韓国旅行記

Korea!2009/02/20その二

2009年02月23日

チャガルチに戻って、裏通りに入る。
看板を、読む。
「ポ、、、リ、、、パプ?(보리밥)」
「パプ」(밥)はご飯だということをすでに理解していたので、後はポリ(보리)であった。入るのが、怖い。どうしよう。
私は、日韓・韓日辞書を引きずり出して、「ポリ」の意味を、探った。
-麦。
そう、読めた。ならば、「麦ごはん」。そのように日本語に訳した時に、ほっとした。麦ごはんならば、きっと日本人にとって、外れはあるまい。
私は、店に入って、ポリパプを頼んだ。値段は、笑っちゃうほどに、安い。
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ポリパプ。
いろいろある付け合わせを、麦ごはんの中に投入して、混ぜて食べる。周りの人たちの食べ方を見て、習得した。
案の定、がっかりさせられなかった、と批評すべき味であった。飽きの来る、味ではある。しかし、この料金で、贅沢を言ってはならない。味噌汁なんか、美味いですよ。麦飯に味噌汁だけでも、元の取れる料金だ。

毎回男たちの食事は高さ数インチの暗色をした木製の小さな円い膳でひとりひとり別個に供される。ごはんは主食で、大きなボウルに盛って出されるが、それ以外に陶製の器がふつう最低五つか六つはならべられ、そのなかには風味のある、つまりおいしい薬味が入っている。
(イザベラ・バード『朝鮮旅行記』、pp.111)

バードが十九世紀末に観察した李朝の農村の食事には、現在の韓国人の基本的なお膳と同じ姿が、描かれている。ボウルによそわれたごはん一杯と、小さな薬味の皿がたくさん並べられる。これらの薬味を、好きな味になるだけ、ごはんに乗せて混ぜる。日本とは、白いごはんをどのようにして味わうかの方法が違うが、ごはんが主食である点は共通している。韓国人は、中国人のような麺(ミェン。小麦粉製品、つまり、めんやパン)を主食とする習慣とは、違っている。
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食った後で、橋を伝って、釜山の中心街から影島(ヨンド)向かう。
右に、釜山タワー。
左に、カモメの形をした、チャガルチ市場。
ははは、結局、今日も歩いている。
韓国人と同じで、私は歩くのが好きなのだよ。
旅の三日目に慶州で会った白皙の青年に、私は言ったものだ。
「日本人の血の半分は、韓国人なのさ。昔、百済(ペッチェ)から、日本に人がいっぱい来た。それはもう、いっぱいだ。百済ほどではないが、新羅(シルラ)からも、高句麗(コグリョ)からも、やって来た。日本語で、百済はクダラ。新羅は、シラギ。高句麗は、コマ。日本には、クダラ(百済)、シラキ(白木)、コマ(駒あるいは高麗)っていう地名が、いっぱいある。それはぜんぶ、昔韓国人が住み着いた所なのさ。」
私の生まれた土地の南河内は、かつてほとんど全体が、半島からの渡来人のコロニーであった。
ここの有力な氏族として、西文(かわちのふみ)氏があった。応神天皇の時代すなわち4世紀末から5世紀初頭に渡来したと『日本書紀』『古事記』に書かれている、王仁(わに)を始祖とする集団であった。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)、と記録されている。以下、『古事記』応神天皇記の、くだり。

また百済の国主(こにきし、国王)照古王、牡馬一疋(ひき)、牝馬一疋を、阿知吉師(あちきし)に付けて貢上(たてまつ)りき。この阿知吉師は阿直の史(あちのふひと)等が祖なり。また横刀と大鏡とを貢上りき。
また百済の国に科(おお)せたまいて、「もし賢(さか)し人あらば貢上れ」とのりたまいき。かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を、この人に付けて貢進りき。この和邇吉師は文の首(ふみのおびと)等が祖なり。
また手人韓鍛(てひとからぬち)名は卓素、また呉服西(くれはとり)西素二人を貢上りき。また秦の造(はたのみやつこ)の祖、漢の直(あやのあたえ)の祖、また酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、またの名は須須許理(すすこり)等、まい渡り来つ。
かれこの須須許理、大御酒を醸みて献りき。ここに天皇、この献れる大御酒にうらげて(引用者注:浮かれ立って)、御歌よみしたまいしく、

須須許理が 醸みし酒に われ酔いにけり。
事無酒咲酒(ことなぐしえぐし。引用者注:平安無事で、愉快な酒)に われ酔いにけり。

かく歌いつつ幸行でましし時に、御杖もちて、大坂の道中(引用者注:二上山北側の、穴虫越え)なる大石を打ちたまいしかば、その石走り避(さ)りき。かれ諺に堅石も酔人を避るというなり。

愉快な、交流ではないか。
『古事記』の性質上、どうしても百済が日本王家に人を献上した、となっている。
だが、本当のところはたぶん違っていたのであろう。
馬飼いの技術、文字の博士、手人韓鍛すなわち鍛冶の技術、呉服すなわち機織りの技術、そして酒造の技術。日本の王が、百済人の造った酒に酔って、大和と河内の境にある二条山の峠道で浮かれて歌いながら街道脇の石をぶっ叩けば、石が怖がって逃げたとさ。昔は、両国民が互いに酒を飲んで、酔っていたものだ。
『古事記』に収録された伝承は、おそらく史実とは、言えないであろう。しかし、渡来人がかつての日本において身近なものであって、ゆえに渡来人がらみの伝承が豊富に残っていて、歴史編纂者に楽しいイメージを喚起させた、その風景は今でも感じ取ることができる。
私の生家のすぐそばにあった河内国古市の西琳寺(さいりんじ)は、王仁を始祖とする西文氏が建てた寺であった。今や小さな寺となっているが、かつては壮大な伽藍があったという。この土地で育ったアマチュア考古学者の私の父親が、私に教えてくれた。
「古市は、昔はすごいところやった。だんだん時代が下がっていくたんびに、田舎になってしもたんよ。」
父は、そう言って、ハハハと笑った。
古市から道明寺、藤井寺にかけての土地には、壮大な古墳群、恐ろしく由緒の古い寺院が、多数存在する。
そしてそれらの全てには、渡来人の手形が付いている。
「土師の里(はじのさと)」という地名があるが、これは渡来人系の古市土師氏のコロニーの跡だ。彼らは、墓を作り、墓の土器を作る技術集団であった。
また、南に行って富田林市に行けば、「錦織(にしこり)」という地名があり、錦織神社がある。この地こそ、仁徳天皇の時代に百済から渡来した、錦部首(にしきべのおびと)が住んだ、コロニーであった。いにしえの地名は、ずばり下百済郷(しもつくだらきょう)。河内国、石川郡、下百済郷。錦織神社のもともとの祭神は、上の『古事記』の引用に出て来る、照古王だったのだ。
ここに住んだ錦織氏は、やがて日本人に変わる。そうして、ずっとずっと後の鎌倉時代末期になって、さっそうと歴史に再登場する。

錦織判官代これを見て、「蓬(きたな)き物の行(ふるまい)かな。十善の君(引用者注:天子)に憑(たの)まれ奉りて、六波羅を敵に請(う)くる程の物が、敵大勢なればとて、戦わで逃る様やある。いつのために惜しむべき命ぞ。返せや、人終(ひとはて。引用者注:人非人。ひきょうもの)ども」と呼ばわって、向う敵に走り懸かり走り懸かり、大裸抜ぎ(おおはだぬぎ。引用者注:上半身裸になること)になってぞ、戦いける。矢種尽き、太刀折れぬれば、「聖運、天命に叶わず、我等が武運これまでなりけり」とて、親子・若党十三人、一所にて腹切って、戦場にぞ名を遺しける。(太平記、巻第三、笠置城没落の事)

後醍醐天皇がぶち挙げた北条幕府顛覆計画に、呼応してくれる馬鹿者なんぞは、ほとんどいない。
だいたいが天皇は中国から輸入した朱子学なんぞにかぶれて、君主が天下で一番えらいはずなのだから、家臣のぶんざいで皇位継承にまで口を挟む北条氏に、思想として腹を立てた。
精力だけは有り余っている天皇だから、公家どもを使って、盛んにアジ宣伝を行なわせる。当然、幕府に見つかる。幕府の京都駐在所である六波羅が、動く。宣伝の甲斐なく、武士のほとんどは、北条氏の味方。
そんな中で天皇のために馳せ参じた数少ない武者の一人が、河内の錦織判官代と、その一党であった。
錦織党は天皇と共に笠置山に立て篭もり、六波羅の大軍に立ち向かう。
衆寡、敵せず。
火と矢の嵐の中、錦織判官代は「いつのために惜しむべき命ぞ。返せや、人終ども!」と叫んで、大肌脱ぎになって、一族もろともに果てた。
こうして笠置は落ち、天皇は捉えられたが、錦織判官代の仇は、同じ河内国からやってきた楠木正成が、やがて討つことになる。
錦織判官代は、もう自分たちの祖先の故国のことなんか、すっかり忘れて日本人になっていたのだろう。だが、文学に活写された彼の熱い魂は、半島の民と、何とよく似ていることではないか。
半島の民は、かつてごくふつうに、日本にいたのだ。いつしか日本の土になじみ、故郷のことを、忘れてしまった。そうやって、白村江(はくすきのえ)の戦い以降、千三百年余り、両国には暗黒時代が続いている。
もう、この辺でよいではないか?
須須許理が日本にもたらした醸造の技術は、やがて日本で独特の発展を来たして、室町時代に神霊清浄な、「サケ」となった。
韓国では、「サケ」は韓国起源であると主張されているようだ。
後日知り合ったチェさんは、私に言った。
「日本語のサケは、韓国の『삭다』が、語源なのさ。」
チェさんは、私の辞書の「삭다」の項目に、丸を打った。これに使役動詞を作る「기」を間に挟めば、「삭기다」となる。チェさんはこれを、「サキダ」と発音した。
韓国語の「삭다」は、手元の『三修社 日韓・韓日辞典』を引くと、

1.(古くなって)すり切れる。すり減る。腐る。朽ちる。
2.(濃いものが)水っぽくなる。糖化される。柔らかくなる。
3.(食べたものが)消化される。こなれる。
4.(恨みや怒りなどが)ほぐれる。和らぐ。静まる。冷える。
5.(漬物などが)味がつく。漬かる。

となっている。おおよその意味を類推すれば、「熟(な)れる」という日本語が、一番近いであろう。それを使役動詞とするのであるから、「熟れさせる」である。または、「腐らせる」「糖化させる」である。だから、韓国語で威勢良く「熟らせ、熟らせ!」と杜氏たちが発声すれば、「サキヤ、サキヤ!」みたいに聞こえるわけで、日本の南大阪当たりならば、韓国人の杜氏たちがこのように発声しても、何にも違和感がないかもしれない。チェさんの説は、南大阪出身の私としては、個人的になかなか面白い。
日本の広辞苑には、「酒」の語源のことを、

サは接頭語、ケはカ(香)と同義。

としている。サケはサカとも言って、サケと共に頂く菜(な)がすなわち「肴(サカナ)」であるから、広辞苑の言葉には、説得力がある。
ただし、サケは上代から使われている古代語であって、万葉集ではサを取って音を変えた「キ」と読んでいる場合もあるが、上代にはまだ現代の香り高い清酒は存在せず、米を腐らせただけの「どぶろく」しかなかったことだけは、指摘しておきたい。
とにかく、サケが韓国起源であるかどうかを聞かれれば、私はこう意見する。それは、正しくもあり、正しくもない。
百済から技術がもたらされたことは、確かだろう。
だがそれは韓国のマッコルリのような、「どぶろく」の技術であったはずだ。「どぶろく」から発展させて、澄んで辛口の酒を醸したのは、日本の技術であったはずなのだ。日本のサケのはじまりは、韓国から来たのであろう。しかし現在の日本のサケは、韓国起源でない。
同じく、日本の九州で愛飲される焼酎(しょうちゅう)が韓国の焼酒(ソジュ)を起源としているという説は、伝来した年代と広まった地域の分布、それにもともとこの酒が「アラキ」と呼ばれていて韓国語のソジュのもともとの言い方である「アラクチュ(ペルシャ語で蒸留酒を表す語である「アラク」に「チュ」すなわち酒を加えた言葉。本当は「アラッチュ」に聞こえるが、わざと分かりやすいように強調した)」と全く同一である事実を見れば、琉球経由のタイ渡来説よりも、私としてむしろ有力な説ではないか、と思う。
しかし、現在の韓国の焼酒(ソジュ)と、日本の焼酎(しょうちゅう)は、全く別の酒に進化しているのだ。スコッチウィスキーとバーボンが起源を同じくしているのは明らかであるが、この二つの酒を同じとみなすことはできないのと、同じことなのだ。
橋を渡って、影島に入る。晴れているが、雨上がりで気温がいくぶん高く、風が強い。海は、かすんでいる。対馬島を見るのは、ちょっと無理かもしれないな。

Korea!2009/02/20その三

2009年02月24日

「見えます」
李進熙氏は、陰気なほどのしずかな声でいった。
「絶影島です」
言われてみて、海を見た。せまい湾口に区切られたみじかい水平線上に、なにかあるらしい。凝視しつづけると目が疲れてしまい、淡い影がとらえられなくなってしまう。そのうちにしみのような影が、分別できるようになった。
(『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)

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絶影島(ぜつえいとう、ジョリョンド)というかつての島の壮絶な名前から連想したのか、それともこの『街道をゆく』の旅行で、司馬遼氏の同行者であった金達寿(キム・タルス)氏と李進熙(リ・ジンヒ)氏が、国籍の関係上韓国に渡航できないという苦悩を下敷きにした旅行であったことが、私の心を重くさせたのか。とにかく、影島(ヨンド)とは波頭の中の僻地であると、勝手に思い込んでいた。
ところが、橋を渡って入ってみると、そんなことはない。
司馬遼氏は、この島を「ビスケットのカケラのように小さな島」と形容していたが、ここは釜山市の一区を為すほどに、大きくて人口の多い島だ。いっぱい、人がいる。きれいなマンションが、うんと立ち並んでいる。だが交通の便は、市内バスしかない。
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見たまい、この船の群れ。
釜山港(プサンハン)は、栄えている。
衰退する一方の関西に住む私として、この風景は、うらやましい。
きれいな歩道が、海岸沿いに造り付けられている。
歩くというレジャーを、この国民がいかに愛しているかが、道を歩けば分かる。
影島どころか、ここは光の島だ。
途上の一軒の家の裏で、白梅が咲いていた。
やっぱり、梅を咲かせることができる、気候なのだ。
単に、咲かせることに、あまり興味がないだけなのだろう。
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海へ降りることができる、遊歩道。
ちょっとしたところにも、石のモニュメントがある。
石を愛する、韓国人。
花を愛する、日本人。
この両者が手を結べば、必ず世界に冠たる大文明を打ち立てることが、できるだろう。私は、今本気で、そう思っている。
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釜山といえば、椿。
なのに、この影島まで来て、ようやく植えられているのを、こうして見かけた。
絞りの椿が、清楚である。

椿咲く春なのに
あなたは帰らない
たたずむ釜山港に
涙の雨が降る

一日目に屋台の居酒屋に飛び込んで、この歌を高歌放吟したような、記憶がおぼろげにあるなあ。
クソバカ、だねえ。
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何じゃ、こりゃ?
自動販売機で、買ってみた。
-松のつぼみ、ドリンク。
英語での表記は、そうなっている。
韓国人は、松の実ばかりでなく、松のつぼみまで食しているというわけか。
韓国人は、日本人のように梅(ウメボシ)と竹(タケノコ)を好んで食しているようには、見えない。
だが、日本人にとっては食べ物ではない松の木を、逆に食べられる木として、尊重しているようだ。
さすが、木といえば松の林の山を持つ、国民だ。
飲んで、みる。
、、、形容し難き、味がした。
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晴れた日の、影島と釜山港の風景は、美しい。
街全体が、清潔である。
香港も確かに夜景は美しいのであるが、華麗なビルと隣り合わせに、おそろしく貧しくて不潔な昔のアパートが平然と並んでいたりする。香港は、遠くから眺めたらダイヤモンドのように見えるが、近寄って見ればあちこちがケシズミになって、汚れている。
隅々まで清らかである、釜山の勝ちだ。
所々で、釣りを楽しんでいる人がいる。
バス一本で、こんな結構なリゾート地に行くことができる釜山人の暮らしは、ぜいたくだ。

Korea!2009/02/20その四

さて、バス停の終着点まで歩いたものの、太宗台の先にある展望台には、どうやって行けばよいのだろう。
バス停の終着点は、食い物屋が立ち並んでいる。
ちょっと早いが、もう一度食うか。ついでに、行き方を聞こう。
中央洞で会った高さんが、私に勧めていた。
「魚のスープが、うまいぞ。チャガルチに行ったら、試してみるとよい。」
店の看板に、「해장국」と書いてあるのを、読んだ。
-ヘジャングッ。
私は、ヘジャンとは「海醤」のことなんだろう、と解釈した。ならば、海醤スープ。これじゃないか。
私は入って、メニューのヘジャングッを指して、頼んだ。
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出て来たのが、これ。
海産物なんか、どこにもない。あれれ?
中身は、濃厚な肉味の味噌汁に、骨つき肉(牛肉と思っていたが、後で調べたら豚肉らしい)とモヤシが入ったもの。空きっ腹だったらうまいに違いないが、まだ昼飯から大して間が空いていなかったので、正直胃にもたれた。
本当は、ヘジャンの字を当てるならば、「解酲」となるのであった。「酲」という難しい字を漢和字典で引いて見たら、「わるよい。ふつかよい。」とあった。
つまり、このスープは、ふつかよい覚ましスープと、いうわけのようだ。英語と日本語のWikipediaを交互に参照したところ、このスープの起源は高麗時代に遡るが、一般人に流行したのは、太平洋戦争直後のソウル鐘路地区のとある店からであるという。
店のおばさんにハングルで書いて、「展望台は、どこですか?」と聞いた。
おばさんは、「食べた後に、教えてあげるよ。」と言って(いるはずだ。何を言っているのかは、わからない)、笑った。
食べ終わって、「オルマ?」と聞いたところ、おばさんは、「ユッチョノォン。」と言った。
だが、一瞬私は、混乱した。
「ユッチョノォン?」
六、千、ウォン。そう、言っているはずだ。肉スープだから、ちょっとばかし高い。それはまあ、いいとして。
おばさんは、左手でパーをしていた。
それから右手の親指を立てて、いわゆる「サムズ・アップ」の仕草をしていた。
私はこのポーズを、「五千ウォンだよ、OK?」と、この瞬間解釈したのであった。
それで、言っていることとポーズに食い違いを感じて、混乱してしまったのであった。
「オチョノォン?、、、アニエヨ、、、ユッチョノォン、、、」
次の瞬間、理解した。
「六」のポーズが、日本人とこのおばさんでは、違っていた。
日本人は、「六」を示すときに、片方の掌でパーを作って、もう片方の手で人差し指を立てる。さらに、片手の人差し指を、もう片手の掌に押し付ければ、強調するポーズとなる。
だが、このおばさんの「六」のポーズは、人差し指の代わりに、親指を立てるものであった。
おばさんだけの、くせなのだろうか。いやいや、これで相手に通じなかったら、するわけがない。たぶん、韓国人の「六」のポーズは、こうなのであろう。
たった十秒ほど続いた、文化摩擦であった。
理解して金を払った後、おばさんは店の外に私を連れて行った。
おばさんは、太宗台のほうを、指差した。
ポーズから、あの入り口に入った、むこうにあると言っていることが、わかる。
そういうわけで、これから太宗台公園の中に、入って行く。
歩かされるなあ。
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ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

歩きながら、そんな歌を、つぶやいた。
今日は、暖かい。
すっかり、春が近づいている空気を、感じる。
韓国の道に、花は乏しいけれどね。
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山道をぐりぐり進んだ、その果てに、とうとう対馬海峡が開けた。
見えないなあ。
やっぱり今日は、空気が霞んで、対馬島(テマド)は見えない。
二日目に釜山タワーからおぼろげに見えたのが、たぶん対馬島だったはずだから、今回の旅行はあれで見えたということに、自己認定しよう。
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あれが、展望台。
だが、今日はどうせ登っても対馬島が見えないから、行く必要はないや。
ところでこの岬の名前になっている太宗(テジョン)とは、新羅の武烈王、金春秋(キム・チュンチュ)のこと。
彼は、さきに慶州でその墓を見学した金庾信将軍とのコンビで、当時百済・高句麗の攻勢に追い詰められた自国の勢いを、超大国である唐との同盟を取り付けることによって、一挙に回復させた。
そのためには独自の国制を放棄して唐に臣従し、暦も官位官服も、唐を模倣した。勝つためにはなりふり構わず、徹底的にやる。太宗は、まさしくカジャの韓国男児であった。カジャ(가자、韓国語で『行こう』)の精神こそが、昔も今も、韓国である。
太宗の判断は、正しかった。半島の世界では強国であった百済であるが、超大国の唐が滅ぼすと決めたからには、もういけなかった。形勢は一変して、太宗の治世中に、百済はあっけなく滅亡した(660年)。
この後に、新羅は唐と連合して、日本軍と合した百済復興軍を白村江(はくすきのえ)で破り(664年)、さらにすすんで唐と共に高句麗をも滅ぼした(668年)。だが唐の本当の狙いは、半島全体の支配であった。唐が新羅を援助した真意は、強敵の高句麗を南から攻めさせる手駒として、新羅をしばらく太らせることであった。戦後、唐は旧百済の領域に兵を置いいたまま退かず、あまつさえさきほど滅ぼしたはずの百済の政権を、自らの軍の支援で復興させようと企んだ。
新羅は、ついに唐と開戦した。
676年、唐の海軍を錦江(クムガン)中流で破り、唐を百済の領域から追い出すことに成功した。こうして独立を保った新羅は、半島最初の統一王朝となった。
新羅の統一史を見ると、半島の宿命を感じる。この半島は、常に四方にある勢力に、囲まれている。半島は、それらの勢力と和し、力を借り、時には戦いながら、独立を保っていかなければならないのだ。
この太宗台は、百済を亡ぼして意気揚揚とした大王が、ここに登ってその絶景を賞した場所であるという。海の向こうにある、かつて人質として囚われていた日本に向かって、ザマーミロの一言でも叩き付けて、高笑いしていたのかもしれない。
この海峡は、韓国名では、南海(ナメ)と呼ぶ。
ここは、日本人にとってむしろ1905年の日本海海戦で連合艦隊が遊弋していった海として、有名である。
だが、詳しく知りたい日本人は、インターネットで調べろ。
それか、『歴史群像シリーズ 日露戦争』(学研)を買って、読め。
日本人にとっては列強の仲間入りをする戦争であった日露戦争も、韓国人にとっては隷従の屈辱への、一里塚だったのだから。私はその内容を知っているが、この稿でベラベラしゃべらん。

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太宗の笑い声が聞こえて来るかのような、まさに絶景。
展望台の下は、断崖絶壁。
人が、入り込んでいる。
つまり、ここまで降りることが、できる。
私は、降りなかった。
この写真を撮るときですら、足元が震えた。
柵もない絶壁に、よくこの人たち進んでいくなあ。
これが、カジャの精神なのだろうか。

Korea!2009/02/20その五

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私は、この旅行で、韓国に対して満腔の愛着を、感じることになった。
だが、本稿に関してだけは、厳しく批判させていただく。それは、ひるがえってわが国日本に対する、批判でもあるのだ。
見たくない人は、本稿を飛ばしてください。

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Korea!2009/02/21その一

いよいよ、最終日。
この日は、この国の真髄を見せ付けられた、一日であった。
この愛すべき国民は、やはり日本人とは、違う。
しかし、違うことを前提として付き合えば、こんなに仲良くなって楽しい外国人は、日本人にとってたぶん世界のどこにもいないだろう。
しぼむ一方の日本を活性化させるために、韓国というウマ辛の隣国を、ぐっと食せ。そして、返す刀で、韓国に食われるのだ。日本人よ!
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キャッシュは少ないが、地下鉄に乗るぐらいは、残っている。
西面で乗り換えて、沙上へ。
それにしても、どうして乗り換えのホームにまで、上り線と下り線の間に柵を設けるのだろうか?
いったん間違った乗り換えの方向に進んだら、途中で修正することが、できない。ずっと手前まで、戻らなくてはならない。
ここまで上りと下りが徹底的に分離されているのを見ると、国防上の理由でもあるのかと、勘繰りたくなってくる。
そのくせKorailは、線路の上を走って向こう側に行けるんだけれどね。ははは。

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思った、とおりだ。
左の写真、英語のできない人のために訳しておくと、
(青)ここでは、駅を乗り間違ったばあい、ホームを渡って反対側の向きに進む電車に、乗ってください。
(赤)ここでは、反対側の向きに進む電車への乗り換えは、階段を登って渡ることしか、できません。
この路線は、比較的乗り間違っても、乗り換えられる駅が、多いようだ。
それでも、乗り換えられない駅が、いっぱいある。
この地下鉄2号線にはこうして路線図に事情説明がしてあるものの、私が今回多用した1号線には、説明がない。
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市外バスターミナルがある、沙上。
チャガルチから、ずいぶん離れている。釜山の街は、うんと大きい。
ターミナルに行って、クレジットカードを見せて、聞く。
「OK イムニッカ?」
受付は、首を横に振る。
使えない。
なんて、ことだ。
公共交通機関たるもの、ホームページにひとたび掲載した事項は、必ず末端まで徹底して実行しなければならないという、市民社会のイロハが、分かっていないのか。
これでは、インターネット立国なんか、夢のまた夢だぞ。大事なのは、プログラムではない。コンテンツなのだ。ネットを通じた、便利で安全なサービスの、構築なのだ。私はこの国が日本と対等のビジネスを行なう能力があると固く信じているから、このような不手際に出っくわすと、余計に腹が立つ。
しかし、私はこんなことで、くじけたりはしない。
こんなにも、よい天気だ。가자、가자と、空の青さが、私に言っている。
沙上は、中心街から遠くても、結構開けている。
道の向こうに、「은행」のハングルが、目に着いた。
この旅行で散々な目に会わされたため、「銀行」のハングルも、読めるようになった。
その銀行は、以前カードで下ろせなかった銀行と、同会社。
クレジットカードで、操作。
この銀行のATMには英語はあるのに、だがやっぱり今回も、キャッシュを引き出すことができなかった。
がっくり、うなだれる。
-コンビニの、ATM。
私は、その手段を、思った。もう、それしかない。
コンビニは、いっぱいある。
私は、その一つに入って、ATMを操作した。
幸いなことに、英語が使える。クレジットカードも、使える。
“Cash Advance”のボタンを押して、暗証番号を入力した。
-出た!
二万ウォンを、引き出すことができた。これからは、このコンビニを使うことにしよう。
この国は、どういうわけか、チープな方がよりよいサービスを、提供してくれる。
そういうわけで、統営行きのバスに、乗り込むことに成功。
この旅行、菩薩か天帝に、守られているかのよな気分だ。苦しくなったとき、必ず道を通じさせてくれる。
だが、試練はこれから先の、ことであった。

Korea!2009/20/21その二

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この、美しい川の流れ。
洛東江の、河口付近。
もし今後、私の前で韓国が不潔だなどと言う日本人が現れたならば、私は今回撮った慶尚道の写真を見せて、その誤りを正す。
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慶尚南道の農村風景は、日本の農村風景と、あまりにもよく似ている。
山があり、美田がある。
所々に無粋なコンクリートの構造があって、風景を汚している。
しかし、そのような工業社会の強姦行為にも耐え忍んで、全体としてやっぱりまだ美しい。
それは、元が美しいからだ。汚れた水が、ない。ゴミの山が、ない。
慶尚道の気候は西日本よりも寒く、冬空は澄んでいる。山には木々が少なく、岩肌が露出している。しかし、これも我らが文明の、もう一つの形だ。日本と韓国が同一の文明圏にあることは、慶尚道の農村風景を見れば、すぐに分かることだ。サミュエル・ハンチントンは、韓国を中国文明圏に含んで、日本を孤立した文明圏だと定義した。だがそれは、真っ赤な嘘だということが、今の私には分かる。日本と韓国との違いは、たとえるならばイギリスとフランス程度、いやむしろイギリスとドイツ・オランダ程度の差にすぎない。
私は学生時代にヨーロッパのイギリス、フランス、オランダの三国を、回った。三国ともに、美しかった。私はフランス人については余り感心せず、オランダ人の親切さと、イギリス人のユーモア精神に、大いなる感銘を受けた。それぞれの国民の気質は、確かに違っていた。だが、同じヨーロッパ人たちであった。過去の悲惨な戦争と支配・被支配の残虐をくぐり抜けて、仲良く喧嘩できる間柄に、なっているようであった。その後、イギリスはいまだにポンドを捨てていないが、オランダ、ドイツ、フランスは、独自通貨を捨てて、ユーロを作り上げた。
彼らヨーロッパ人と我ら東洋人は、もとより違う。私は旅行中、始終酒を飲んでいたが、そんなヨッパライの私に”Are you drunk?…Ha!ha!ha!”と笑ってくれたのは、イギリスの辺境、ウェールズ人のにいさんただ一人だった。ヨーロッパでは、いっぱんにヨッパライは、喜ばれない。
そんな私であるが、今週の私は、昼酒だけは飲まない。この目で見て、この耳で聞いたことを、克明に記録するためだ。とか言いながら、これからしばらく後に、結局昼酒するんだけれどね。
今は、まだソルラル(설날、お正月)明けから、一月経っていない。
家々の門に、新年を祝う張り紙が張られているのを、所々で見かける。
韓国のお正月は、旧正月だ。日本と、ずれている。
この二国、正月をいっしょにするべきでは、ないだろうか。
その方が、地域で共に祝うことが、できる。
私は、日本も旧正月に新年を移してしまうことを、このさい薦める。
そうすれば、日本、韓国、中国、台湾で、同じ日がお正月になる。どうせ日本のお正月は、世界標準でない。西洋では、クリスマスこそが、新年の祝いに相当する。西洋の一月一日は、年越ししてシャンペン飲んで、それでおしまいだ。
東アジアの大同平和を望むために、私は雄大な戦略として、日本の正月を旧暦で祝うように改めることを、薦める。
韓国では、新年のための門の張り紙に、「立春大吉、萬事亨通」と書いて、貼っている。
私は、読める。だが、たぶんこの国の人たちは、悲しいことに大部分の人が、この字をもう読めない。
だが、だから私には、面白い。
これは、中国の春貼(チュンティエ)と、同じ習俗だ。いま、中文Wikipedhiaで調べると、韓国ではこれを立春榜(입춘방)、立春書(입춘서)、あるいは立春貼(입춘첩)と、呼んでいるようだ。
日本には伝わらなかった、新年の習俗であるが、中国の春貼がたいてい赤地に金字ではでやかなのに対して、韓国のイプチュンバンは、白紙に墨で、控え目である。呪術的な文字も、「立春大吉、萬事亨通」と、おだやかなものになっている。「恭喜發財」とか「年年有餘」などという、お金儲け祈願のまじない言葉は、決して使わない。これらは、中国の春貼で、よく使われる言葉。

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統営への途上、固城(コソン)附近の、風景。
この写真を見てまだ日本と韓国が別文明だと言う輩がいたならば、それは脳細胞が死滅していると、診断した方がよい。
慶尚南道は、いにしえの弁韓に相当し、ここに日本と密接な関係にあった加羅(カラ)国があった。
加羅が日本の植民地であったか、それとも日本を征服した大和朝廷の故国であったのか、そんなことは、この際どうでもよい。
千五百年を遡れば、この土地と日本列島が、海峡を隔てて断絶していたのだろうか。
同じジャポニカ種の米を、両国は太古から今でも育てて、食っている。水田の風景は、あまりにもよく似ている。そして、韓国人と日本人は、「ウマミ」が共に分かる。互いに、道端にゴミを捨てない。貧しさを尊いとする、痩せ我慢の心意気がある。
友好か外交的利用か、あるいは争いであったかは、様々であったろう。
しかし、いずれにせよ、かつての半島と日本とは、現在よりもむしろ近かったはずだ。
白村江の戦い以降、両者を隔てたのは、互いの「内向き症候群」なのだ。だから、両国は経済的に頑張っていながらも、二十一世紀の今になって、次の道を見つけることができなくなって、立ちすくんでいる。
我らの文明を、今こそ再発見するべきなのだ。
日韓の文明は、世界に冠たる文明であることが、いずれ分かる日がやって来る。
必ず、やって来る。我らだけが、地球環境を、人の命を愛しながら、救うことができる。西洋文明の極致であるアメリカにモノを申しながら、互いに切磋琢磨できる文明は、おそらく日韓に中国・台湾を加えた、東アジア文明を置いて、他はない。これからの人類には、対立しながら高めあうという、弁証法が必要なのだ。いま、西洋文明は全てアメリカという大河に流れ込んで、オルタナティブが枯れてしまっている。だが東アジアの文明は、少しの政治的工夫だけで、アメリカ文明に匹敵できる、オルタナティブを作ることができる。この慶尚道の田園の美しさ、そしてそれを共有している日本ならば、できることだ。やらなければ、ならないのだ。東アジアのために。そして、人類のために。

Korea!2009/20/21その三

2009年02月25日

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統営の、市外バスターミナルに到着。
地方都市であるが、やっぱり清潔なものだ。
フランスの首都パリは、驚くほどに美しい。
だがあれは、市政府が金をかけて、磨いているから美しいのだ。
特に何もしないで美しい街を持つことが、どれほどの美徳であるか。そして、そのことに気付いていないこの国民が、何と奥ゆかしいことであるか。
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某ガイドブックの地図と、正午の太陽の方角を便りに、南へ歩いて行ったが、、、
なんだ、ここは?
うーん、どうやら、目指す方向を、間違っているようだ。
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農家の畑で、牛さんが草を食んでいた。
もうちょっと近づいて写真を撮ろうと思ったら、牛さんがこっちを向いて、私をじろりと睨んだ。
綱が付いていないし、角が切られていない。
牡牛だと思うが、去勢されていなかったら、気性が荒いに違いない。
体当たりなんぞされたら、一大事だ。
私は、すごすごと退散した。
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韓国の道には、信号のない横断歩道が、ここのようにいっぱいある。
で、そんな道路に、車がびゅんびゅん走っている。
信号がアテにならないことだけは、韓国は香港と同じ流儀である。
学校の裏庭で、中学生たちがサッカーをやっていた。
やっぱり、韓国のナショナルスポーツは、玉蹴り遊びなのだな。
蹴り上げたボールが、勢い余って柵を越えて、私の歩く道の前に、ころころと転がり落ちた。
私は拾って、少年たちに投げ返した。
三人の少年たちは、私に頭を下げて、一礼した。
いっぱんにこの国では、街でも電車の車内でも、日本でならばあちこちで見かけるような、挙動不審で言語不明瞭、群れるだけしか能のない、そんなクソガキどもを見かけることが、ない。
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しようが、ないなあ。
警察で、聞いてみるか。
「トンヨンヘヤンギョンチャルソ」。
ゆっくり読めば、統営海洋警察署のことだと、おおかたの見当が付く。
しかし、まだハングルを瞬時に反射神経で判断できるほど、私はこの文字をまだ習得していない。
道路にあった案内板の英語を頼りに、進んだまでのこと。
門衛のにいさんに、英語で聞く。
若いにいさんは、好青年だ。たぶん。表情で、分かる。
にいさんは、答える。
「ストリート。インフォーメーションセンター。クエスチョン。」
???
にいさんは、道の向こうを指差しながら、英単語を繰り返す。
次の瞬間、分かった。
-にいさん、英語の動詞が、使えないんだ。
解釈すれば、「この通りの向こうに、インフォメーションセンターがあります。そこに行って、質問してください。」なのだ。にいさんが、言いたがっていることは。
私もそうだが、日韓の国民は、本当に英語オンチだ。
英語と日韓語は、言葉の発想が、根本的に異なっている。私なんぞ、もう何年も英語を勉強しているのに、今年初めにあったオバマ大統領の就任演説のライブ放送を、半分ぐらいしか分からなかった。美しい英語で、新大統領が演説してくれているというのに。後でニューヨークタイムズのサイトで演説全文を読めば、平易な言葉で語っていることが、明らかなのに。
私は、一笑して、にいさんと握手した。
インフォメーションセンターは、市外バス停のすぐ裏手にあった。
そこで市内地図をもらい、バスターミナルの前にある市内案内図を、いま一度見渡した。
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どうして、私が着いた直後に、この案内図を無視したのかが、いまようやく分かった。
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、、、もう、何も言うことがない、、、!
どうして、他の施設には英語があるのに、「現位置」(현위치)だけハングルオンリーなんでしょうか。
どうして、”You Are Here”を書き忘れるという一大事を、こんなにも大胆にやらかしてくれるんでしょうか。
しかも、こんな目立たない色で?
この掲示板の英語は、全て韓国人に向けたファッションだということが、旅行者に丸分かりだ。
こんなに、綺麗に描かれた地図なのに、この一点だけで全て台無し。
もう、ここまで来ると、かえって笑えてくる。
これが、「内向き症候群」なのだ。
地図を詳細に調べたところ、私が持っていたガイドブックと、市外バスターミナルの位置が、まるで違っていた。
ここから、統営市街地までは、ガイドブックの地図よりも、ずっと遠い。
私は、腹立ちまぎれに、ガイドブックを道に叩き付けた。
不手際は、日韓双方で、あいこであった。

Korea!2009/02/21その四

バスに乗らず、歩いて市街地まで、行こうとする。
バス賃がもったいないわけじゃ、ないんだよ。
バスに乗っていたら、空気が分からない。音が、聞こえない。興味のあるものを見かけたとき、道草ができない。
だから、歩くのだ。だが、、、今日の午後は、暑い!
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道の途上に、Korean Warの戦功者碑が、建てられていた。
日本人は、この戦争のことを、あまりにも知らなさすぎる。
1950年8月末、北朝鮮軍はこの統営の北にある、固城附近にすら、浸透していた。
残るは、釜山を最後の砦として、北の浦項(ポハン)、西北の大邱(テグ)、西の馬山(マサン)を繋ぐ、釜山円陣のみ。キーン少将が率いる米軍第25師団が、8月に固城から晋州(チンジュ)を目指して反撃するキーン作戦を行なったが、頓挫。9月には北朝鮮軍第6師団と第7師団が攻勢に出て、キーン師団長は後方の馬山市民の、強制疎開命令を出すまでに追い詰められた。
開戦からわずか二ヶ月で、国連軍は釜山円陣で耐えなければならないところまで、追い詰められた。

アメリカの態度からは、北朝鮮軍が北緯三十八度線を越えた場合には外交上の抗議以上のことが行なわれることになるということが、モスクワや北朝鮮の首都である平壌の政策決定者達には伝わらなかった。彼らは、アメリカが一九八〇年代後半の和解的態度から一九九〇年のペルシャ湾における大規模な展開へとその姿勢を変化させたときのサダム・フセインのように驚いたに違いない。モスクワや平壌の共産主義者達は、アメリカの指導的立場にある人々が朝鮮半島をアメリカの防衛境界線外と位置づけた発言を真に受けて、その発言に重きをおいていたのである。
(ヘンリー・A・キッシンジャー『外交』第19章より。岡崎久彦監訳)

1950年、アメリカの半島に対する基本姿勢は、「防衛線の外」であった。
トルーマン大統領は、1949年に統合参謀本部の勧告を受けて、韓国から米軍を撤退させた。東京のマッカーサー将軍は、1949年3月、新聞のインタビューで、「我々の防衛線」を、フィリピン諸島、琉球諸島、日本、アリューシャン列島であると、言明した。こうして彼は暗黙のうちに、韓国が防衛の線外にあることを、ニュアンスした。さらにアチソン国務長官は、1950年1月12日ナショナル・プレスクラブで演説し、朝鮮半島がアメリカの防衛境界の外であり、大陸のいかなる地域を保障する意図もない、とはっきり表明した。
これらの一連の声明が、北朝鮮にサインを与えた。
前年に蒋介石に対して勝利した中共がやったことを、北朝鮮がやったとしても、アメリカは黙認するであろう、、、
こうして、1950年6月25日、北の侵攻が始まった。アメリカは北朝鮮の予想に反して、直ちに国連で決議を取り付けて、国連軍派遣を決定した。しかし、米軍をすでに撤退させていた韓国側は、事前の準備が北朝鮮に比べて、貧弱であった。開戦当初には、北朝鮮軍の繰り出すT34戦車を破壊するだけの、対戦車兵器がなかった。T34を前面に押し出して進む北朝鮮軍に対して、韓国軍とにわかに急派された少数の米軍では、なすすべがなかった。7月13日韓国入りした米第8軍司令官ウォーカー中将は、戦力差の挽回には増援部隊を待つより他に方法がないとの判断に達し、とりあえず到着した米軍に、遅滞行動(敵の進撃を遅らせながら、撤退する行動)を命令した。
日本で学ぶ現代史では、昔なんぞこの戦争は米軍の挑発により始まった、などという嘘が、教えられていた。私が小学生の頃読んだ、マンガの日本史シリーズにも、はっきりとそう書いていた。そのマンガでは、Korean Warは日本にとってまるでひとごとのようで、むしろ戦争特需によって日本経済が一挙に立ち直った喜びを、生き生きと書いていたものだった。
昔の時代から、ずっと。
誰も、隣国を知ろうとしない。だから、私が読んだマンガ(ベストセラーだった、はずだ)のような嘘が、堂々とまかり通っていたのだ。
この戦争について、これ以降のことについては、詳しく書かない。
後はマッカーサーの立てた仁川(インチョン)上陸作戦の成功によって、補給線の延び切った北朝鮮軍が崩壊し、以後、北朝鮮軍は戦いにほとんど影響を及ぼさなくなる。それから休戦まで続いた戦いは、事実上、介入して来た中国人民解放軍と、国連軍との戦いであった。
今も、ただの休戦中である。終戦したのでは、ない。
戦後の日本は、かつての東アジアにまたがった帝国を精算させられて、徳川時代以来の固有の領域に、再び閉じこもった。
列島の外で、戦後の時代に何が行われて来たのかについて、極めて鈍感となった。
日本列島の内において、マッカーサーとGHQは、進歩であった。
そのアメリカは、かつて大日本帝国の版図であった沖縄、台湾、そして韓国において、反共の戦いためになりふり構わなかった。
列島がデモクラシーと平和を謳歌している最中、かつての大日本帝国の版図においては、沖縄はアメリカ軍の占領下であり、韓国と台湾はアメリカに後押しされた独裁政権であった。
日本は、周辺諸国を無視したままで、経済成長を謳歌した。
そうして、六十余年が、過ぎた。
今後の日本は、どうやって生きていく、つもりなのか。
戦後の日本は、いまだ過去の大日本帝国の後遺症に、正面から向き合っていない。
大日本帝国はなかったこととして、これまで頬かむりしたまま、周りを見ることもなく、生きてきた。
いま、日本の眼前に、かつて大日本帝国が植民地化し、独立運動を暴力的に弾圧し、民族性を抹殺することを企み、そして戦争に負けた結果、イギリスのように独立を支援することもなく放り出した、半島がある。
その半島は、米ソの対立がもう歴史となったはずなのに、いまだに冷戦の時代のままに、南北に分断されている。
これで、よいのであるか。
かつて征服した土地を、そしてすでに先進国に到達した南半分を持つ土地を顧みなかったこれまでの六十余年を、これからも続けるつもりなのか。
現在の日本は、行き詰まっている。
大日本帝国が崩壊した後、六十余年間外と交わることもなく繁栄して来た民族のエネルギーは、現在とうとう枯れ果ててしまった。このままではもう先に、何もない。
自分たちの周囲に、自分たちに近い文明があることを、もう一度思い出せ。すでに、かつてとは違って、周囲の諸国はもう先進国ではないか。
かつて征服して、植民地として己の戦争に利用して、その後放っぽり出して逃げた国を、今のままでは相手が信頼してくれるものか。
信頼を得たいならば – そして、得なければ日本の未来はないと、私は考える – 、謝るべきことははっきりと謝らなければならない。日本は、過去の一方的な侵略行為の全てについて、日韓併合時代だけに留まらず、それ以前の帝国主義時代の数々の事件についても、いやさらに遡って四百年前の豊臣秀吉が仕掛けた兇悪な侵略に至るまで、きれいに謝罪するべきだ。日本と韓国がもし二人の人間であるとするならば、そこまで謝罪しなければきっと将来のために協力し合うことができないだろう。過去を詫び、不信を洗い流せ。信頼を得ることは、屈従でも土下座でもない。将来を買うための、投資だと思わなければならない。半島は、すでに先進国なのだ。その国民は、日本人が思っている以上に、文明国民なのだ。この国民には、日本人にはない美徳がある。そして日本人にも、半島の国民が持っていない美徳を持っている。両国の協力は、きっと互いを再び活性化させる妙薬と、なるに違いない。政治の、工夫しだいなのだ。
記念碑を通り過ぎて、さらに歩く。
やっぱり、綺麗な遊歩道が、国道の脇に作りつけられている。
そして、この国の道の特徴として、坂だらけだ。
遠い。
とてつもなく、遠い。
ひょっとして、市外バスターミナルから市街地までは、歩いて行くことなど不可能なほどに、遠いのであろうか。
ずいぶん歩いたのに、市街地どころか、山と海しか、見えない。
山も海も、美しいのにね。それを楽しむ体力が、だんだん尽きて来た。
これは、どう考えても、バスを使わないと到達できないほどに、遠いのであろう。
しくじった、、、

Korea!2009/02/21その六

この辺りから、写真が減ってきます。
この時点で午後二時ぐらいですが、以降午後六時頃まで、疲労と酒のせいで、記憶がややあいまいです。
自分の頭の中に、印象に残った色彩をもとにして、書いて行きます。
キキッ、と、ミニバスが止まる。
このバスの人に、統営への道を、聞いてみよう。
「エクスキューズ、ミー。」
この旅行中、必ずこれを使っている。
「ちょっといいですか?」は、「잠깐만요(チャンカンマニョ)?」なのだが、難しくて発音できない。
中には、バス旅行中の人たち。
私に声を掛けたのは、チェ・ソンダルさんだ。後で、名前を教えてもらった。
チェさんは、英語ができる。私と同じぐらいに、できる。同じように、ゆっくりしゃべる。それが、嬉しい。
「英語、できる?」
チェさんは、私に聞く。もちろん、英語で聞いている。以下、同じ。
「できます。それで、統営への道は、これを進めばいいのですか?」
私は、チェさんに聞いた。
「で、どこに行くんだい?」
チェさんは、貧相な私と違って、恰幅の良い人だ。ビジネス大学院に行っている、自慢の息子さんが一人、おられる。とても優秀でハンサム、すらりと足が長いとか。そんな男児のことを日本語で何と言うのかな、と聞かれたから、とりあえず、
-イケメン(이케멘)。
と、答えておいた。
このバスは、ソウルから旅行に来た、バスの一行であった。チェさんも、ソウル在住だ。
話を元に戻すと、私が統営の地図を見せて、南望山に丸を書いて示したら、
、、、いつの間にか、バスに同乗していた。
ひょっとして、連れて行ってくれるのか。これは、有り難い。やはりこの国の人たちは、人情家だ。
「君、英語はヘタだね。」
チェさんは、ずばりと言って、1.8リットルボトルの酒の蓋を空けた。
チェさんは、カバンの中から、サリンジャーの”Catcher in the rye”を、取り出した。
「僕は、英語を学んでいる。そして、詩を書いている。俳句に、興味がある。」
明らかに、この人はインテリだ。
コップに、ソジュを注いでくれる。
出されれば、私は飲む。
もう、一杯。
統営は、ずいぶん遠いんだなあ。
旅行連れは、チェさんの他に、6,7人。
おばさんが、みかんをくれた。
上機嫌で韓国語で話し掛けてくれるが、もちろん一言も分からない。
チェさんが、おばさんの子供たちについて説明してくれたのだが、残念ながら記憶から吹っ飛んでしまった。とにかく、日本に何かしらの事情で、行っているということだ。
そこで、私は言った。
「ならば、、、ヨンサマ!」
おばさんが、大笑いした。
「あ、ヨンサマ!アッハハハ!」
ペ・ヨンジュンは、日韓の最大公約数だ。
私は、「ヨンサマ(용사마)」が韓国で流行語となっていたことを、旅行の前に読んだことがあった。
残念ながら、私はテレビを観ないので、ヨンサマのご活躍を拝見したことがない。
だが、釜山でも、日本人が来そうな場所には、必ずヨンサマのポスターが貼ってある。
遠い関係の者であっても、人と人とを繋げる力を持つヨンサマは、まるで菩薩のようだ。
後ろに座っていたおじさんからも、みかんを貰った。
そして、酒を空けた私の紙コップに、すかさず注いでくれた。
私は韓国の酒礼をよく知らないが、少なくとも年長者から酒を注がれたときには、両手で受けるべきことだけは、知っていた。
注いでくださったソジュを両手で受けて、飲んだ。
日本の礼(?)では、少なくとも注がれた一杯目は、飲み干すべきだ。韓国でも、たぶんそうであろう。
飲んで、私は破顔して、言った。
「マシッタ(맛있다)!」
おじさんが、同意して、大笑した。
「おー、マシッタ!」
数少ない、覚えていた韓国語が、役に立った。
「うまい!」と言えば、喜んでくれない人なんかいねえ。
だが、韓国の料理は、本当にマシッタだよ。
あー、統営は想像以上に、遠いんだなあ、ハハハ。

Korea!2009/02/21その七

チェさんが、私に言った。
「僕は、父と共に、昔日本にいた。」
私は、聞いた。
「どちらに?」
上の問い、日本語に訳しているから、敬語にしている。本当は英語で話しているから、英語に敬語なんかない。しかし、韓国語には、敬語がある。ちなみに、漢語にはない。
チェさんは、言った。
「旭川にね。」
私は、言った。
「旭川ならば、私は学生時代に旅行したことがあります。旭川、札幌、紋別、根室、釧路、稚内、小樽、函館、、、」
チェさんは、自分の記憶を手繰り寄せるかのように、都市の名前ごとに、わたしに相槌を打った。
「紋別で、釣りをした。田舎町だ。」
チェさんは、釣竿を引き上げる、仕草をした。
チェさんは、言った。
「父は、もう余命いくばくも、ない。パーキンソン病って、知ってる?ああ、知ってるか。それだ。酒の、飲みすぎさ。もう、自分で食べることも飲むことも、できない。とても悲しい。」
チェさんは、口をパクパクさせて、父上のヨイヨイの状態を、説明した。
私は、”I hope he’ll get healthy again.”と、祈った。
彼は、静かに首を横に振った。
“No. There’s no hope.”
この国の人は、家族を本当に、大事にしている。
私は、この旅行で、それを強く感じた。
チェさんは、私に言った。
「君のご両親は、元気かい?」
私は、答えた。
「はい。二人とももと公務員で、すでにリタイアしています。年金をもらって、健康に暮らしています。それが、うれしいです。」
チェさんは、それを聞いて、喜んでくれた。
それからチェさんは、私に俳句を書いてくれるように、頼んだ。
「バショーのやつを、書いてくれないか。ボチャーン!ってやつ。」
チェさんは、「ボチャーン!」と言って、手でモノが落ちる、ポーズをした。
帰国してから飲んだ夕映舎氏に、このエピソードを話したら、
「あ、それは『古池や、蛙飛び込む、、、』のことを、言っていたんやろ」と、私に示唆してくれた。
あ、そうだったのか。
私は、正直申すとこの句を秀句だと思っていなかったので、チェさんに言われても、思い出せなかった。
それで、私は自分の好きな古典俳句を思い出して、ノートに書いて渡した。

菜の花や 月は東に 日は西に
蕪村(18C)

静けさや 岩にしみ入る 蝉の声
芭蕉(17C)

「これらは、俳句の二大巨人です。」
私は、チェさんにノートを渡して、説明した。
チェさんは、平均的な韓国人よりも、漢字が分かる。
だが、ひらがなは、読めないようだった。
いずれ勉強する、と言いながら、私の詠む句を、暗誦しようと試みていた。
私は、大阪生まれで、東京の大学を卒業して、いま京都に住んでいる、と説明した。
チェさんは、私の通った大学について、言った。
「その大学には、韓国の文学者が、いっぱい通っていた。だから、その大学は韓国でも、有名だよ。」
私は日本人の学歴誇りが嫌いなので、自分のブログなどでも出身大学を、通常は書かない。まあ、、、早稲田大学、なんだけれどね。
だがチェさんの息子さんが通っている大学を、失念してしまった。確か「ヨンイ」と発音していたから、延禧大学(延世大学の旧名)だったと、思うのであるが。
チェさんは、言う。
「東京語と、京都語は、どれくらい違うのかね?」
私は、答えた。
「ぜんぜん、違います。東京語をたとえ覚えたとしても、京都語を聞いても、全くわかりません。」
私は、一つ例を、挙げた。
“I love you.”
「これを、東京語で言えば-」
もちろん、このとき言うのは、いわゆる「標準語」だ。

私は、あなたが好きです。

私は、アナウンサーのイントネーションで、言った。
「そして、京都語ならば-」
私は、地の関西弁を、出した。

うち、あんたのこと、好きやねん。

全くのネイティブの発音で、言った。
チェさんは、しみじみと聞いて、批評した。
「僕は、京都語の方が、好きだね。東京語は、サムライの言葉だ。サムライも、いい。だけど、京都語の方が、僕を感動させる。」
私は、ネイティブの東京弁をしゃべることができないし、しゃべってみようとも、思わない。ネイティブがしゃべったら、彼に違う印象を与えるのかも、しれない。だが、「標準語」は、聞く者に温かさを伝える言葉では、決してない。

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