韓国旅行記

Korea!2009/02/17その三

2009年02月18日

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統一殿で、バスを待つ。
日本人みたいな顔をした学生ぐらいの若者と、二人で待っていた。というよりも、韓国人の顔は全てどこかで見たような顔ばかりであって、日本人離れした顔は、街を歩いていても、バスや地下鉄に乗っていても、まずお目にかからない(西洋人は、釜山ではごくまれにしか見かけない。)
私がどうやってバスに乗り降りするべきか、バス停のハングル表示の運行表を見ながら苦労して解読しようとしていたら、学生っぽい若者が、私に声を掛けた。
「ヨギヘ、、、、スムニッカ?」
聞き取れないし、たとえ聞き取れたとしても、単語を知らないのでわからない。私は、乏しい韓国語の知識を動員して、運行表を指し指し、「この『仏国寺駅』に行きたいのです。」と彼に言った。
彼の言葉が、変わった。
「日本人ですか?」
私は、答えた。
「そうです。日本人です。」
若者は、じつにきれいな日本語を話すことができた。
彼もまた、同じバスに乗る予定であった。それで、待っている間とバスに乗り込んでから別れるまで、わずかの時間であったが会話を交わした。
「私は学生で、慶州の生まれです。大学はソウルに行っているが、今は冬休みなので実家に帰ってきたんです。私の実家は、向こうの方です。」
彼は、バス停から南の方角を指した。そこには一望の冬枯れた水田が、広がっていた。
白皙の青年で、いかにもインテリそうだ。東大生か慶応生だと日本人に言っても、きっと信じてしまうに違いないほどに、日本語がうまい。
「日本語、うまいね。私が完全に分かるよ。」
彼は「まだまだ全然勉強できていない」と謙遜した後で、どうして日本語を操れるのか、その理由の一端を言った。
「私は法学の研究をしているので、漢字を勉強しなければならない。韓国では法学の研究者だけは、漢字を学ぶ必要があるのです。それで、日本語も学ぶことができる。」
つまり、ハングルオンリーで日常生活を通している韓国人であるが、漢語(中国語)由来の抽象的な言葉を誤解なく法文として書き記すためには、どうしても漢字を使わないとならない、ということであるに違いない。
これは、よく分かる。
日本語がもしひらがなオンリーとなったならば、法文は全く読めなくなってしまう。韓国語も、日本語も、同音異義語が非常に多いのだ。
今の韓国人は、中学生から高校生まで、一応漢字の学習を受けている。だから、漢字学習が禁止すらされていた一昔前の世代に比べれば、今の若者にはまだ漢字を読める人間の数が多い。彼は、そう言っていた。
漢字が読めなければ、韓国人にとって日本語はあまりにも難しい言葉となってしまう。
彼のように専攻として必要だったために、難しい漢字までも詳しく学ばざるを得ない人間は、たぶん今でもあまり多くないに違いない。
私は次の日に地下鉄の改札口で日本人へのガイドをボランティアでやっている、日本語の勉強に取り組んでいるおばさんと、しばらく話をした。
彼女の日本語は、きれいなものであった。
しかし、おばさんは嘆いていた。
「日本語の漢字が、難しい。まだ、簡単な文字ぐらいしか、覚えていない。それに、一つの漢字で、いくつも読み方があるよ。私の姓は『文』(ムン)なのだけれど、これで『ぶん』、『もん』、『ふみ』、『あや』の四つも読み方があるよ。」
おばさんに言われて、そうだろうなあ、と思った。
この日同行した青年の彼が言うには、日本語は韓国語と作りが似ている、という。
私も、少し学習しただけで、その通りだと思った。
そして、彼が言うには、日本語の発音は、韓国人にとって難しくないそうだ。
私にとって、少なくとも韓国語の発音は、非常に難しい。
だからひょっとしたら、韓国の人たちにとって、日本語はしゃべる方がむしろ読み書きよりも容易な言葉なのかもしれない。韓国語も日本語も、語彙の圧倒的多数は、中国からの輸入語あるいはそれを基礎にして近代に創作された、漢字から成る造語だ。
だから、文法が酷似していて、その上語彙が重なっているからには、発音さえできればしゃべる道に近づけるのかもしれない。
その代わり、私は彼に言った。
「日本人は、香港とか台湾に行けば、言葉を知らなくても文字を見ればいっぱつで意味を理解できる場合が多い。それは、漢字が頭に叩き込まれているからだ。日本語は、漢字がなければ書いても何を言っているのかわからないから、捨てられないのだよ。」
ちょっと悲しい文化だと、思った。
日本人は、ハングルの壁があるために、韓国語が読めない。
韓国人は、漢字の壁があるために、日本語が読めない。
文法と語彙は、互いに非常に似通っているにも、関わらずだ。
同行した青年の彼は、日本に五回行ったことがあるという。
東京に三回、京都・大阪に二回だとか。
一方の私はこれが初めての韓国だと言った後、彼は私に聞いた。
「韓国は、どうでした?」
私は、その時思っていた、最大の印象を答えた。
私は、手に持っていた登山ステッキで、目の前のまぶしく冬の陽に照らされた道をざっと指して、言った。
「道が、きれいだ。私は釜山の市街地からこの慶州まで歩いたけれど、道端にゴミが落ちているのを、ほとんど見かけたことがない。あなたたちはこんなもの何とも思っていないかも知れないが、これは世界にもまれに見る美徳なのですよ。道にゴミを捨てたり、唾や痰を吐き捨てたりすることが悪いことだと分かっているから、こんなに道がきれいなのです。」
私は、かつて香港と台北に行ったときの印象を、話した。
もとより私は、彼らのことを偉大な住民だと思っている。
しかし、この韓国の美しい道に比べて、あまりにも公道徳が足りない。
台北の西門街の汚らしさは、日韓の精神と、残念ながら何かが違っていた。
だから、私は言った。
「中国人の悪口を言いたいとは、思わない。だけれども、彼らは道を汚すことを、あまり悪いことだと思っていないようだ。でもこの国は、そうではないことが、道を見て分かったよ。だが日本の道は、昔きれいだったのに、今やどんどん汚くなっている。残念だ。」
青年と同行してバスに乗って、わざわざ私のために降り先を運転手に告げて、彼は降りて行った。
去る彼に、私は合掌して、感謝した。
バスは、走って行く。
どうやら私を、仏国寺に連れて行くように、彼は告げたようだ。
本当は『仏国寺駅前』で降りて、そこから乗り換えて掛陵(クェヌン)に行こうと思っていたのだが、まあいいさ。
行き違いも、多少の縁だ。
私は、世界遺産であるらしい、仏国寺に向けてバスに揺られて行った。
仏国寺そのものには行ったが、写真を撮っていない。
これまで京都で寺社仏閣を散々見てきた私の目に、残念ながら仏国寺の造形は、感動を起こさなかった。
これも秀吉の半島侵攻時代に消失した寺で、秀吉さえいなければもっと素晴らしい遺跡が残っていたと非難されれば、反論のしようもないが。
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世界遺産は写していないが、脇寺の石積みを写した。
韓国は、石の美だ。
石が、何とも美しい。
この寺は撮影禁止で、私がうっかり寺院の中を撮ってしまったら、寺内を管理しているおばさんから押しとどめられた。
私は寺の左脇にあった石積みがどうしても撮りたいと思ったので、辞書を引き引き「この石積みも撮影禁止ですか?」と紙にハングルで書いて、おばさんに渡した。
結果、撮影禁止なのは、如来像を信仰する、中の仏殿だけであった。
おそらく、信仰の場所は神聖なので、撮ってはいけないということなのだろう。
仏寺では、この国の人は日本人よりもずっと熱心に祈っている。特に、女性が祈っている。ひょっとして仏教は、女性の宗教なのかもしれない。
仏国寺を後にして、バスに乗る。日没には、まだ少し時間がある。
バスの中ではラジオ(?)の放送が、流れている。
台北の街と、違うところ。
台北では、街中でもテレビでも、日本語のポップスや、漢語に翻訳した演歌が、次々に耳に入って来る。
だが、韓国では、日本語の歌を、街中で決して聞くことがない。
K-Pops(こんな言葉があるのかどうか、知らない)の音作りは、日本のものと音楽的にもほとんど同水準のように、耳で聞いて思える。違いは、韓国語で歌っていることだけだ。
この国は、台湾よりも大国なのだ。
大国だから、自国内の文物で、自足できるのだ。だから、歌も隣国から輸入しない。
だがそれは、制約になるぞ。すでに、なっているぞ。
私は、そう思った。日本人についても痛烈に言えることを、この国にもあてはめずにはいられない。
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「博物館」(パンモルグァン)でバスを降りて、慶州国立博物館に入った。
慶州の各遺跡に置いている説明板にある日本語の説明は、釜山のものよりも詳しくて、英語の説明と遜色がなかった。
だが、新羅の見事な文物を収めるこの博物館の内部に入ると、また日本語が消えた。
早く両国の国民が、当然の前提として隣国の説明を併記する時代が来ることを、望む。
写真は、統一新羅時代の土偶。
この造形に、大いなる味わいを感じた。
新羅は黄金の国と呼ばれ、この博物館にも展示されている豪華絢爛な金冠を始めとして、黄金の装飾品が数多く出土している。
それらの金細工の細かさには、作り手の一種の執念を感じた。
金属加工の技術そのものは、すでに中国の漢代以前に、完成している。
春秋戦国時代には、蝋で取った型を用いて、青銅の鋳物で恐ろしいまでに細やかな器が、作られていた。かつて日本の国立博物館で展示された『曾侯乙墓』出土品の、精工無比な春秋時代末期の青銅器を見て、いったい誰が戦慄せずにいられようか。
漢代の中山靖王墓から出土した玉衣は、玉(ぎょく)の板片にごく小さな穴をうがって、そこに細い金の糸を通して連ねていた。金の糸は、絹の糸のように細く伸ばされていた。
だから、新羅時代ならば、中国から技術さえ輸入すれば、この博物館で展示されていたような細やかな金属細工を作ることは、可能なことだった。
注目すべきは、だから技術ではなくて、細かいデザインを愛好する、その意志である。
新羅の金冠や銅馬具(同じデザインの馬具が、応神天皇陵からも出土している)のフラクタル図形のような細かさは、繊細なものに心を惹かれる新羅人の趣味を、表しているに違いない。
その一方で、上の写真のような、人物を思いっきりデフォルメして活写した、その造形。
中国の文物にはない、パワーを感じる。中国は六朝から隋唐時代になるとよほどに文物が洗練されて来るが、かえって古代の文物が持っていたような呪術的な生命力を、失ってしまったように思える。その辺境で文明を輸入した新羅は、しかしいまだに中国とは違った美をこしらえるパワーを、持っていたのではないか。
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展示されていた、新羅時代の壷。
デフォルメされた動物の群れに混じって、この見事なまでに土でひねり出された、女の尻の形。
ここまできっちりと見たいものを一挙に作って見せた観察眼は、中国の文物に決して見られない。
ギリシャの人物彫刻とは違う系統の、人間を描写する目が、新羅人にはあった。現代日本人のマンガを描く目に、きっと通じるものが韓国にはあった。
もっとも、この尻の女性の顔は、目と口を三本の線で描いただけの、超デフォルメであったが。
慶州から帰って、昨日スンドゥブチゲを食べた店にもう一度行って、テンジャンチゲを頼んだ。料金は、同じ。
テンジャンチゲもまた、うまかった。味噌汁であり、味噌汁でなし。しかし、味わいがあることだけは、同じだった。
山歩きで疲れきった体に、付け出しのキムチがうまい。
韓国料理は、激しく体を動かした後に食べるのがよい。
肉体労働を小人の業として卑しむ儒教の君子たちが、本当に現在の韓国料理を開発したのであろうか?私は、ごはんをチゲに浸しながら、ふと疑問に思った。

Korea!2009/02/18その一

2009年02月19日

はっきり言って、疲れた。
一日目に恥の限りをかいて、二日目に昨日のダメージをひきずりながら歩き、三日目に本格的な登山をしてしまった。
猛烈に、風呂に入りたくなった。
私は温泉というものが嫌いな日本国異人で、旅行に行って風呂につかるだけで観光した気分になる輩の心情が、理解できない。だから、旅行に行っても、地元の温泉なんぞに目もくれない。
しかし、この日の朝には、とにかく湯の中で体をほぐしたいと思った。
ホテルの近くに、サウナらしきものがある。早朝まだ暗い頃、ビルの十階にあるサウナ(「チムジルパン」などと名乗っているが、内実はサウナそのものだ)に行って、汗を払った。
サウナの中でも、本当に韓国語オンリーだな。
私がゆっくり英語で話しても、店員の誰も理解できない。掃除のおじさんだけが日本語を理解しようという心構えがあって、シャンプーを欲しがった私に、「サンプル!」と言って、渡してくれた。
だが、風呂から上がって、フロントに借りたシャンプーを返しに行くと、おじさんがどこかに行っていた。残った店員の誰も、日本語は当然として、英語も一言すら理解できない。何か犯罪者であるかのように、じろじろ見られてしまった。
私は、手でモップをかけるボディーランゲージをして、「掃除の、おじさんに、借りた!」と表現してみせた。
ようやく、理解されたようだ。ボディーランゲージが、一番通じるのだ。
だが、にせインテリの私にとって、ボディーランゲージはちょっと気恥ずかしい。その恥ずかしさが、国際理解への障害なのだって?、、、悪かったな。
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朝の、チャガルチ。
台北の朝は、機車(ジーチョ、原付単車)の群れが道路を占有していたが、この釜山では、単車を見ることが、朝はおろか日中を通して、ほとんどない。通勤は、どうやっているのだろうか。地下鉄はあるものの、大きな釜山市街で三路線しかなくては、家からよほどに不便であろうに。(JRに当たるKorailは、本数が思いっきり少ない。それに、韓国には私鉄が存在しないのですぞ。)
何となくだが、この国の人々が、痩せ我慢をしている風景を、頭に描いてしまう。自宅から駅まで、2kmあるって?、、、それが、どうした。ポス(버스、「バス」)が、あるだろうが。バス停もないだと、、、お前は、足を持っていないのか、、、
とにかく、自転車すらほとんど見かけないこの釜山の街は、旅行者にとっては天国のように、街が美しい。
朝方はやる気が出なかったが、一風呂浴びて寒い釜山の市街地に出ると、俄然気合が入って来た。
よおし。今日は、予定通り、海印寺に行くことにしよう。
海印寺は、大邱の郊外(いや、ずっと山の奥)にある、仏教寺院。あまりに山の中にあるために、ここには秀吉軍も、攻め入ることがなかったとか。私は、海印寺に行くために、釜山駅からKorailに乗り込んだ。
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乗った列車の車窓に広がる、豊かな水の流れ。
洛東江(ナットンガン)。
私は、もう中流に差し掛かっているはずなのに、この水量の多さを見て、驚いた。
-これは、堂々たる川だ。
広々とした流れが、山の合間を縫って、流れている。山、尽きるところに水あり。洛東江の山水は、まさしく水墨画にふさわしい風景であった。私は、車窓から見える華麗な風景に、ほれぼれと見とれてしまった。
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しかし、美しい川の姿を鑑賞しながらも、思った。
-この大河は、ケチな川だ。
こんなに豊かな流れなのに、川の周辺に、平野がほとんどない。
これだけの水があれば、野が左右に広がってさえいれば、数百万石の米を作ることができるだろう。
なのに、河口の近くにすら、大阪平野のような沖積平野がない。河口の釜山・金海は、山だらけなのだ。
井上秀雄氏『古代朝鮮』から、引用する。

淀川は河口から約七五キロで海抜八五メートルの琵琶湖に達する。淀川の傾斜度は一キロあたり一・一三メートルである。これにたいし洛東江は河口から約一二〇キロの咸安(ハマン)邑で海抜八メートルである。また三〇〇キロ上流の安東市で、洛東江の水位は海抜八〇メートルである。咸安邑までの洛東江の傾斜度は一キロあたりわずか六・七センチで、淀川のそれにくらべ実に十七分の一である。また安東市までの洛東江でもその傾斜度は一キロあたり二六・七センチで、淀川の傾斜度の約四分の一である。
この傾斜度のゆるさは流域の開発を遅らせることになり、その河岸の沖積平野が近代まで農耕地として利用できなかった理由でもある。弁韓・辰韓の小国はかなり上流まで洛東江を避け、その水位より一〇メートル以上も高いところに位置している。
(井上秀雄『古代朝鮮』講談社学術文庫より)

さらに、

また、洛東江やその支流などによって作られた沖積平野が少しはあるが、この沖積平野を部分的にしろ農地として利用するのは、近世の朝鮮王朝時代になってからである。この沖積平野は四周の山に振りそそいだ雨がここに集中するが、洛東江が超緩傾斜であるため、その雨水はこの沖積平野に停滞する。そのためせっかくの沖積平野が農地にならず、この点が日本の古代農業ひいては古代国家と大きな違いを生じた理由であろう。

井上氏は、日本の淀川が古代国家形成を促進する役割を果たし、洛東江はそれを阻害する役割を果たした、と批評している。洛東江の豊富な水が、超緩傾斜の流れによって利用することを阻み、川から離れた地域に小国が分立する結果を招いた。
洛東江の流れは、筆を取りたくなる風景であった。もちろん、使う具材は、西洋の油絵具ではない。黒い、墨一色だけ。
しかし、鑑賞して美しいこの川は、生活者にとって何とうらめしい流れではないか。
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てなわけで、東大邱駅に着き、バス停まで地下鉄で行く。
写真は、プラスチック製の乗車券。これをセンサーにかざして入場し、出るときはスロットに入れて、回収される。
リサイクルと、いうわけだな。その意気は殊勝であるが、せめて英語くらい構内に表示してくれよ。路線図がハングルだけでは、外国人が迷う。

Korea!2009/02/18そのニ

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バスに揺られて、寺の構える伽倻山系の真ん中へ。
空気はいよいよ冷たいが、雪なんか山上にもないね。内陸気候だ。
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伽倻山海印寺。
高麗大蔵経の版木を収める、名刹だ。あまりに山奥にあるため秀吉の侵攻においても焼かれなかったが、残念なことにその後に火災に逢ってしまった。これだけ空気が乾燥していて寒ければ、冬に暖と食のために火を起こせば、何十年かに一回は火事となるのは、もう致し方なかろう。韓国の寒さは、やせ我慢では過ごしきれない。
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山門を入った先にあった、枯死木(コサモッ)。
9世紀初頭の新羅王エジャン(Ae-jang、哀荘王)が、王妃の病を祈祷によって治癒させた二人の僧への感謝として、多くの寺院・僧院と共に、この海印寺を寄進した。枯死木は、寄進したエジャン王の記念として、境内に植えられたという。それから1200年生き続け、光復の年1945年に、枯死したという。
以上は英語の説明から引き写したものであるが、説明板の中の”zelkova”という木の名前が、分からなかった。
ホテルに帰ってから英語と日本語のwikipediaを並べて参照してみると、あらまし答えが出た。
ケヤキ。
この伽倻山の植生もまたやっぱり貧相なものであるが、寺院の中のケヤキの大樹は、人の記憶として生き続けて来た。今、死んでしまった。誰かが記憶しておかないと、忘れ去られてしまう。
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ここは、まさしく名刹ですね。
背後の借景が、じつに美しい。
境内正面の大寂光殿を撮影しようとしたら、「チャルヨンクンチ」のハングル表記が、目に入った。
「チャルヨンクンチ」(촬영금지、撮影禁止)のハングルだけは、この旅行で目で読み取れるようになった。
インフォメーションセンターに行って、紙に「大寂光殿」とペンで大書して、その後に書き記して、見せた。
「大寂光殿 의 outside 는-」
私は、「チャルヨンクンサ?」と言いながらカメラを取るしぐさを、インフォメーションセンターのおねえさんに示した。本当は上のごとく「チャルヨンクンチ」なのだが、このくらいの間違いならば、相手にも通じる。
おねえさんは、私の漢字を見て、「あー、テジュグァンジョン?」と読んだ。
さすがに、仕事をしている寺の漢字名は、知っていた。
おねえさんとの英語のやりとりはたどたどしかったが、とにかくチャルヨンクンチなのは、仏を拝む殿の内側だけだということが、分かった。
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大寂光殿は、建物そのものは新しい。
屋根の反りが、美しいと思った。
韓国の寺院には、台北の寺院のような華やぎがない。
この国民がたぶん好きな色なのであろう、緑色基調をしている。
石ばかりで出来たような山の中に、緑色の寺院を置けば、枯れたような味わいとなる。
この国の街や山河で感じることは、風景に使われる色合いの数が、少ない。
絵具を取ってみても、墨の黒に加えて、後は緑色さえあれば、表現できそうな気がする。
今は冬だからかもしれないが、釜山の街でも大邱の街でも、花を見かけることがない。
今、日本ならば、梅の季節。
紅、白、黄色の梅の花が、京都ならばそちこちに顔を出して、見る人の目を喜ばせる。
日本人はたとい枯れた冬であっても花の華やぎを風景に求めてやまないが、韓国人はそうでないようだ。
春には芝の緑があれば、それでいいのだろうか。冬はもう、華やぎをあきらめた境地に安住しているのだろうか。
大寂光殿の奥に、世界遺産の高麗大蔵経がある。
写真は、撮っていません。
こちらは、本当にチャルヨンクンチ。
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寺の入り口にある建物で、ただの土産物屋だ。
だから、歴史なんぞ、何もない。
だが、屋根が古さびて、上に木が生え出していた。
後ろの雄大な山々を背景とすれば、何とも一幅の絵になっていた。
山水画の巨匠たちがこの景色を見れば、筆を取らずにはいられなかったに、違いない。
この国は、新しいものまで古さびさせて石と緑の中に埋もれさせる、風水とでもいうべきなのだろうか、何かの力があるようではないか?

Korea!2009/02/18その三

2009年02月20日

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韓国もこんな辺地にまで来ると、日本語は当たり前として、簡単な英単語すら通じない。
完全に、韓国語モノリンガルの世界になる。
英語式に発音しても、ムダ。
韓国語に輸入された英単語は、日本語と同じように、自国語の「くせ」でねじ曲げられて、たいていネイティブの発音と、大きく異なっている。
地名をローマ字で書いても、たぶん読んでくれるか、怪しいのではないか。
昨日慶州で会った白皙の青年が言うには、「韓国語のローマ字表記は、発音とぜんぜん違うから、読んでも意味がないです。」と、言っていた。
そうなのだ。
じっさい、韓国ではローマ字を目にすることが、日本よりももっと少ない。
日本人も英語はしょせんファッションで使っているだけのことで、実用ではなく見栄で飾っているだけのことであるが、少なくともローマ字表記には、親しんでいる。
どうも、韓国人は、ローマ字を読むことも、使うことも、日本人よりもずっと少ないように、見える。
ハングルだけを用いて、筆談と変な韓国語の発音をたよりに、道を聞く。
下山するバスに乗るのに、大変苦労した。
こんな時に役に立つのは、日韓辞書。
ハングルと、基本中の基本の動詞(つまり、「です」、「ある」、「する」の三つ)の活用さえ覚えていれば、日本語の単語を韓国語に直訳して書き記せば、間違いなく通じる。私は、この旅行で、そう確信した。
上の写真の海印寺のバス停は、寺の入り口からずっと上に登ったところにあった。
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帰りの、バスの窓から。
中途で通った高霊(コリョン)の街の近くにも、洛東江が流れている。
もうすっかり川の上流であるにも関わらず、流れはしっかりとしている。
美しきかな、この山河。
恨めしきかな、洛東江。
本当は海印寺でテンプル・ステイをしようと思って、ホームページを通じて申し込んでいたのだが、とうとう返事が返ってこなかった。
縁がなかったと、思うことにしよう。
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夜の、東大邱駅。
なあに、日本と変わらないな。
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、、、と、思うだろ?
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なんと、駅のホームと線路との間の高低は、降りて駆け抜けることができるぐらいに、小さいのであった。現に、目の前でやっていた。ちょっと面白かったので、連続写真で撮りました。
高低が少なく、その上本数が少ないKorailだからできる、芸当だ。
日本に来た韓国人が、母国の常識につられて線路に飛び降りて、死人が出ないことを祈る。
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Korailの誇り、KTX。
釜山から東大邱までの間は、行きと帰りにこれを使った。
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KTXは日本人の間であまりよい評判を聞かないが、私が乗った限りにおいては、十分に快適だと思いましたよ。
もっとも、釜山から東大邱までの間は在来線を走っていて、専用線のあるソウル~東大邱間よりも、速度が遅い。ソウルから乗ったならば、どんな感じになるのかは、今回の旅行で私の知るところではない。
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釜山駅のそばの店で食った、ソルロンタン。
これはどんな料理なのかと、尋ねられれば。
「調味料の入っていない、豚骨チャーシューメン。」
肉と、ねぎと、麺が入っているのだが、スープに味がない。
そこで、付け合わせとしていろいろ出てくる薬味を、好きなだけ入れる。
キムチ、コチュジャン、こしょう、ニンニク、それに塩。
大阪ミナミの、金龍のラーメンみたいになった。出されたご飯もまた、このスープに浸して食う。
だが、しょうゆだけはなかったな。
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今日、海印寺を観終わった後に、境内にあった店で、オデン(오뎅)を一串食った。
正直言って、驚いた。
それは、正真正銘の、「おでん」の味だった。
だしと言い、しょうゆと甘みの味付けといい、日本の味とそっくり一緒だ。
ホテルに戻る中途、チャガルチの屋台でオデンと餃子を、買った。
両方とも、中身は確かに日本のものと違う。餃子には春雨が入っているし、オデンの練り物には、少し唐辛子風味が入っているものもある。(入っていないものも、ある。)
しかし、日本人の舌にとって、基本の線を決して踏み出していなかった。
これらは、台湾にあったような、日式料理もどきでは、ない。
むしろ日本料理の、別のバリエーションと言っても、よい。
やはりこの国は、日本と分母が共通している、数少ない国であるに違いない。
だしの味が分かるという、日本人にとって空気のような前提を共有してくれる国民は、ひょっとして世界の中で韓国人だけなのかもしれない。
私は、嬉しくなっておでんをつまみにして、ホテルでソジュを飲んだ。

Korea!2009/02/19その一

本日、天気は下り坂。
昨日、釜山に帰る電車の途上で、司馬遼太郎の『街道をゆく 壱岐・対馬の道』を、読みふけっていた。
-対馬島(テマド)を、見てみたいな。
そんなことを、思った。

「たしかに、そうです。あれは巨済島でしょう。」

と、李進熙氏が言った。金達寿氏には見えたかどうか。ただいつもは姿勢のいいこの人が、うつむいて松林の砂を踏んでおり、話題に入って来ない。

「巨済島ですか。」

「位置からいえばそうなります。」

と、李進熙氏が言った。この御前浜からは方角が悪く、見えにくい。ともかくここから巨済島の南端まで西北六十数キロにすぎず、土地の人は晴れた日、ごく日常的な海景の一つとして巨済島の島影を見ているのである。

巨済島(コジェド)は、高麗がモンゴルに屈従した時代、フビライの送った黒的・殷弘の両名の使者が日本への渡海を望んだとき、高麗の政府が日本を見せるために案内したところであった。黒的・殷弘の両名の使者は、冬の荒れる海の向こうに見えた対馬島を見せられて、その渡海の困難を知らされてすごすごとフビライのもとに帰ったという。
晴れた日に、巨済島に行きたいと、思った。
インターネットで天気予報を見ると、今日から明日にかけて、雨模様。晴れるのは、土曜日しかない。
それで、土曜日を巨済島に行く日と、した。
もう一日、慶州に行く必要がある。まだ、全てを見ていない。
そういうわけで、今日はもう一度慶州に行くことにした。雨よ、ほどほどに降ってくれ。
手持ちのウォンが、少なくなってしまった。
それで、クレジットカードでキャッシュを引き出そうと思って、中央洞まで歩いて、銀行に入った。
ATMを操作したが、受け付けてくれない。
銀行の受付をしているおっさんに、英語で聞いてみた。
おっさん、英語がわからない。
日本語は、もっとわからない。
私は、「カード、ハゴシポヨ。No、イムニダ。」と、ATMから出て来たレシートを見せて、何とか説明しようとした。
ようやく、おっさんは窓口に駆けて行って、出納係の人に、韓国語で事情を説明してくれた。
おっさんは、この銀行ではない、近くにある外為を業とする、別の銀行を指示してくれた。
銀行の外まで着いていってくれて、指差した。
「イゴ?」
「ネ!」
おっさんは、笑って私にうなずいた。
おかげで、クレジットカードでキャッシュを引き出すことができた。
しかし。
私の入った銀行は、たぶん釜山では最も支店の多い、大銀行のはずだぞ。
そこで、日本語はおろか、英語すら通じない。
-おっさん、それでええんか?
私は、内心関西弁で、つぶやかざるをえなかった。
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今日は、老圃洞(ノポドン)まで地下鉄で行って、そこからバスで慶州に向かう。
老圃洞駅の手前の駅が梵魚寺駅で、三日前に梵魚寺駅から地下鉄に乗った時、軍服姿の若者たちが車内に大勢乗っていた。
老圃洞は市外バスターミナルの集積地だから、たぶん彼らは韓国各地からの勤務から、郷里の釜山に戻って来たのであろう。あるいは、釜山市内の基地に、向かう中途であったのだろう。
バスの車窓に、冬枯れの田が広がる。
だが、ふと思った。
-この辺の土地の、水はどうしているのだ?
見回せば、川のようなものがない。
濃尾平野のような、用水も掘られていない。
あるのは、水もほとんど流れていない、溝だけだ。
そんなことを思っていると、途上で水たまりが目に入った。
慶州までの途上に、いくつかあった。
ため池を掘っているのに、違いない。
ならば、大阪平野や讃岐平野と、同じ要領だ。
農村の風景は、日韓でよく似ている。しかし、かつての社会の構造は、両国で違っていた。
昔、地主として田園に君臨していた両班(ヤンバン)たちは、現代の韓国人にとって忌まわしい害毒であったのか、それとも追慕すべき理想であったのか。
李氏朝鮮の社会制度は、明王朝を模範としたところから、始まった。ゆえに、官の登用試験である、科挙(クァゴ)があった。
しかし、時代の進展と共に、中国の制度とは微妙に異なったものとなった。
韓国語が漢語とぜんぜん違う言葉であるという事実が、科挙のための言葉を使える身分と、使えない身分との差を作り、それを固定してしまった。
李氏朝鮮王朝の社会は、両班、中人(チュンイン)、常民(サンミン)、賤民(チョンミン)の四身分であった。身分制が機能していたのが、前近代の中国社会と李朝社会の、違いである。
李朝は、中国の文明を輸入した。
しかし、日本であれば室町時代である李朝初期には、まだ半島の民は中国文明の「形」を知らなかった。その「形」を半島の民に教えることを期待されたのが、両班であった。科挙に及第し、ソウルで高官に昇った官には、国王から土地と奴婢(ノビ)が与えられる。そうして、彼らの家は農奴を蓄える地主貴族として、しだいに成長していった。そして、栄えある祖先を持ち、祖先に倣って学業に精を出す伝統を、後世に伝えながら。
両班は、日本の徳川時代における、「士」の身分に相当する。
ただし、日本武士のように、法によって固定された身分ではない。
又引きで申し訳ないが、宮嶋博史氏『両班』(中公新書)に引用された宋俊浩(ソン・ジュノ)氏の言葉を引くと、

明確に言いうることは、(両班)が法制的な手続きを通じて制定された階層でなく、社会慣習を通じて形成された階層であり….

だがしかし、

両班と非両班との限界基準が相対的であり、主観的であったからといって、それが曖昧模糊としたものであったと考えるならば、それは誤りである。実際においては至極明確な基準があった。

言い換えれば、李朝社会において、法により決められてはいないものの、社会ははっきりと「両班の家」を民衆と識別していた。それは、外国語である漢字を知り、外国思想である儒教を学び、そして先祖に科挙に及第した高官あるいは高名な学者を持っている集団、ということであった。たとえるならば、国家と地方の政治と文化を指導する、学者家族の集団とでも言うべきであろうか。両班である資格が外国語と外国思想であったから、とりわけ明確な差が生まれることとなった。
両班以外の民衆が、「農・工・商」を受け持つ。
彼らは、科挙を受ける道を、ほとんど閉ざされていた。
両班と同じ韓国語を話す民であるにも関わらず、なのだ。
科挙に必要な文字である漢字(ハンジャ)を知らず、ゆえに『論語』『孟子』といった外国思想書を読むことができないからであった。両班は、漢字を使えない常民を、蔑むことはなはだしかった。同じ民族なのに、外国語の知識の有無だけが、身分差別の根拠であった。
ただし、後にハングルと呼ばれる諺文(おんもん)は、彼ら民衆のための文字であった。そして、ハングルだけに限定すれば、男子の識字率は低くなかったかもしれないことが、イザベラ・バードが漢江を旅行した際の報告から予感される。
英語版Wikipediaの”Joseon Korea”の項目が説明するには、1750年ごろ、半島の人口は、約千八百万人という。その後、1810年から1850年までの間に、人口は約10%減少し、それから定常化した。
さらにWikipediaの説明に、頼る。
このうち両班が、1800年までに総人口の30%を占めていた。残りが中人、常民、あるいは賤民といった階層を占めていた。李朝の当初は、もっと両班の比率が少なかった。だが、時代が下がるにつれて、その比率が高まっていった。両班は明確な身分であるが、その資格が漢字を読めるかどうかにかかっていることが、時代が下がるにつれて両班の比率を増やす要因の大きな一つであったのではないだろうか。李朝当初に比べてよほどに儒教が大衆化し、外国思想に触れることが国初よりもさほどに希少価値でなくなるにつれて、あの手この手で両班に成り上がろうという機運が社会に生じるのは、当然のなりゆきであったろう。両班の資格は国初に極めて厳格なものであったが、上の宮嶋氏の著作が概説するところによれば、十九世紀には庶子の子孫や諸吏どもまでが両班文化に参入して、自らの族譜(チョッボ)を作って誇示するようになった。そうして、現在では族譜をもった両班の家は、韓国ではどこにでもいる。
李朝末期の社会を旅行した外国の観察者にとって、両班は腐敗した搾取者たちのように、描かれている。彼らは、いっさいの労働を軽蔑する。儒教の君子は頭を使うのが仕事で、農商工業などする必要はないのである。最重要テキストの『孟子』に、はっきり書いてある。

-堯舜の天下を治むるや、豈(あ)にその心を用いるところ無きかな。また耕に用いざるのみ。
(『孟子』滕文公章句上より)

いにしえの聖王、堯舜が偉大であったのは、頭と心を用いて政治をなし、民に倫理を教えたからなのだ。田畑を耕す小事ごときなど、手足を動かすしか能のない、哀れな小人の仕事である。君子の仕事は、別Iにあるのだ。
彼らはそう思想的に信じきっていたからこそ、芸術的なまでに労働をしなかった。飯も作らず、物を手で運ばず、キセルに自分で火すら点けない。李朝の農村では貨幣経済が極めて貧弱であったから、彼らの生活を成り立たせるためには、奉仕するための下僕が、常に周囲に侍る必要があった。そんな生活が、外国人旅行者たちの目には、異様で無様な無為徒食に見えたとしても無理はない。
旅行者が見た李朝末期の両班の実際の統治はといえば、下僕を引き連れて無為に農村を闊歩し、勝手気ままに農村に労役を課して、富を搾り上げていた。このような両班は、旅行記を読んだ限りにおいて、胸のむかつく搾取階級である。彼らが李朝の社会経済の停滞の元凶であるという直感を、確かに私は禁じえない。
なのに、十八世紀半ばに千八百万人も人口がいたというのが、今の私には今一つ理解できない。洛東江の流域が農地に変わったのは、李朝時代なのだ。李朝時代前期、確かに経済は上向いていたのである。開国後の西洋人や日本が見た李朝の停滞の前には、成長の時代もまたあったはずなのだ。李朝末期の両班は遊民であったかもしれないが、王朝が創設された時期には地球上で圧倒的に先進国であった中国の思想と文明を輸入する、受信塔であった時代があったはずだ。上の宮嶋氏の著作が説明するところによれば、李朝前期の両班は、農業経営者として地方の開拓をすすめていた。高名な世宗大王(セジョンデワン)の下命により編纂された『農事直説』(1430)や、民間で編まれた『農家月令』(高尚顔著、1619)などは、中国の農書から刺激を受けて、韓国の風土のために書かれた農業技術書であった。両班は、少なくとも秀吉の侵略までの李朝前期においては、国を文明で改造するための学者であり、農業経営者であった。中国から少し離れた日本人は、かつての中国文明の高みを、いまいち認識していない。
姜在彦(カン・ジェオン)氏の研究書『朝鮮の開花思想』(岩波書店)は、李朝末期の開化派の系譜を明らかにしようと試みた、一大労作である。著作においては、開化派に先行する内発的な改革思想である実学者(シラッチャ)たちの業績が、明らかにされている。

朝鮮儒学の「分流」として実学派が、十九世紀前半期に思想界の「本流」に転回できなかったことは、近代朝鮮が迎えなければならなかった開国とそれにつづく開化期をおくらせ、外勢とのからみあいの中でその近代的発展をより困難にしたといえるであろう。
(『朝鮮の開花思想』pp.59)

国学としての朱子学が李退渓(イ・テゲ、1501-70)・李栗谷(イ・ユルゴッ、1536-84)の両学によって頂点を極めた後、しだいに現実ばなれして虚学化していった。「実学」は、だいたい十八世紀から十九世紀にかけて、虚学化した朱子学を揺さぶり、中国や西洋の技術科学に目を向け、さらには国政改革への提言までを試みようとした。姜在彦の例示する彼らの国政改革案には、両班が実業に従事することの許可奨励(李瀷など)、身分にとらわれない人材登用と、そのための教育の機会均等(洪大容)、国内の流通改革(朴斉家)など、日本の徳川時代における改革思想とほぼ同様の提言が、網羅されていたのだ。
李瀷(イ・イッ、1681-1763)、洪大容(ホン・テヨン、1731-83)、朴趾源(パク・テヨン、1737-1805)、朴斉家(パク・チェガ、1750-1815?)、それに丁若鏞(チョン・ヤッギョン、1762-1836)といった思想家たちが、停滞していたと思われていた李朝後期には、群像としてあった。李朝の「実学」は、ちょうど日本における「実学」(じつがく)の発展期と、時を同じくしていたのだ。彼らの存在があった以上、李朝後期の人間たちが技術や合理性に一切理解を示さなかった鈍物揃いであった、わけがない。
ただ、李朝の国是は、儒教一尊であった。
その上、唯一の公認学問が、朱子学一尊であった。
朱子学は、よほどに魔力を持った、学問であったのだろう。中国宋代から始まり、東アジア諸国の学者たちを魅了してやまなかった。かつては韓国人も、日本人も、この学問の魔力に頭がぼおっとなっていた時代が、確かにあったのだ。
もともと儒教とは、教祖である孔子・孟子の素朴なお説教と、いにしえの宮廷儀式の次第を収めただけの、宗教(?)であった。
高度な哲学をはやくから展開した、仏教や道教に比べて儒教の教義体系は、とても見劣りするどころではなく貧相だった。
それを、一大転換したのが、宋代の儒者たちであった。
彼らは科挙の勉強として自分たちが学んだ儒教の体系を磨き上げて、仏教や道教に匹敵する高度な哲学に、儒教を作り変えた。その集大成が、南宋の朱熹(朱子)であった。
この私とて、朱子学は難解すぎて、その全貌を理解することができない。
ただ、あくまでも印象批評であるが、朱子学の特徴として以下の点を指摘しても、あながち的外れではないかと思う。
一つは、朱子学は、宇宙の全ての現象を一つの原理で説明しようとする、大胆な綜合哲学である。
二つは、朱子学にとって孔子・孟子が後世に残した教えは、絶対無謬であり、反論の余地はない。
三つは、そうした朱子学は極めて難解であって、凡庸な頭脳の持ち主では、その教義に近寄ることすら、難しい。
こういった朱子学が、巨大な魔力をもって、東アジア諸国の秀才の頭脳を、捉えて離さなかった。私は、朱子学はマルクシズムに、その点で似ていたと思う。
李朝の子弟の頭脳は、朱子学に500年間も、捉えられた。
実学者たちは、国学としての朱子学を結局打ち破れないままに、敗北してしまった。
一八〇一年の辛酉教獄では、天主教(キリスト教)と共に西学に傾斜した分子が邪学として弾圧を受け、死罪、獄死、流刑が行なわれた。こうして、丁若鏞らの属する南人派は政界から失脚し、本学すなわち朱子学の保守派が勝利した。以降、李朝は西洋排斥の空気が支配する、十九世紀前半の勢道政治(セドチョンチ)の時代へと突入していく。
李朝の権力闘争は激烈なもので、権力闘争は思想上の対立によって行なわれた。敗北した側には死罪、遠方への流罪、一族の権力からの追放が行なわれ、執拗であった。佐幕派の薩摩藩と倒幕攘夷派の長州藩が坂本龍馬のあっせんによってコロッと仲直りするような、昨日の思想を今日捨てる式のお手軽な政治は、李朝に見られなかった。
姜在彦氏の上の引用は、せっかく李朝には内発的な改革思想が日本同様にあったにも関わらず、政治として身を結ぶことができなかった歴史を嘆いたものだ。
十九世紀末の開化派はややもすれば日本の走狗である「親日派」と貶められて、十九世紀末李朝の諸改革は、外圧による他律的な改革にすぎなかったと評価されがちである。姜在彦氏の書はその通説に対して、李朝固有の改革思想の伝統があったことを強調して、李朝の改革の担い手たちには、外圧を受けながらも改革して独立を保つ道を模索しようとしていた、自律的側面があった点を忘れてはならないと、訴えているのである。姜在彦氏の主張に従えば、韓国版の明治維新は、諸外国の外圧と、なかんずく日本による併合政策によって、進む道を歪められてしまったと評価するべきであろう。
韓国人に、ビジネスの才能がなかったわけでは断じてない。
それは、現在の韓国を見れば、すぐにわかる。
ただ、彼らは儒教一尊によって、長い間自らを縛ってしまった。それで日本に比べて大きく出遅れて、結果として隣の日本に「併合」された。イデオロギーの害毒は、国民の力すら歪めてしまうものなのだ。おそらく、現在の北朝鮮の人々も、今でも潜在的には南の人々と遜色ないビジネスの能力を持っているに、違いない。単に、政治が押し留めているだけであるに、違いない。

Korea!2009/02/19その二

2009年02月21日

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まずは慶州市外バスターミナルから、歩いて金庾信将軍の墓に行く。
インフォメーションセンターでもらった地図のとおり、墓への通り道には桜並木が植えられていた。
春にもなれば、さぞかし美しいことでしょうな。
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墓域へ入るこの大極図の描かれた門は、韓国の様式であって、他に同じ慶州の大陵苑(テヌンウォン)でも見られるし、普通の田舎の大屋敷の裏などでも、見ることができる。
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将軍の、墓。
韓国の田舎に行くと、山のふもとにこの形のままで規模を小さくしたお墓を、いくつもいくつも見ることができる。
頑固なまでに新羅時代の古俗を守って、祖先の祭祀(チェサ)を続けるこの国のしぶとさには、時代時代の流行にコロッと転んでは捨てる浮気な日本人として、感嘆するより他はない。
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墓の周囲には、十二支の動物たちが、面白い甲冑姿で陰刻されている。
写真は、今年の干支、丑(うし)さんの、将軍像。
本日時間がなくて、掛陵には行くことができなかったが、おとつい国立慶州博物館で掛陵の十二支像と金庾信墓の十二支像が並べて説明されていたのを見たので、二つが同系統の作品であることを知った。
この彫刻は、確かに河内飛鳥(大阪府羽曳野市)にある杜本(もりもと)神社の「隼人石」と、よく似ている。
以下、『大阪府の歴史散歩』(山川出版社)から、杜本神社について引用する。

地元の伝承では、この地方は聖徳太子が巡幸のみぎり、黒駒をとどめ休息された故事から、”駒が谷”と称したといわれているが、実際は河内国安宿(あすかべ)郡の狛(こま。高麗)村だった公算が大きい。
安宿(飛鳥戸)の語源は朝鮮語のアンスク(安住地)からきているといわれ、アンスクからアシュクと変わり、漢字で表記して安宿になったと考える説が有力である。
小丘の上にある杜本神社は、延喜式内社で、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命の夫婦神で、経津の神宝といわれる”日月の刀剣”と土鏡(日月鏡)が保存されている。本殿の両側に隼人石という人身獣面の石碑が一対たっている。これは新羅の王都慶州に存在する”金庾信古墳”の周囲に建てられている十二支神像のひとつに似ているといわれる。附近は渡来系の人びとが居住したらしく、村内に多い”真銅”"金銅”の珍しい姓と共に、注目される。

本の説明では分かりづらいが、「アンスク」とは「안숙」のことであろう。手元の辞典では、「安息」の漢字が、当てられている。だが、いっぱんに言えることなのであるが、古代韓国語は、よくわからないのである。世宗大王(セジョンデワン、1397-1450)の時代に現代のハングルのもととなる「訓民正音」(フンミンジョンウム、後世、蔑んで「諺文」とも言われた)が公布されるまでは、漢字以外に記録が残されていない。だから、古代の韓国人がどのような言葉を話していたかどうかは、万葉がなが残されている日本語のように、遡って研究することが難しい。ゆえに、現代韓国語から古代語を類推するのは、残念ながら科学的とはいえない。上代の日本語が現代日本語と似ても似つかぬ別言語であり、千三、四百前のヘプターキー(Heptarchy)時代の英語が現代英語と何から何まで違っている事情を見れば、同じ民族でも使う言葉がいかに時代によって変化するのかという実情が、分かってしまうものだ。

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左が、隼人石の写真。
右が、金庾信将軍墓の十二支像の中から、卯(うさぎ)の像。
彫り方は違うが、デザインは酷似している。
同一のデザインを作る集団に属する彫り師が、海のこちら側と向こう側で作ったと、推理するより他はない。あるいは、新羅から日本に輸入されたのかもしれない。
日本と、半島。二つの国と民族は、古代に遡れば遡るほどに、近かった。
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慶州の都を潤す、兄山江(ヒョンサンガン)。
この国は、水が豊かだね。
慶州は海岸からちょいと入った川そばの盆地に築かれた都で、日本の京都と山水の構図に、似通ったものがある。
平安京は、(平安時代後期には崩れてしまったものの)唐の大長安城を真似た、四角四面の都であった。
しかし、慶州の構造は、おとつい慶州博物館で見た新羅時代の慶州復元模型を見る限り、四角四面ではなかったようだ。
無理なく山水と祖先の陵墓を包み込むように、都市が柔軟に作られていた。
古代は、むしろ日本よりも半島のほうが、中国の猿真似ではなかったのかもしれない。

Korea!2009/02/19その三

2009年02月22日

今日は、これからヤンドンミンソンマウルに、行く。
日本語に訳せば、「良洞民俗村」。
市外バスターミナルで、日本語も英語も通じない世界の中で、四苦八苦しながらバスに乗る。
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まあ、着いたんは、ええものの、、、
どないして、行けばええん?
日本の常識として、バスから降りれば、すぐに観光地だと思っていた。
この国は、旅行者に根性を要請する、剛毅な国だ。
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さきほどの写真にある道を、えんえんと歩き続けた先に、ヤンドンミンソンマウルがあった。
このマウル(韓国語で、村)の説明は、慶州市発行のガイドブックに任せよう。

月城孫氏と驪江李氏によって形成されたヤンバン(両班)ムラで村全体が文化財(重要民族資料第189号)として1984年12月24日に指定された。全国に6カ所の伝統民族村があるが、村の規模、保存状態、文化財の数と伝統性、そして美しい自然環境とおかされていない郷土性などで他のどんなところよりも優れており、みどころも多く1993年には英国のチャールズ皇太子もここを訪問された。

李朝社会の中核であった、両班。
現在、韓国人のほとんど全員が、両班の子孫に当たるという。
それは李朝末期から近代にかけての激しい社会変動の結果であろうが、このマウルの両班は、正真正銘の本物、李朝を支えた功臣・学士を輩出した、名門中の名門である。

孫氏と李氏の両家を合わせて、科挙の文科及第26名、武科及第14名、生進士科に合格したものが76名で、人材の輩出がもっとも多い地域として名高いヤンバン(両班)ムラである。

上のパンフレットの引用における「生進」(センジン)とは、科挙の受験資格を得るための一次試験の司馬試のことで、進士試と生員試の二つの受験コースに分かれていた。だから両方を併せて「生進」とこのパンフレットは呼んでいるのであろう。司馬試は、中国でいう学校試に当たる。中国では、この試験に受かって「生員」(ションユァン)と呼ばれるだけでも郷里ではたいへんな名誉となり、地方の官に就職できる道が開ける。李朝でも、たぶん同様の事情であっただろう。
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華やぎは、いらない。
それが、両班の美学であった。
村は、全体として、土っぽい。
本瓦をした家屋の屋根が、重々しい。本瓦とは、写真のような平瓦と丸瓦を交互に組み合わせた葺き方で、古代中国から受け継がれた様式である。日本では、由緒ある寺院は必ずこの本瓦葺きになっている。徳川時代以前まではこれが標準であり、徳川時代までは、日本に瓦なんぞ寺院と大名の天守閣にしか、なかった。徳川時代になって、平瓦と丸瓦を一体化した桟瓦(さんがわら)が、発明された。軽くて安いこの瓦はたちまちに広まって、現在の日本の家屋はほとんどが桟瓦となっている。韓国でも見かけるが、あればそれはたぶん日帝時代以降の建築であろう。
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今でも、人が住んでいる。
村は、坂が多い。
楽々と、見学させてくれない。
観光客をもてなして、楽にきれいな風景を見せるというサービス精神は、両班の魂からは遠いようだ。
韓国では、どこに行くにも、足を使わなくてはならない。
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畑で、コチュ(唐辛子)を、植えていた。
韓国では、これがなくては料理ができない。
コチュはビタミンCが豊富で、その上火を加えても栄養分が消え去りにくい。
ビタミンCは人間が最も必要とする栄養であるが、毎日コチュさえ食べ続けていれば、欠乏症になることはない。
同じくビタミンCが豊富なお茶を、仏教と共に捨て去った李氏朝鮮の人々は、コチュを愛して食することによって、代替としたというわけか。
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無忝堂(ムチョンダン)の写真を、撮らせてもらった。
説明によれば、1460年ごろに建てられた驪江李氏の宗家だという。
梁(はり)が、わざとしたように、歪んでいる。
真っ直ぐな木材を作る技術がなかったわけではなかろうから、これは全く美意識の問題であるはずだ。
大地主の宗家であるはずなのに、家そのものは貧しい空気を放っている。
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柱も、大歪みに歪んで、ぞんざいな空気を作り出している。

茅茨(ぼうし)、剪(き)らず。(十八史略)

上の言葉は、儒教がその統治を黄金時代として理想とする、いにしえの聖王である堯帝(ぎょうてい)の宮殿の質素さを称えた、表現である。堯帝は、民を慈しみ暦を作り、庶民の中から舜(しゅん)を見出してこれに政治を任せて、死後には自分の息子ではなくて舜に位を譲った。彼は中国最高の君主の一人であるにも関わらず、その宮殿は剪り揃えもしない、茅茨(かやぶ)きであった。
さすがに両班の屋敷じたいは、周辺の一般農家がいまだに茅茨きであるのとは違って、瓦葺きであった。だが、儒教の本場の中国人が君子の質素さをどこかに忘れ去ってしまい、富貴を求めて楽しむ楽天的な人間たちになってしまったのと違って、ここの国の君子たちは、儒教の経典が教える道を、大真面目に実践しようとしていたに、違いない。それが、偽善だって?、、、それは、このムラに入ったからには、言ってはならないよ。
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床の木材は、段違いになっている。
これは、明らかにわざとやった結果だ。
金をかけて、わざわざ貧しく見せる。この家は、冬の日に何とも寒そうだ。

堂の高さは数仭(すうじん)、榱題(しだい。よこはり)は数尺。我は志を得るとも、為(な)さ弗(ざ)るなり。
孟子、盡心章句下

地主であっても、豊かな生活を求めない。それが、儒教の君子である。
ゆがんだ梁と、段違いの床柱は、そんな美意識のなせるわざなのであろう。
人名が記載されていて失礼に当たるので写真は撮っていないが、無忝堂の壁に李氏一族の行事担当者たちの名簿が、墨書で掲げられていた。
韓国人の男性名には、伝統的に木・火・土・金・水の五行(ごぎょう)のどれか一つが、漢字に組み込まれている。
名簿の人名で調べたら、確かに全ての人名に、水と火を確認することができた。たとえば水ならば、「さんずいへん」を使った字を一字、名前に組み込む。火ならば、「ひへん」であったり、「れんが」であったり、あるいは太陽を表すために「日」の字を組み込む。
私にはそのシステムがよく分からないが、一族の始祖から始まって代を重ねるごとに、この木・火・土・金・水をぐるぐると回していくらしい。だから、本貫(ポングァン、始祖の墳墓がある土地)を同じくする同姓の韓国人であれば、名前を見ただけで祖先から何代目かが、分かるようになっているという。それで、小学生の男の子が五十代のお父さんのおじに当たるようなことが、ありえるというのだ。もし現在そうであることが判明したら彼らがどのように対応しているのかは、知らない。五十代のお父さんが、小学生の男の子におじおいの礼を取るのであろうか。
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山道に分け入ると、陶器の破片が落ちていた。
拾ってよく見たら、釉(うわぐすり)がかけられている。
-李朝陶磁の、破片かな?
一瞬、そう思ったが、、、まさかね。
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村だから、鶏がいる。
静かな村で、聞こえる音といえば、鶏と犬の鳴き声ばかりだ。

-鶏犬、相聞こゆ。

『老子』の、そんな一節を思い出した。
そのとき家の中からとつぜん大きな音が鳴り出したので、何だと思って振り返ると、斧で薪を割り始めていた。
いにしえの古俗を守るのも、ここまで来ると愉快になってくる。
空から、とうとう雨が降って来た。
傘は、一日目に紛失してしまった。中途で買おうと思ったが、コンビニよりも慶州市内で買ったほうが安いだろうと思って後回しにしていたら、買うのを忘れてしまった。
戻ろう。雨が、本降りになる前に。
私は、ヤンドンミンソンマウルを後にして、またえんえんと続くバス停への道を、歩いて行った。

Korea!2009/02/19その四

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とぼとぼと歩く道の横に、単線、無電化の線路がある。
線路の上を、貨物列車が通り過ぎて行った。
のどかだねえ。今日は天気が悪いのが、ちょっと残念だ。
バスで、また慶州に戻る。
バス停は国道のど真ん中で、車がものすごいスピードで、駆け抜けていく。
ちょっと、いやだいぶん怖い。
慶州の市外バスターミナルに着くと、雨が本降りになっていた。
傘がないと、もう歩けない。
バスターミナルの売店で、折りたたみ傘を買う。
「オルマ(いくら)?」と聞けば、「チルチョノォン(7000ウォン)。」とおやじが答える。
買った傘は、ずいぶんいい加減な作りだ。
これで日本円で500円ぐらいとは、高すぎる。
ぼったくられたな、と思った。
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雨の中、日没まで再び慶州を歩く。
雨にけぶる、大陵苑(テヌンウォン)。
慶州の市街地の中にある、王家の谷だ。
これが春にもなって、晴れた日であれば、さぞかし美しかったに違いないのに。ちょっと、残念だ。
陵墓と陵墓の間に通路が作りつけてあって、敷地をぐるりと取り囲む塀の北門から南門まで、通り抜けることができる。
日本の古墳では、こんなことができない。
天皇陵なんて、あれは徳川時代の国学者が、しかもいい加減な知識をもって認定したまでのものだ。
だから、考古学的に言ってあきらかにおかしい陵墓が天皇陵とされていて、代わりにおそらく天皇陵であろうと思われる大規模な古墳が、ただの陵墓参考地になっている。日本では、そのどちらにも入れない。徳川時代には、ひょいひょい入れたものが。日本は、何かがおかしい。
著名な天馬塚の中にも、入った。
中はチャルヨンクンチであるが、はっきり言って撮る価値など、ない。
出土した黄金冠の本物は、国立慶州博物館にある。ここにあるのはレプリカだから、タダで観れる博物館に行った後には、有料であるここに入る必要は、ない。
まあ、入場料金は、素晴らしい古墳の間を歩くために払ったと、思うことにしよう。
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慶州のシンボル、瞻星台(チョムソンデ)。
いにしえの都のよすがは、もう現代にはほとんど何も残っていない。
壮麗であっただろう月城(ウォルソン)の遺跡には、もう何もない。瞻星台の向こうに見える月城の基壇には、木が生えているばかりだ。
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おとつい私が行った、国立慶州博物館に作られていた、いにしえの慶州の姿の模型の写真を、示す。
右上にあるのが、月城。
左手前にあるのが、大陵苑。その右に、下の写真にある、陵墓群。
向こうに見える塔が、芬皇寺(ファヌンサ)だ。
復元模型には、「これが正確な姿でないかも、しれません」と断り書きがあったもの、いにしえの慶州のイメージだけは、この模型から掴むことができるだろう。新羅の慶州は、平安京に勝るとも劣らない、壮麗な王都であった。
今、何もかもが、失われてしまった。
石と、土の古墳だけが、こうして残った。
悲しいが、だけれどもこの石と土の国に、ふさわしい末路なのかもしれない。

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大陵苑の南、月城の西にも、陵墓の群れがある。
この三つの敷地が、あくまで慶州の一部にすぎないのであるから、都の大きさが分かる。
美しい陵墓のすぐ脇の、猫の額のような敷地がハクサイ畑になっていて、刈り取った後の残り葉がしおれて腐りかけていた。
剽軽(ひょうげ)ているというのか、田舎じみているというのか。

Korea!2009/02/19その五

2009年02月23日

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伝統的な韓国家屋が、いくつかあった。
ちょっと失敬して、家の門の瓦を、触ってみた。
ざらり、という冷たい感触が、指に伝わってきた。
-石瓦?
私は、そのときそう思った。
日本に帰国したその日に飲んだ夕映舎氏にそのことを話したら、「石の瓦のわけがないやろ。土の瓦に、決まっている。」と、否定された。
私の、思い過ごしだったのかも、しれない。
だが、韓国の屋根の瓦は、釉(うわぐすり)など掛けてピカピカの日本の瓦とは、ぜんぜん違う。

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家並の古さびた風景は、華やぎのないモノクロームの世界だ。
どの家も重厚で、まことに絵になっている。
だが、私はこの古めかしい家並みを見て、思った。
-ここに一輪の花が咲いていれば、この風景は想像を絶する美しさになるだろう。
塀の向こうから、たとえば紅梅の花が、覗き出していれば。
呉竹の青さが、清清しい光を放っていたならば。
だが、華やかなものは、何もない。
台湾のようににぎやかすぎるのも考えものだが、寂しさの中に一点の花を咲かせる、情緒の趣きが韓国の街並みには欲しい。
花好きの日本人の、たわごとさ。民族には、それぞれの美的感覚がある。
有名だという酒店に行って、生酒の名品を、買おうと思った。
名品だけあって、値段がひどく高い。
日本語が通じると聞いていたが、行ってみるとおじいさんしかいなくて、通じない。
どう説明しようか迷っている私に、おじいさんはにっこり笑って、私を奥の方へ入れてくれた。
コップに酒を注いで、試飲させてもらった。
前にチャガルチで飲んだ清酒(チョンジュ)はすっぱくて、清酒(せいしゅ)好きの私をがっかりさせた。
今度は、どうだろうか。
、、、
帰国後、夕映舎氏に、私は言った。
「韓国は食い物は、全部うまい。だが、酒は残念ながら、良いものがないとしか、言いようがない。」
ソジュ(焼酎)は、確かに飲みやすいし、アルコール分も清酒より高く、その上とびきり安い。コストパフォーマンスは、抜群だ。
だが、あれは安酒だ。
思わず魚を伴にしたくなるような、高級な米の酒は、韓国にない。
夕映舎氏に、買って帰った、その酒を飲ませた。
「いや。」
夕映舎氏は、猪口から一口を含んだ後で、私の批評を、否定した。
「日本の古酒も、こんなものやで。あくまで、これは日本の清酒とは違う、別系統の米の酒やと、思ったほうがいい。お前の即断は、誤りや。これをうまいと思う日本人も、きっといるはずや。」
彼が言うように、私の即断なのかもしれない。
私は、結局マッコルリ(濁酒、どぶろく)も、この旅行で試してみなかった。マッコルリを置いている店を、見つけることができなかった。
しかし、これはただのイルボンサラムのおせっかいなのかも知れないが、肉を楽しむ伴としてならば、ワインというとびきり美味い酒が、存在する。
韓国は日本よりもずっと肉好きの国民だから、この際ワイン造りを始めてみたら、どうだろうか。
南の慶尚道や全羅道ならば、ぶどうを作れるはずだ。さらに南の済州島ならば、なおさら作れるだろう。
肉を食べる機会が韓国人よりも少ない日本人よりも、うまいワインを舌で作り上げることが、できるかもしれない。
酒を買って、また市外バスターミナルまで歩いていった。
途中、土産物のパン屋がいくつもあったが、値段を見て通り過ぎた。
韓国は、安いもののほうが、どんなものでも、断然よい。
私は、この頃そんな印象を持つようになってしまった。
市外バスターミナルの横の屋台で、串のホルモン焼きを売っていた。
「ハンゲ、オルマ?(一個、いくら?)」と尋ねれば、店のおばあさんが、威勢良く答えた。
「ハンゲ、サッペグォン!セゲ、チョノォン!」
つまり、一本400ウォン、三本ならば、たったの1000ウォン(70円足らず)。
私は、三本買って、食った。
-うまい!
タレの味が、まことに絶妙であった。これとソジュさえあれば、倒れるまで飲むことができる。
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釜山に帰って、二日目と三日目に行った店にまた行って、ナッチポックムを頼んだ。
ナッチポックムとは、「イイダコの混ぜご飯」。
まず、タコと野菜と春雨が入った小鍋を、コンロで火通しする。
煮上がったならば、白いごはんを入れて、よく混ぜる。
出来た料理は、辛さの中に、うまみがある。私は、かっこむように食べた。
値段は、スンドゥブチゲよりも、ちょっとだけ高めだった。
海産物の分だけ、高いのかもしれない。
この店には四品しかメニューがないので、私は結局その三品までも、この旅行で食べてしまった。もう一品は本格的な鍋で、きっと美味いに違いないが、残念ながら、一人前がない。

Korea!2009/02/20その一

朝、今週いつも通っている、ホテルの脇のコンビニに行って、コーヒーとパンを買う。
店内の放送に耳を傾けると、日本語であった。
韓国で日本語が聞こえるのは珍しいので、店頭で、にいさんに聞いてみた。
「日本語?」
聞けば、にいさんは日本語を、アニメを聞いて練習中だったとか。
日本語を学んでいる人は、かなりいるぞ。
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そういうわけで、朝。
あー、本日は、何も予定していません。
もともとの予定は、大田(テジョン)から扶余(プヨ)に行って、いにしえの百済(ペッチェ)の遺跡を偲ぼうかと思ったが、はっきり言って、KTXは、もう飽きた。
前日に観た天気予報も、今日は雨模様だというし。
今日は、ゆっくりしよう。そう、思った。
それにしても、予報とは違って、今日もまたいい天気だ。
晴れ男なのですよ、私。だから、女を濡らすことが、できない。ははは。
中央洞までてれてれ歩いて、地下街に入る。
地下鉄の改札前で、高(コ)さんと、金(キム)さんというお二人のご老人が、日本人旅行者のために案内のボランティアを、やっておられた。
お二人は、もうすっかり余生を楽しんでおられるという境地であるかのように、終始ニコニコとして、私の質問にいろいろと答えてくれた。
私は、その時頭に思いついていた、質問をした。
「レンタサイクルは、ありますか?」
高さんは、答えた。
「ないんだなあ。韓国には、自転車旅行をするという考えが、まだ根付いていないんだよ。だから、自転車専用道路もないし、駐輪場もない。これから、発展させていくことに、なるのさ。」
そうか。
だから、市内でも自転車を、ほとんど見掛けないのか。
高さんは、言った。
「自転車屋に行けば、借りられるかも、しれないけれどね。だけれども、韓国の自転車は、日本のものと違って、重たい。自転車旅行は、できないよ。」
横の金さんが、口を挟む。
「できるよ。」
高さんが、撃退する。
「いや、できないね。」
金さんが、混ぜっ返す。
「そんなこと、あるかよ。できるよ。」
私は、お二人のやりとりを横で見ながら、愉快になった。この国の人々は、人との付き合いを、実に楽しんでいる。
高さんが他の観光客と応対している間、少しの時間金さんと私だけになった。
金さんは、私に椅子を薦めて座らせて、私に言った。
「僕は、大阪に住んでいた。だから、言葉が大阪弁だろ?」
言われてみれば、確かにイントネーションが、大阪弁であった。
私は喜んで、大阪弁に切り替えて、言った。
「いやー、そやね。その通りですわ。」
金さんは、もう36年間も、独り暮らしをしていると言う。
彼は、私に言った。
「君も、独り者なんだって?ま、独りでいた方が、気楽なもんだけれどね。お金は、全部自分で使えるし。妻を持って、子供を持ったら、うんとお金を使わなくてはならない。家庭を持った方が幸せかどうかなんて、分からないよ。でも、韓国の息子たちは親孝行だから、息子を持たないと不幸だって、言われるんだけれどね。」
聞けば、韓国では親が困窮していたならば、子供は援助しなければならないという、法律まであるという。
この国では、儒教の心がいまだに息づいていると思った。私は日本人で、親不孝者だ。
高さんが戻って来て、笑って私に言った。
「韓国の娘を、貰ってくれよ。だめかい?」
私は、あわてて手を振って、答えた。
「人をモノみたいに、貰うことはできませんよ。土産物ならば買えるけれど、人はモノじゃない。それは、人をバカにしていると、いうもんです。」
金さんは、言った。
「そうだな。韓国でも、いっぱい国際結婚しているけれど、その三割が破綻している。外国人と結婚するのは、やっぱり難しいもんだ。」
高さんは、私に言った。
「でも、韓国の娘は、かわいいだろ?そう、思わないかい?」
確かに、美人が多い。ひょっとしたら、日本より多いかもしれない。
これから後、どこに行こうと思っているのかと問われて、私は答えた。
「巨済島に行こうと、思っています。」
高さんは、聞いた。
「へえ、なんで?」
私は、言った。
「巨済島に行けば、対馬島(テマド)が見えると、本に書いてありましたので。」
高さんは、ハハハと笑いながら、否定した。
「巨済島からじゃあ、対馬島は見えないよ。対馬島って、この辺りじゃないか。遠すぎて、見えないよ。」
高さんは、私が持っていた韓国の地図の右端に、指で楕円を描いた。
高さんは、付け加えた。
「対馬島ならば、太宗台(テジョンデ)に行けば、いいんだ。今日なんか晴れているから、たぶん見えるよ。影島(ヨンド)が、いちばん対馬島に近いんだ。そう、そう、ここだ。」
高さんは、地図の裏側にあった釜山の地図の上を、指差した。
そうか。
ならば、今日はこれから、太宗台に行くことにしよう。
そう、決めた。
何でも聞けばよいとおっしゃるので、私はさらに聞いた。
「この辺で、美味い店って、ありますか。」
高さんは、答えた。
「チャガルチに行けば、何だって安くて、美味い。入って、欲しいものを頼めばいいんだ。辛いのが苦手ならば、辛くないようにしてくれって言えばいい。最近の日本人は、辛いのが平気になってきたようだね。昔の日本人は、韓国の料理は辛くってだめだって、嫌っていたもんだ。僕は、日本料理は大好きだよ。かつおぶしのの味が、うまい。しょうゆの味も、うまい。日本人は、焼き魚をしょうゆだけで食うのが、好きなんだろ?」
私は、塩を振って焼いた魚を、しょうゆと大根おろしだけで食べるうまさを、言った。
高さんは、そうそうとうなずいた。
「僕は、中国に行っても、食事がうまいと思った。でも、日本人は、中国の料理は苦手かも、しれないな。油っこくて。」
私はむしろ、中国の料理は「ウマミ」を愛する心に欠けているのではないかと言いたかったが、このときはうまく言うことができなかった。
いろいろと長話をして、私はお二人と別れた。
そういうわけで、これからチャガルチに戻って、入った店でめしを食う。それから、影島の太宗台に、赴くことにしよう。明日は、巨済島行きはやめにして、その代わりに李舜臣将軍の海戦の跡である、統営(トンヨン)に足を運ぶことに決めた。
後で『街道をゆく』を読み返したら、確かに巨済島は対馬島が見える島であるに、違いない。
だが、今日の私は、文献よりも人の言葉を、信じることにした。

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