大阪・生野・コリアンタウン
2009年06月14日
大阪環状線から300メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。
その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。
大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。
店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。
チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。
この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。
6月14日、ワンコリアフェスティヴァルの催しを、当初からかれこれ25年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。
コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫(しゅんせつ)工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」
背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。
「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。
「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」
もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4%で、神戸や横浜よりも高い比率であった(文京沫『済州島四・三事件』所収の資料より)。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であったのだ。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね?」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。
会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」
戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であった。
このニ道には、最も重要な日本への定期航路が、開かれていた。
一つは、釜山から下関への、関釜連絡線。
金達寿(キム・タルス)の小説『玄界灘』で、「釜山港!関釜連絡線!そこは朝鮮人にとってどんなところであり、どんなものであっただろうか」と書かれた、連絡航路であった。ここを通って、数多くの半島人が、日本に渡ってきた。
そしてもう一つが、済島道から大阪への連絡線、「君が代丸」であった。
大正十二年(1923)、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」(文京沫『済州島四・三事件』pp36より)。
こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。
とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来た。
御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、店の看板として飾られているのを、見かけた。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来も分からない頃から島にあった、遺跡であった。
石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑(チェジュウプ)の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
(下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。)
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この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。
「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。
東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」
このパネルは、(年度は失念したが)ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」
御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。
現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」
私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉(まがたま)がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品(あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品)と、同時代性を感じる。
チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました-」
彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。
「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」
ただの余談だが、私は、個人的にはチョン会長の意見とは違った意見を持っている。
日本語と韓国・朝鮮語は、その基礎語彙が全く一致しておらず、古い起源を遡れば、おそらく何の関係もない言語だったであろう。
それなのに互いに意思疎通ができたのは、東アジアを巻き込んだ、交流の結果だったのではないか、と私は思う。
隣に文化大国の中国を控えて、周辺諸国である日本と朝鮮半島諸国は、くに作りのために文化を積極的に吸収していった。文字を学び、言葉を輸入し、そしてくにが組織されれば、隣国との外交もまた活発になっていった。
こうして、人の交流がさかんとなった結果、言語と文化が似通ったものとなった。
日本語と韓国・朝鮮語は、大量の中国語由来の言葉を輸入した結果、語彙に非常に重なりが生じて、文法までそっくり似たものとなった。そのため、まるで兄弟言語であるかのように、現代の両国語は似ている。これはもともとが生まれの兄弟だからだったのではなくて、かつて親しかったから似通った姿となった、名残りなのではないだろうか?(さらに余談だが、似たような現象は、英語とフランス語にも起きている。英語の真の兄弟言語はドイツ語だが、英語はフランス語からの圧倒的な影響を歴史上受けたために、現代は語彙・文法が最もフランス語に近く、ドイツ語からは遠ざかっている。)
1500年ほど昔の日本、朝鮮半島、中国の東アジアは、後の時代よりもずっと盛んに、互いが行き来していた時代があったに違いない。
(クリックすると、拡大します。)
今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津(なにわつ)。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇(5世紀)と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。
古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江(なにわのほりえ、運河)、茨田堤(まんだのつつみ、堤防)、猪甘津の小橋(いかいつのおばし、橋)といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった(日本書紀に、「難波高津宮(なにわたかつのみや)」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない)。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。
かつて、百済郡(くだらぐん)と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅(くだらえき)という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済(ペッチェ)人のコロニーと、関わりがあった。
「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」
半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏(はたうじ)は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか?
新羅の都である慶州(キョンジュ)は、盆地の中央を兄山江(ヒョンサンガン)が、南北に流れている。
百済の都であった扶余(プヨ)もまた、同様であった。白馬江(ペンマガン)が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇(8世紀)。
この天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか?
会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」
わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。
Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。
彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか?
、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか?
それとも、川面の水の、色なのだろうか。
そんなことを、思ったりする。
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ワンコリアフェスティバル http://hana.wwonekorea.com/
多文化交流会 at Tsuruhashi
2009年06月21日
6月20日、鶴橋本通にある韓国伝統茶店「ハナ」で、多文化交流会がありました。
「ハナ」とは、韓国語で「ひとつ」という意味です。
私は、先週あった「ワンコリアフェスティヴァル」の集会の席でもらったチラシをつてに、JR鶴橋駅から歩いていきました。
この日は、夏至の前日。
厨房以外の明かりを消し、冷房も消して、再利用の廃キャンドルを点しての交流会。
かつての時代の夜を再現した、エコナイトでした。
主催した手塚さんと山中さんの、アイディアです。
「ハナ」は、普段は韓国伝統茶のお店です。
壁には、著名なイラストレーター、黒田征太郎氏の絵が、いっぱいに描かれています。
キャンドルライトの下、集まった皆さんと、楽しく会話しました。
喫茶店ですが、今夜はマッコリをメニューに出していただきました。これがなくっちゃ。
アンジュ(つまみ)として、駅前でチヂミとチョッパル(豚足)を買ってきました。
持ち込みOKのパーティーでしたので。
マッコリといえばチヂミかな~と、思ったので。
聞けば、チヂミの焼ける音は、雨の音だとか。
その音を聞きながら、雨の日にチヂミをアンジュに、マッコリを楽しむ。それが、韓国の風流というものなのかな?
-この日は梅雨の最中で蒸し暑かったものの、雨は降りませんでしたけれど。
手塚さんは、韓国語の講師もやっています。
韓国に留学までして、韓国語をマスターした、すごい人です。
山中さんは、オーストラリア留学中に韓国人と知り合ったことを通じて、隣国に興味を持たれたと聞きました。
今夜集まった人々は、いろいろなきっかけで、多文化交流の集いに集まったみなさんでした。
私が隣国に興味を持ったきっかけは、今年2月に行った、韓国旅行からでした。
私は、自分が感動した三つの点を、皆さんに説明しようとしました。
하나 – 한국의 길이 아주 아름다웠어요.
ひとつ-韓国の道は、きれいだったです。
둘 – 음식이 다 싸고, 그리고 맛있었어요.
ふたつ-料理がみな安くて、そして美味かったです。
셋 – 사람의 인정에 감동했어요.
みっつ-ひとびとの人情に、感動しました。
実際には、こんなにすらすら言っていません。
私の韓国語は、まだまだです。
私は、「道がゴミもなくてきれいだった」と言おうとして、
아름다웠어요. アルムダウォッソヨ。
の言葉を使ったら、手塚さんから、「その場合はむしろ、『ケックタダ』(清い、清潔だ)のほうがいいですね。」と教えられた。
私が「ケックタダ」のハングルを書けないでいると、彼女はすらすらと「깨끗하다」とカードに書いてくれた。
「『アルムダプタ』は、『わあ、素敵できれい!』といった感じの、言葉です。」
「あと、『コップタ(곱다)』っていう言葉もありますよね。その違いは?」
「たとえば、年配の方が綺麗なチマチョゴリを着ていたりしたとき、『コップタ』ですね。」
日本語ならば「清楚だ」って、感じだろうか。
さすが、上手に指摘なさる。
韓国語で「趣(おもむき)」は、モッ(멋)といいます。
멋이 있어요. モシ イッソヨ。
と言えば、「趣があります」=「すばらしい」と言う意味になります。
今晩は、まことに、モシ イッソッソヨ。(すばらしかったです)