ハングルをカタカナに直す場合には、原則として韓国での読み方に準拠した。ただし、引用した文の中で著作者が自らの姓名を別のカタカナ表記で著している場合には、著作者の意図を尊重した。
また子音の「ク」が、末尾にあるか、あるいは別の子音に続く場合については、促音すなわち「ッ」で表示した。これは、私が旅行中に通った食堂でイイダコの混ぜごはんを頼んだとき、店員の声が私の耳に「ナクチポックム」とは決して聞こえず「ナッチポックム」としか聞こえなかったこと、そして旅の途中で会ったパク君が韓国の餅を発音したとき、私の耳に「トッ」と聞こえて、「トック」と聞こえなかったこと。これらの経験から、あえて旅行記では、上の表記を使いたいと思う。(ただし、韓国の大姓である「朴」などは、「パク」というカタカナ表記があまりにも定着しているため、これを用いる。本当は「パッ」と聞こえるのであるが。)

Korea! 2009/02/14

明日より、ちょうど一週間、韓国に行くことにした。
1月末日、以前共に香港に行った夕映舎代表氏と飲んで、今年のことについて話し合ったときに、旅立つことを決めた。
東アジアを、知りたい。
しかし、韓国について、今の私は何も知らない。
自分が価値判断をするときの原風景となるべき印象を持っていない、ということが、この隣国に対して私がまともに何も言うことができない理由となっている。
だから、酒の席のはずみではあったが、行こうと決めた。
翌日、パスポート用の写真を取り(ついでに、散髪した)。
翌々日、府庁に行ってパスポートを申請し(以前の台湾旅行の直後で、期限切れだった)。
その日のうちに、韓国語会話の本を買って、にわか仕込みで韓国語を勉強し始めた。
ハングルは、一週間で覚えることができた。
この文字は、確かに彼らが誇るのも故なしとは、言えない。
韓国語の発音は日本語よりもずっと複雑なものであるが、ハングルはこの言葉の音韻を、余すところなく、そして不足もなく、ぴっちりと合理的に表すことに成功している。
まさしく、韓国人のために作られた、韓国人のための文字。外国人は、この合理的な文字を覚えさえすれば、少なくとも読むことができて、かの国に入るとっかかりを得ることができる。
- というよりも、ハングルを覚えなければ、韓国ではたぶん完全に文盲になりそうだ。
インターネットの韓国語サイトなどをこの二週間いくつも開けてみたが、画面の上にハングルしかない。
漢字が、誇張ではなく、一字たりともない。
それどころか、英語すら、ほとんどお目にかかれなかった。
漢字を国語から追放し、ハングルに純化する教育政策は聞いていたが、正直言ってここまで徹底的であるとは、思っていなかった。
旅行まで二週間しかないので、単語を覚えることは、あきらめた。
ハングルを何とか読みこなす訓練と、後は文法だけざっと学習して(韓国語の文法は、じつに日本語に似ている)、旅行への準備とした。
明日から、慶尚道を中心として、七泊八日の旅行をする。
ソウルへは、たぶん行かないだろう。
韓国で行きたい所の優先順位をつらつらと考えてスケジュールを大まかに立てて見たら、ソウルが弾け飛んでしまった。
私の今回の旅行は、まず対馬海峡を渡って隣国に行くことを決めた後に、行く日数だけ先に固めて、往復の航空券を予約した。
どこに行くのかは、それから考え始めた。韓国という国に行きたいという思いが私にとってまず先にあって、具体的にどこに行きたいのかは、旅立つことを決めた時にも、はっきりとイメージしていなかった。
自然と、故司馬遼太郎氏の旅行記に、手が伸びた。
司馬遼は、戦後1971年に初めて、韓国の土を踏んだ。
彼はその前に、戦前学徒動員によって戦車兵であった頃、配置されていた満州から戦車隊と共に内地に配転される途上で、鉄道で半島を南下して、釜山港に降り立ったことがあった。彼にとっては、それ以来の韓国であった。
司馬遼の旅行は、かつて戦車を操って降り立った釜山から始まり、金海(キメ)、慶州(キョンジュ)、倭城(ウェソン)、友鹿(ウロッ)、そして扶餘(プヨ)を訪ねた。古代朝鮮の加羅、新羅、百済の三国の故地に、それぞれ触れた旅行であった。(もう一つの古代朝鮮の大国である高句麗の地には、行けるはずもなかった。ピョンヤンを中心とするその土地は、司馬遼の旅行から三十八年も経っているのに、まだ他国人は行くことができない。)
旅行記の中の、慶州を描いたくだりが、実に読んで心地よい。
老松の林の下に、古代の歌垣の習俗の名残のごとく、舞い踊る人たち。
私が行くのは寒い季節だから、司馬遼が逢った春の踏青の頃の風景を見られそうにもないが、それでも慶州には必ず行こう、と彼の『街道をゆく』を読み終わって、思った。
慶州に行こうと心に決めてから、慶州の土地を調べるために、GoogleMapに手を伸ばした。
だが、地図がない。
去年オリンピックに滑り込みで間に合わせるかのように、大陸中国にもようやくGoogleMapがお目見えしたところだ。
しかし、韓国のGoogleMapは、いまだに空っぽのままだ。
きっと、軍事的配慮であろう。大陸中国や台湾よりも、当局がもっともっとナーバスであることは、現状では致し方がない。
(これは、後に書いている。韓国には、国全体を表示することができる、独自のオンラインマップが、すでに存在している。私は、釜山市の英語観光サイトから、それを確認した。だから、オンライン地図を当局が規制しているわけでは、たぶんない。)
(さらに、六月時点で追加して書く。ついに、GoogleMapに韓国の地図が導入された。大陸中国よりも、ちょっとだけ遅かった。)
やむないことで、名所旧跡のある区画の、だいたいの縮尺だけをPCの画面に定規を当てて、拾ってみた。
定規の長さを、そのまま京都の上に当てて、自分が見当違いをしていることに、気が付いた。
慶州盆地は、想像していたよりも、ずっと広い。
必ず行って見たいと思った土地の一つの掛陵(クェヌン)と慶州市街地との距離は、定規が京都御所から伏見稲荷をすっ飛ばして、伏見城下すら突き抜けてしまった。
新羅の王城、慶州盆地は、ちょうど奈良盆地のように広々と遺跡が点在している。
数多い石仏群などは、山を歩けばそれで一日が終わってしまいそうだ。
これは、一日で回って済む古都ではない。
そういうわけで、慶州を最低二日、旅程に取った。
後、山を見てみたいと思ったので、著名な海印寺(ヘインサ)に一日。
釜山にも、一日。秀吉のあの無理無謀な半島遠征軍が、緒戦で李氏朝鮮(イッシチョソン)軍と激戦して、朝鮮軍が全滅した東莱邑城(トンネウプソン)の跡が、いま釜山郊外に公園として整備されているのを発見した。釜山には、文禄・慶長の役(これは、日本史での名称。現在の韓国では、イムジンウェラン – 壬辰倭乱 -、チョンユジェラン – 丁酉再乱 – と呼ぶ)の遺跡が、他にもいくつかある。
後、海岸に李舜臣(イ・スンシン)の戦跡を訪ねて、一日。
こうやって予定を組んでみると、到底ソウルに向かう日が足りなくなった。
まあ、よいかと思った。
私が勝手に作り上げたイメージとして、ソウルは東京と同じく、東アジア型帝国の首都である。
中国、韓国、日本という、古代以来中央集権国家として文明のパターンを築き上げて来た三国にとって、首都とはただの一都市ではない。その帝国が版図とする人材の、最良の上澄みの部分がことごとく吸い寄せられて、その版図とする文明の全てがある。
全てがあるから、たぶん東京と同じく、何でもあるだろう。
だが、独自なものは、すでに現在の東京と同じで、壊れて残っていないだろう。そして、西洋から受け取った文物ならば、きっと東京とソウルは同時に受け取って、同水準になってしまっているはずだ。情報化時代とは、そういうものだ。
私は東京にも結構長らく住んで、東京をある程度知っている。だから、今回の旅行で韓国の地方を回れば、もう韓帝国の首都ソウルはパスしてもよいかな、と思った。
旅先の旅館には、ノートPCを持ち込む。デジカメのデータを毎日吸い取っておくためと、ネットに接続して毎夜にメモを残すために。そういうわけで、今夜から旅行中毎晩更新する予定。


以下の旅行記は、日付を見れば分かるように、韓国旅行をしている夜に、ライブで書き始めました。
私がその時々に思ったことを残すために、書いた内容を最大限、残しています。ただし、帰国してから、調べものをして追加をしたり、明らかな誤解があったために訂正をしたり、それはしています。
旅行中は毎晩ソジュ(焼酎)をひっかけていたので、多く書けませんでしたが。ハハハ。

Korea! 2009/02/15その一

2009年02月15日

%E7%94%BB%E5%83%8F%20004.jpg
散々苦労して、ようやく釜山チャガルチのホテルに到着。
機内食が、いきなりチーズのサンドウィッチ。
チーズだけは食べられない私に、この旅の初っ端からまず、大凶と出た。
%E7%94%BB%E5%83%8F%20028.jpg
釜山に着いた、第一印象。
- 大阪。韓国の、大阪であろうか。
今はこのぐらいにして、これから釜山を一巡りとしよう。

Korea! 2008/02/16

2009年02月16日

昨日の記憶がない。
この国は、酔って初めて愛することができると思って実践した結果、日本でいつものことをやらかしたようだ。
デジカメまでが、おかしい。
この国は、「酔え。壊れろ。そうやって、初めて分かる」と、言っているかのようだ。おそらく、昨日はずいぶん学生流にひどいことをしたのであろう。
デジカメが、壊れてしまった。
こんなとき、日本ならば、どうするか。
写真屋に飛び込んで、相談するか。
もしこちらが日本語さえできたならば、微に入り細を穿つ説明をしてくれるだろう。そんな写真屋のおやじが、街にはいっぱいいる。
、、、この韓国の大阪には、たぶんいないだろうな。
私は、朦朧とした頭で、そう思った。
ここから後は、帰国してから書いている。
釜山人は、少なくとも大阪のような、殺伐とした人柄ではない。
私が、間違っていた。大阪人は他人の心が分からない野蛮人であるが、釜山人は人情に厚い、文明人だ。
しかし、外国人のような余所者にとって、分かりにくい点だけは、同じであった。

Korea! 2009/02/15その二

036.jpg
昨日のことを、つらつらと。
2:30、金海国際空港に着いた。
明らかに、「キメ」と発音していた。日本語表記でよくある、「キンヘ」空港ではなかった。
バスを、待った。
空港には、空気がある。
ロンドンのヒースロー空港の、空気。
香港国際空港の、空気。
台北の桃園空港の、空気。
空港の空気は、やはり東アジアだと思った。
空港に降りたときから、外国の感じがしなかった。むしろ、勝手知った場所のような気がした。
きれいなコンビニが、空港の敷地内にしつらえてある。
店員のサービスは、日本のものと同質。ただ、言葉が違うだけだった。
30分待って、ようやくリムジンバスが到着。
バスには、私しか乗っていない。
乗車代5000ウォンは、外国人以外はバカバカしくて乗らないのだろう。
私は、運転手のおっさんに「ナンポドン」と、告げた。
外国人しか乗らないに違いないのに、彼が放った日本語は、乗り際に放った「ジョーシャチン」だけだった。
バスに乗った途上で、運転手が意味もないのに、クラクションを鳴らした。
窓から見れば、バスが進む空港内の車線の向こうで、子供を連れた中年のおやじさんが、連れ立って自転車に乗って通っていた。
-ははあ、仕事の同僚なんだろう。今日は休暇日で、子供と一緒に遊んでいたのを運転手のおっさんがが見つけて、クラクションを一発鳴らしたに、違いない。
私は、そう直感した。
のっけから、気に入った。
香港のセントラルで感じたような、身が引きしまる空気ではない。 
台北で感じたような、南国の優しさでもない。
東アジアにも、様々ある。
042.jpg
南浦洞(ナムポドン)に着いたが、ホテルの場所が分からない。
通りにあったパン屋でアンパンでも買って、ついでに道を聞こうと思った。
店のおねえさんは、一から十まで韓国語で、私に問いかけて来る。
「ハンゲ、チルペグォン、トゥゲ、セゲ、、、」
韓国語が、私の頭に入っていなかった。
せめて英語で言ってくれれば、わかるんだが。
ようやく、アンパン一個買って、ついでに地図を出して、ホテルへの道を聞いた。
しかし、店頭の誰も、知らなかった。
「わかりません。」
おねえさんが放った日本語は、これだけだった。
うろうろ探し回って、ようやくホテルを見つけた。
店の、すぐ裏だった。
どうも、互いに言っていることを、誤解していたようだ。
043.jpg
ホテルは、チャガルチ(자갈치)にある。
「チャガルチ」とは砂利(じゃり)を意味する韓国語の「チャガル」(자갈)から派生した地名であると言われ、韓国固有語である。だから、漢字名はない。大通りを面して北側が繁華街であり、南の海そばに面した側には、海産物の店屋が並んでいる。
龍頭山の東西に渡る広大な土地が、かつての対馬藩の倭館の敷地内であった。東の海岸は現在の釜山港であるが、ここに倭館に隣接して、石積みの防波堤付きの立派な船着場が、しつらえられていた。李進煕氏の『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社現代新書)には、ソウル韓国国立博物館所蔵である倭館の屏風絵が、写真で収録されている。そこには、絶影島(ジョリョンド。現:影島)を対岸に見晴るかし、防波堤を整えた倭館の広大な姿が、龍頭山から見下ろした構図で、描かれている。
チャガルチは、倭館の南に隣接した地区である。ひょっとしたらここには、倭館を南から寄せる海波の侵食から守るために整備された、砂利浜が作られていたのかもしれない。だが上の絵の写真を見ても、はっきりとわからない。この地名の由来も私には探せず、よくわからない。
044.jpg
ホテルから出て、通りの向こうに大きなコンプレックスがあった。
チャガルチ市場。
最近できた、海産物市場だ。
入る。
いきなり、日本語で売り込まれる。
- これは、高いな。
私は、そう直感した。
とりあえず、次々に売り込んで来る品を防戦しながら、イイダコとヒラメとハマグリを買った。
案の定、韓国の相場にしては、高かった。日本円では、大したことないが。
一階で魚を買って、それを二階に持っていけば、料理して出してくれる。
046.jpg
ハマグリの焼き物と、ヒラメとイイダコの活け造りが、皿で出てきた。
薬味、、、
ゴマ油があったが、正直言って口に合わない。
ヒラメの刺身に、コチュジャンを着けて、食べてみた。
次の一切れは、置いてあったしょうゆを皿に入れて、浸した。
-刺身をコチュジャンで食べるなんか、もったいない!
しょうゆの味が、日本のものと全く同じだったので、私はなおさらそう思ってしまった。
誰がなんと言おうが、日本人の私の舌は、しょうゆを愛していた。
私は刺身がそんなに大好きというものではないが、こうしてさっきまで生きていた魚を捌いて皿に出されたとき、漬けダレはしょうゆでないと、ダメだ。コチュジャンで食べさせられると、がっかりする。
これは、どうしようもない。
048.jpg
酒は、まず無難に、ソジュ(焼酎)を頼んだ。
だが、物足りない。
酒が、欲しい。
そういうわけでチョンジュ(清酒)を、店のおばさんに頼んでみた。
だが、通じない。
手持ちの辞書を引き引き、ノートに「청주」と書いて、店のおばさんに見せた。
出されたチョンジュを、飲んだ。
-すっぱい!
吟醸酒をすっぱくしたような味で、刺身にはとうてい合わないと思った。
このワインに近い味わいは、むしろ肉に合うはずだ。生魚の伴としては、どうだろうか。
しょうがないから、ソジュで料理の残りを、平らげた。
050.jpg
ここは、魚は確かに新鮮なので、日本人がここで楽しみたいときには、日本から酒とたまりじょうゆとワサビを、持ち込めばよい。韓国の食べ物屋は、基本的に持ち込みオーケーなのだ。
しかし、日本の刺身屋は、店の雰囲気までもサービスの中に入っていることを思うと、この市場の空気の庶民臭さは、ちょっと日本の店とは違う。
この後のことは、さすがにブログで書くことすら、ちょっと恥ずかしい。
幸いに、私は(たぶん)次の日になっても、まだ生きている。
一つだけ、言える事がある。
私と彼らは、全く言葉が通じない。 
通じないが、簡単に理解できる。
この国の人は、誰が何と言おうが、世界の中で最も日本人に近い。
香港人よりもずっと近く、そして驚いたことに、きっと台湾人よりも近い。
そう、確信した。
台湾人は、日本を真似たがっているが、日本と違うところがやはり多い。
韓国人は、日本から目をそむける素振りをするが、何もかもが日本に近いのだ。
道にゴミを落とすことを、恥じること。
警察が、行政サービスの機関として、ちゃんと機能していること。
とりあえず、日本と韓国が共有している点を、二点だけ挙げておく。

Korea! 2009/02/16その一

自業自得でひどい目に会った、翌日。
気がつくと、ホテルで寝ていた。
まだ暗い時間に意識を戻して、ホテルの鍵を探したが、ない。
なくしたんだな、と思った。
朝。
ホテルの社長と交替で、夜の番をしている金(キム)さんが、ドアを開けた。
部屋の鍵を、渡してくれた。
キムさんは、歳70であるにも関わらず、ホテルの前で倒れ伏した私を、この三階の部屋まで、登らせてくださったのだ。
私は、ひたすら謝りに、謝った。
キムさんと、社長が出社してくる午前10時まで、コーヒーを飲みながら雑談した。
キムさんは、日本語がほとんどできない。
私は、韓国語が全くできない。
キムさんは、日本語は難しい、とおっしゃられて、日本語練習帳を私に見せた。
このホテルは日本人が大勢泊まるから、日本語が必要なのだ。
練習長は、全てひらがなであった。
残念ながら、たとえひらがなで日本語を知ったとしても、日本では生活が難しい。
私はこの後の旅行でキムさんに頼みごとをしたり、お詫びの品を贈ったりしたとき、全て辞書で調べたハングルによる筆談を用いた。
キムさんは、私に気を使ってTVのチャンネルを、日本のNHKに変えた。
だが、韓国人は、この放送が全くわからないに、違いない。
私は、辞書を引き引き、画面に映り出される漢字の意味を、キムさんに説明した。
韓国のTVは、私にとって内容が全くわからない。
だいたい何をしているかは、わかる。朝のワイドショー番組で、おっさんが演歌を一節うなって、パーソナリティーたちが、「お上手、お上手!」と、拍手している。やっている番組の質は、日本とほとんど同じだ。だが、文字は読めない。
台湾でも私はTVを見たが、台湾の番組は、言葉が分からなくても文字を読めば、何を放送しているのかの概略を、読み取ることができる。

「去蔣!政府企圖抹掉中正的地名。」

と、字幕にあれば、これは政府が蒋介石(蒋中正)の名前を地名から抹消しようと企んでいるというニュースなのだな、と理解できる。だから、台北で見たニュース番組を観て、私は大笑いしていた。ほとんど解読できる新聞やインターネットの情報と併せて観れば、台湾のニュースを現地で知るのは、簡単なことだ。
残念ながら、韓国のTVでは、私は笑えなかった。新聞も、インターネットの韓国語サイトも、この旅行中に参照しなかった。
031.jpg
こうして本日の行動は、朝も遅くなってから。
体が、重い。
外に出たら、昨日の雨模様から一転して、きれいに晴れ渡っていた。
晴れた日の釜山の冬は、寒い。
料金チャージ式の地下鉄パス「ハナロパス」を買って、乗ったはよいものの、、、
あ?乗る方向、間違えたか?
焦って、向かい側のホームに行こうとしたら、、、
%E7%94%BB%E5%83%8F%20042.jpg
行けない。
ここの地下鉄は、反対側のホームに行くことが、できないようだ。つまり、上り列車と下り列車の改札が、完全に分離されている。
ちょっとひどいなあ、と思った。
これでは、うっかり乗り過ごしたり、間違った方のホームに駆け込んだりしたら、切符分がまるまる損になってしまう。
私のようなマヌケな人間に優しくない、システムであった。
あ、デジカメは昨日の衝撃によって見事に壊れてしまったので、出社して来たホテルの社長(日本語ができる)に相談したところ、わざわざチャガルチの地下街まで着いて行ってくれて、安く買うことができた。有難や。
035.jpg
東莱邑城(トンネウプソン)に行こうと思って、地下鉄明倫洞駅で、降りた。
駅前で、写真の白黒の鳥を、見かけた。
この鳥は、いっぱいいる。
慶州でも見かけたし、巨済島でも見かけた。
後に知り合ったチェさんに、鳥の名前を教えてもらった。
帰ってから、うっかり記録しもらしてしまったかと、後悔した。
しかし、私はそれをノートではなくて、統営の市街図に書き込んでいた。見つかって、よかった。
-까치。
ちょっと、難しい発音だ。カタカナであえて書き記せば、「カチ」となる。
だが、「カ」の発音が、日本語と微妙に違う。あえて言えば、「カ」を発音する直前に、「ン」をわずかに加える。つまり、「ンカチ」を、「ン」を弱く発音すれば、近くなるだろう。チェさんの発音したこの鳥の名前は、澄んだ響きをしていた。
日本語訳は、「カササギ」。
平凡社世界大百科事典の、「カササギ」の項目から、引用する。

スズメ目カラス科の鳥。別名カチガラス。ユーラシア大陸の中緯度地帯のほぼ全域,北アフリカ,北アメリカの西部などに広く分布する。中国,朝鮮半島にはたくさん生息しているが,日本には17世紀に朝鮮から人為的に移植され,それ以来,九州の筑紫平野で繁殖している。ほとんど移動はしない。国の天然記念物。全長約45cm。頭,胸,背,雨覆,尾などは金属光沢のある黒色で,肩羽,初
列風切の大部分,腹,腰の中央は白い。くちばしと脚は黒色。筑紫平野の田園地域にのみ分布し,農耕地内や屋敷林の高木上に小枝を集めて,側部に出入口のある大きな巣をつくり,繁殖する。1腹の卵数は5~8個,抱卵,育雛(いくすう)は雌雄とも行う。食性は雑食で,果実や種子などの植物質,昆虫,カエル,カタツムリなどの動物質の両方をよく食べる。

さらに、

朝鮮をはじめとする東アジア北部ではカササギは吉鳥とされる。カラスの鳴声が陰気なのに比べてカササギの声は軽くすがすがしいと感じられている。家のそばでカササギがなくと,朝鮮ではだれか親しい人が訪れる吉報だとされる。高麗時代の女性の歌辞〈済危宝〉には〈かささぎが垣根に鳴き,蜘蛛が寝床の上に糸をひきつつ降りてくるから,課役にいって家を留守にしていた夫が帰る良いしらせ〉と歌っている。カササギの異名カチガラスは,朝鮮語のカチ Kkach‘i(カササギ)に由来するものであろう。韓国では国鳥に指定されている。

英名は、”Korean Magpie“。
韓国の国鳥であり、この国の文化の中に、深くこの白黒色の鳥は、埋め込まれている。
日本名の異名「カチガラス」は、ほぼ間違いなく韓国語からの、輸入であろう。ちなみに日本語Wikipediaには、カササギは、秀吉の半島侵略戦の際に、九州の大名が持ち帰ったものだとされる、と書かれていた。もしそうであれば、このカラスよりも明るい声で鳴く鳥にも、因縁が染み付いている。韓国では、国鳥。日本では、隣国を侵略した、土産物。
037.jpg
漢字は、ファッションとしてならば、こんな風にマンションの名前などに、時々見かける。
だが、残念ながらたぶん、この国では漢字はもう、我々の英語やフランス語なんかと同じ、ファッションでしかない。実用性が、ない。
東莱邑城を、目指す。
秀吉の半島侵略戦の緒戦で、日本軍の小西行長・宗義智らの率いる先発隊一万八千七百余人は、一五九二(文禄元)年旧暦四月、釜山に上陸。行き掛けの駄賃とばかりに釜山城を葬った後、直ちに当時のこの辺りの府城であった東莱に殺到した。
東莱を守る都護府史の宋象賢(ソン・サンヒョン)は、敵の大軍にもひるむことなく、城に立て篭もって防戦した。
二日後の四月十四日、城は陥ちた。
鉄砲の威力が、絶大であった。
李朝の陸軍は、鉄砲の力によって、日本軍に負けた。
海戦では李舜臣将軍が、大砲を用いた亀甲船(コブッソン)によって日本水軍を完膚なきまでに叩きのめしたにも関わらず、陸戦において李朝軍は、鉄砲を採用することに失敗した。日本軍の勇猛が緒戦の大勝をもたらしたというよりも、たまたま日本が広く採用していた新兵器が、李朝軍の肝を冷やしてしまったと言った方が、おそらく戦史の評価として正しい。
その東莱邑城を、今日は目指そうと思った。すでに昼前で、今日は遠出ができない。
だが、歩けども、歩けども、たどり着かない。
釜山の道は、坂道だらけだ。二日酔いの体に、坂道がこたえた。
道の途上に、観光地図があった。
ハングルで読めないが、写真を見れば史跡の位置のあらましが分かる。
城までの道は、延々と続く山道だった。
徒歩では行くまでに、相当時間がかかるだろう。
本日は梵魚寺(ポモサ)にも行きたいと思っていたので、こりゃあだめだと思って、行くのをやめにした。
%E7%94%BB%E5%83%8F%20038.jpg
写真は、東莱郷校(トンネヒャンギョ)。東莱邑城への道の、途上にあった。
説明板の英語を、読む。日本語もあるが、挑発的なまでに短く、何の参考にもならない。

郷校。儒教の神殿にして、学校である。これは、高麗(コリョ)時代に導入された、地方の教育機関の一つのタイプであり、李氏朝鮮の末期まで継続した。ここの郷校がいつ作られたのかは正確な記録がないが、推察するに、1392年 – 王朝初代である太祖(テジョ)の、統治初年 – に政府が国中の大都市すべてに郷校を建設すべきことを決定した後の、李氏朝鮮時代初期の頃であろう。郷校の通常の構成は、儒教の聖人及び哲人を祀った大聖殿(テソンジョン)、講義を行なう明倫堂(ミョンニュンダン)、それに生徒のための寄宿所である東斎(トンジェ)と西斎(ソジェ)であった。他に、たとえば庫などの付属的建築物もあった。東莱郷校の二階立ての門は、攀化楼(パンワル)と呼ばれる。この名は、ひとが聖人の跡を慕って徳を積むことの大事さと、それに王への忠勤の大事さを、意味したものである。この神殿にして学校が日本の侵略時代(1592-98)に焼失した後、1605年に東莱のMagistrate、Hong Jun(ホン・チュン)によって再建された。その後、何度か場所を変えて、現在の郷校は、1813年に東莱のMagistrate、Hong Suman(ホン・スマン)によって、建てられたものである。十三代王、純祖(スンジョ)の治世のことであった。

このとき撮影した写真から字が明らかであるものと、私の李朝と儒教の知識によって判読できるものだけを、漢字化しておいた。英文の”Magistrate”が下で述べる守令の一職である府使(東莱府使)に当るのかどうか判断しかねるために、そのままにしておいた。

039.jpg 030.jpg

東莱は、今でこそ釜山の郊外に組み込まれているが、もともとここいらの土地の中心地であった。
東莱府は、上記の郷校が置かれていたような行政都市であると共に、日本軍との戦いがあったような、邑城(ウプソン)であった。
血なまぐさい日韓の歴史の地であるが、明るい外交史の舞台でもあった。
徳川時代に前後十二回行なわれた朝鮮通信史は、この東莱府の担当するところであった。東莱府は現在の龍頭山にあった対馬藩倭館を管理して、対馬藩を通じて日本との外交事務を担当する任務に当った。朝鮮通信使は、この府の管轄である釜山浦から、日本の対馬に向けて出港したのであった。
私は帰国後、李進煕(リ・ジンヒ)氏の『江戸時代の朝鮮通信史』(講談社学術文庫)を読んで、徳川幕府と李朝との国交がどのようであったのかを、知ることができた。これは、名著である。かつての両国の人士たちの、温かい思いやりのこもった交流の軌跡を、ぜひとも読んで欲しい。
この東莱府のような地方の行政拠点には、中央から各種の守令(スリョン)が任命されて、赴任した。
守令は、土地とのつながりもなく、短期間で他の土地に転任させられる。守令たちは、中央集権制度の常として、首都の出先機関であった。日本のような世襲の大名が存在する余地は、李朝にない。
李朝の行政組織は、明朝などの中華帝国の制度とだいたい同じ、中央集権制であった。そして、日本の徳川時代とは、国の体制が大きく異なる。
この半島に、中国型の中央集権王国が、最適だったのであろうか。
現在の韓国は、近代の激しい社会の流動化の結果として、非常に均質な国民となっている。それが可能となったぐらいの、面積しかない。南北併せれば、日本の本州に比べてごくわずかに小さい程度である。
こんなコンパクトな国家には、中央集権制が、最適だったのであろうか。日本の歴史の例と参照したとき、よくわからなくなる。
中央集権制だから、政治の全てがソウルの宮廷の中で、争われた。
国内の改革も、政変も、宮廷が動くかどうか次第であった。よって、宮廷では激烈な権力闘争が繰り返し行なわれ、エネルギーを浪費した上に結局改革を逃してしまった。
李朝はその上、身分制度であった。
限られた階層しか、政治に参入することができなかった。権力と権威は、全て学者であり地主である貴族の両班(ヤンバン)のものであり続けた。渋沢家のような富農も、三井家や鴻池家のような商人も、李朝末期には現れなかった。
私は歴史学者でないので、これ以上の評価はしない。
だが、両班は、末期に至るとはなはだしく腐敗していた。集団として、無為徒食の遊民と化していた。
五百年続いた李朝の制度は、十九世紀末になると、かちかちに干からびていた。水を与えて再びふやかすには、おそらくかなりの時間がかかったに、違いない。
だが、再び水を吸って立ち直るには、十九世紀末期の国際社会は、あまりにも苛酷で、時間を許さなかった。
すぐ隣に、短期間で明治維新を成功させて、意気軒昂とした日本があった。
日本は、革命の輸出とばかりに、金玉均(キム・オッキュン)ら開化派人士の留学を迎え入れ、彼らを援助した。
その日本が、もし真心から相手を説得したいと願うならば、相手に礼を尽さなければならないという、人間たるものの基本を、どのぐらい分かっていただろうか。
帝国主義たけなわの十九世紀末の時代に悠長な空想論だと、批判はあるかもしれない。だが、日本は時間をかけて、李朝の硬直化した宮廷政治を温めながら一歩退く自重の道も、もしかしたら取り得たのかもしれない。
しかし、歴史は無残であった。
第一次日中戦争(日清戦争)は、李朝を巡る日中の綱引きであった。日本が退けば清が半島を支配するだけのことであったから、日本がこれに対抗したことは、歴史上やむをえなかった点もあった。
しかし、清に完勝した後の日本は、かつては少なくとも野心の裏側に持っていたはずの、李朝の改革への期待感を、忘れ去ってしまったのではないだろうか。日本国内の世論は、もはや三国干渉への復讐、ロシアへの討伐一色となってしまった。第一次日中戦争後の甲午改革が挫折した後は、半島はロシアの侵入を払いのけるべき日本の勢力圏として、明治政府の方針は確定した。そこに住む人々の意向を、この時代の日本人は、どれだけ関心を持っていたであろうか。
そうして日露戦争に勝利し、もう世界の列強となった日本は、自分の勢力圏として列強に認められた半島を、すんなり「併合」してしまった。「併合」する必要もなかったのに、「併合」してしまった。
日韓併合を、台湾領有と同一の次元に置いてはならない。台湾は、あくまでも中国の一省であった。その島の民は主に沿岸の福建省から移民してきたもので、漢民族の移民の歴史は、たかだか明朝末期から遡ることができない。
だが韓国の併合は、日本と深く共有する長い歴史を持った一民族を、まるごと隷属の下に置いたのである。日帝三十六年の支配が今に至るまで憎悪の歴史であり続けている事情は、彼らの心情を考えたとき、日本人の私は手を触れると火傷しそうになる。
かなり、筆の走りで書いている。それだけ、私は両国を愛しているからだ。
あまりにも、不幸であった。もう少し両国にとって良い道はなかったのかどうかと、考え込んでしまう。
041.jpg
コンビニで、おにぎりとカップラーメンを買った。
面白いことに、韓国のたいていのコンビニでは、中に食事できるテーブルと椅子が、用意してある。お湯も、ある。ラーメンの食べ残しを捨てる、ゴミ箱もある。
ラーメンは、わざと辛そうなやつを、買った。
買って、食べた。
なあに、なんてことないな。
十秒後。
自分が間違っていたことを、理解した。
スープは飲むこともできず、ゴミ箱に捨てた。

« 前のページ次のページ »

TOPPAGEサイトの最初のページへ  TOPページの先頭へ